下
案の定、母が件の犬について、誰かに話す事は無かった。
というよりも、部屋に帰ると自分の夫が事切れていたのだから、それどころではない。
室内に荒らされた痕跡は一切無く、しかし寝ていた父の首だけは酷い有り様で、煎餅布団はたっぷりと血を吸っていたらしい。
「警察呼んだらサイレンの音でアンタ起きちゃうし、事情聴取中にお隣さんとか、あの人の家族が押し掛けてきたり、色々あって大変だったんだよ」
「そりゃ大変だ」
当時の事を思い出し語る母の湯呑みに、二杯目のお茶を注ぐ。自分の湯呑みにもお茶を足してから、私も椅子に腰掛けた。
淹れたてのお茶を飲んで火傷しそうになった母が、一息ついてから話を続けた。
「アンタも就職して、私もやっと一人の時間が出来たでしょ? そしたらねぇ、何か、急に思い出して……」
何だったんだろうね、と母は首を傾げる。
たかが二十年ちょっとしか生きていない小娘に、そんな狐につままれたような出来事の解説を求められても参ってしまう。
「あはは」と適当に笑いながら、私の視線は宙を泳ぐ。
「……でもさ、母さん、運良かったんじゃない? その犬の相手してなかったら、母さんまで酷い目に合ってたってことじゃん」
「そうじゃなくてさー……もう、この子はいつも適当なんだからぁ」
母は子供のように
事実、彼女の視線は、私が茶菓子に出した芋羊羹に移っている。
むふふ、と笑う母は、ちょっと子供っぽいと思う。
「やっぱ緑茶には芋羊羹だよねぇ」
「そうだねぇ」
芋羊羹は母の大好物だから、たまに会う際には必ず用意している。
還暦を過ぎたとは思えぬ食欲の持ち主である母は、既に二本目の芋羊羹に手を付けていた。
嫌いな物は分かり辛いが、好きな物は分かりやすい人で本当に良かったと、常々思う。
「この羊羹、バターで焼くともっと美味しいらしいのよ!」
「流石にそれはカロリーヤバくない?」
「ヤバくないわよぉ、美味しい物は大丈夫よぉ」
……母の話に合わせながら、一度だけ、母側のテーブルの下に視線を向けた。
今日も、大きな真っ白い犬が居る。
母から離れずに、大人しく伏せて眠っている……ように見えるが、この犬が本当に眠っていた事など一度も無い。
その口元に、乾いた血がこびり付いていなければ、もう少し微笑ましい光景だったかもしれない。
「……どしたの?」
「あ、」
陽気にお喋りを続けていた母が、突然私の心配をし始めた。不味い。
不安そうな母の声に反応して、犬の耳が動き、ほんの一瞬、緑色の視線が私に向けられる。
――己の喉を左手で擦ると、まだ繋がっていた。
「いや、ちょっと……羊羹、食べ過ぎたかも?」
「あらまぁ。もう、私に合わせる事無いから、ゆっくり食べなー」
適当な言い訳をすると、母は微笑んでくれた。それでもまだ心配しているのは、彼女の優しさなのだろうか。
けれど私は、足元の犬が気になってしまう。ちらりと視線を落とすと、犬は再び寝たフリをしていた。
□□□
「じゃあ、気を付けるんだよ。最近物騒な事ばっか起きてるんだから」
「そう言う母さんもね」
「私はもうおばあちゃんだから良いの! アンタはまだ若し一人暮らしだし、いつもボーッとしてるし……やっぱり心配ねぇ」
玄関先でそんなやり取りを繰り返した後、母は上機嫌のまま帰り道を行く。
例年通り、どこかで観光をしてから、友人へのお土産を買って新幹線に乗るのだろう。
通年通り、彼女が近付く観光地と、彼女の利用する交通機関だけは、何のトラブルも起きない。
それでも、母に寄り添って歩く真っ白い犬など、誰にも視えていない。
正確な時期は不明だが、少なくとも私の物心が付いた頃から、その犬は母の側に居る。
自宅も出先も関係無く、屋外だろうが屋内だろうが、犬は母の足元にずうっと憑いている。
母が平穏な生活を続けている間は静かに、母の身に何かが起きそうになれば僅かに身動ぎ、何かは勝手に納まってしまう。
……正直に言うと、私は、あの犬が恐ろしくて仕方がない。
視線を向けられただけで、全身から脂汗が溢れてしまう。
どこに居ても目立つ真っ白い毛が視界にちらつくと、心臓を掴まれたような不安感に苛まれる。
あのおぞましい口元なんて、出来れば二度と見たくない。
大学進学と同時に上京して、年に数回しか母と会わなくなった今も、私の世界で一番恐ろしい存在のままだ。
静まり返った自室で、テーブルの食器類を片付けながら、母の昔話を思い出す。
やはり、あの犬は私を嫌っているのだ。
母に無条件に愛されている存在だからか、父との血縁関係からなのか、きっと理由は一生分からない。
薄暗い室内で、傷の無い自らの喉元を撫でる。まだ繋がっている安心と、いつ穴が開くか分からない不安に嫌気が差して、視線を床に向ける。
白い毛が落ちていた。
(了)
送り犬では無く、 ひととせ @sushi-umai
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