第5話 二つの危機

 料亭「花鳥風月」の門をくぐった瞬間、私は息を呑んだ。


 手入れの行き届いた日本庭園。

 池には錦鯉が優雅に泳ぎ、松の枝振りは見事という他ない。

 石畳の向こうに見える数寄屋造りの建物は、まるで絵画のような美しさだった。


「緊張しているな」


 隣を歩く皓様が、小さく呟いた。


「は、はい……すみません」

「謝ることではない。当然の反応だ」


 皓様は相変わらず黒い紋付袴姿で、その立ち姿は凛としている。

 私は月読家で用意してもらった藤色の振袖に身を包んでいた。



 ……朝、鏡で見た自分の姿が、まだ信じられない。

 髪も侍女さんたちが丁寧に結い上げてくれて、高級そうな簪が光っている。


 でも、中身は相変わらずの如月詩織。

 名家の子女が集う茶会なんて、場違いもいいところだ。


「背筋を伸ばせ」

「はっ……はい」


 皓様の言葉に、慌てて姿勢を正す。いつも俯いてばかりだから、なかなか前を見れない。


「君は月読家の客人だ。誰に遠慮する必要もない」

「でも……」

「いいから、私について来い」


 有無を言わせぬ調子で、皓様は歩を進める。

 私は深呼吸をして、その後に続いた。


 案内された大広間には、既に大勢の人が集まっていた。


 どの人も、一目で分かる上流階級の方々。

 着物の質も、身のこなしも、私とは別世界の人間だ。


 そんな中に、如月家の面々を見つけた。


(あ……)


 義母様は深い緑色の訪問着。

 撫子は朱色の振袖で、いつも通り華やかだ。

 父も紋付袴で、少し居心地悪そうにしている。


 私たちの姿を認めた瞬間、三人の表情が凍りついた。


 特に撫子は、信じられないものを見るような顔で私を見つめている。

 無理もない。昨日まで使用人同然だったみすぼらしい私が、こんな姿で現れたのだから。


「月読様がいらっしゃいました」


 誰かの声で、広間の視線が一斉に私たちに向けられた。


 ざわめきが起こる。


「まあ、あの方が月読家の……」

「お美しい……」

「隣にいらっしゃるのは、どなた?」

「さあ……でも、なんて綺麗な方でしょう」


 聞こえてくる囁き声に、顔が熱くなる。

 俯きたい衝動を必死で堪えて、皓様の少し後ろを歩く。


 主催者として、皓様が上座に向かう。

 私はどこに座ればいいのか分からず、立ち尽くしていると――


「詩織、私の隣に」


 皓様が私を手招きした。


 その瞬間、広間の空気が変わった。

 月読家当主の隣といえば、特別な位置だ。


 恐る恐る皓様の隣に座ると、視線の重さがさらに増した。


 好奇の視線。

 羨望の視線。

 そして、明らかな敵意の視線も。


 美津子様と撫子は、下座の方に席を取っていた。

 その目には、怒りと困惑が入り混じっている。


「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」


 皓様が口を開くと、広間が静まり返った。


「月読家主催の茶会にようこそ。本日は、皆様に紹介したい方がいます」


 そう言って、皓様は私を見た。


 心臓が早鐘を打つ。

 まさか……。


「如月詩織殿です。月読家の大切な客人として、本日はお招きしました」


 再びざわめきが起こる。


「如月……如月家のご令嬢ですか?」

「でも、如月家の令嬢といえば、撫子様では……」

「いえ、確かもう一人、姉君がいらしたはず」


 憶測が飛び交う中、美津子様が立ち上がった。


「月読様」


 その声は、表面上は落ち着いているが、よく聞けば震えている。


「詩織は、確かに如月の娘ですが……その、まだ若く、このような場には不慣れでして」

「心配は無用です、如月夫人」


 皓様の声は、穏やかだが有無を言わせぬ響きがあった。


「詩織殿は、月読家が責任を持ってお預かりしています」


 お預かり、という言葉に、また広間がざわついた。


 それは普通の関係では使わない言葉だ。

 まるで、婚約でもしているかのような……。


「お、お姉様……」


 撫子の呟きが、かすかに聞こえた。


 その顔は青ざめ、美しく化粧した顔が台無しになっている。

 握りしめた扇子が、小刻みに震えていた。



 そんな緊迫した空気の中、茶会が始まった。


 お茶が振る舞われ、季節の和菓子が運ばれてくる。

 私は作法を思い出しながら、なんとか恥をかかないように振る舞った。


 でも、緊張で手が震える。

 茶碗を持つ手に、じっとりと汗が滲んでいた。


「力を抜け」


 皓様が小声で言った。


「君は良くやっている。堂々としていればいい」

「は、はい……」


 その言葉に、少しだけ緊張が和らぐ。

 深呼吸をして、もう一度姿勢を正した。

 大丈夫。皓様が隣にいてくれる。


 その時、美津子様が席を立った。


「申し訳ございません。少し気分が……」


 顔色を悪くしながら、美津子様は広間を出ていく。

 心配そうな顔をした撫子が後を追おうとしたが、美津子様は手で制した。


 ……嫌な予感がした。


(義母様……?)


 でも、この場で私が動くわけにはいかない。

 皓様の顔を窺うが、彼は変わらず穏やかな表情で茶を飲み、時折知り合いらしき方と歓談している。


 きっと、大丈夫。

 そう自分に言い聞かせて、私は茶会に集中しようとした。


 しかし、胸の奥の不安は、どうしても消えてくれなかった。



 そうして茶会が進んでいた、その時だった。


「きゃああああ!」


 突然、庭園の方から悲鳴が上がった。

 甲高い女性の叫び声に、広間の空気が凍りつく。


「何事ですか?」

「今の声は……」


 皆が不安そうに顔を見合わせる中、庭園に面した障子の向こうに、異様な影が映った。


 大きい。

 人ではない、歪な形。

 のたうつような動きで、庭園を這い回っている。


「な、なんですか……あれは!?」


 誰かが障子を開けた瞬間、広間は恐慌状態に陥った。


「うわああっ、化け物ぉ!」

「嘘でしょう!?」

「何なのあれ! いやああっ!」


 庭園には、この世のものとは思えない異形の存在がいた。


 どろどろとした泥のような体に、無数の目玉。

 その目玉が、ぎょろぎょろと不規則に動いている。


 令嬢たちが悲鳴を上げ、我先にと出口に殺到する。


 着物の裾を踏み、転ぶ人。

 泣き叫ぶ人。

 腰を抜かして動けない人。


 まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。


(あれは、札鬼……! でも、どうしてこんなところに!?)


 私は皓様を見た。

 彼の表情は険しく、既に立ち上がっている。


「詩織、ここで待っていろ」

「でも、皓様も危険では……!」

「私の心配は無用だ。すぐに片付ける」


 皓様は袴の裾を翻し、庭園へと向かっていく。

 逃げ惑う人々の流れに逆らって進むその姿は、まるで激流に立ち向かう岩のようだった。


 私は座ったまま、どうすればいいか分からずにいた。


 広間は既にほとんど無人。

 残っているのは、腰を抜かした数人と、私だけ。

 その時――


「お母様ぁ! 助けて! 怖いよう!」


 別棟の方から、子供の悲鳴が聞こえてきた。

 小さな子供の、恐怖に震える声。

 泣きじゃくる声が、建物に響き渡る。


(子供が……!?)


 考えるより先に、体が動いていた。


 皓様には待っていろと言われた。

 でも、子供が危険に晒されているのを、黙って見ていることなんてできない。


「すみません、皓様……!」


 私は振袖の裾をたくし上げ、声のする方向へ走り出した。

 廊下は逃げる人々でごった返している。

 

「どいて!」

「早く外へ!」

「化け物が来るぞ!」


 恐慌状態の人々をかき分けて進む。


 肩がぶつかり、髪が乱れる。

 でも、そんなこと構っていられない。


「助けて! 誰か!」


 子供の声がまた聞こえた。別棟への渡り廊下を駆け抜ける。


 別棟は茶室として使われている離れだった。

 人影はない。

 皆、本館から逃げ出したのだろう。


「どこ!? どこにいるの!?」


 私は叫びながら、部屋を探し回る。

 一の間、二の間、水屋……どこにも子供の姿はない。


(おかしい……確かにこの辺りから声がしたはずなのに)


 不意に、背筋に冷たいものが走った。


 ――静かすぎる。

 さっきまで聞こえていた泣き声も、人々の喧騒も、ぴたりと止んでいる。


 そして、私は気づいてしまった。

 

 子供の声は聞こえたけれど、その距離は常に一定であったことに。

 それに、この茶会に呼ばれるにしてはあの声は、あまりに幼すぎることに。


(まさか……)


 罠だ。


 振り返ろうとした瞬間、入り口を塞ぐように巨大な影が立ちはだかった。


「札、鬼……!」


 松の木のような節くれだった腕を持ち、その腕から無数の赤い短冊のような触手が生えている。

 庭園にいたものとは違う、より大きく、より禍々しい存在。


「まさか……私を狙って……?」


 震える声で呟く。

 逃げ道はない。札鬼は出入り口を完全に塞いでいる。


 そこにカツ、カツ、と草履の音が聞こえてきた。

 優雅で、ゆったりとした足音。

 まるで、獲物を追い詰めた狩人のような……。


「ようやく二人きりになれたわね、詩織」


 札鬼の背後から現れたのは、義母様だった。


 いつものように上品な笑みを浮かべている。

 でも、その目には狂気じみた光が宿っていた。


「お義母様……」

「あなたにそう呼ばれるたびに虫唾が走るわ」


 義母様の笑みが、醜く歪んだ。


「忌まわしい前妻の子。使用人もどきが、どうやって月読家当主をたらしこんだのかしら」

「違います、私は……!」

「あら、口答え? いやねぇ。折檻したほうがいいかしら」

「……っ」


 射すくめるような義母様の瞳。

 ……怖い。

 子供の頃の恐怖心が今も体に刻まれ、動けなくなる。


「その……札鬼はいったい、何なんですか」

「私の術よ。それより、札鬼を知っているのね。月読のお坊っちゃんに聞いたのかしら? なら話が早いわ」


 義母様の手が動く。同時に、巨大な札鬼が一歩こちらに近づいてくる。


「あなたの血が目障りだったのよ。いじめて起きないようにしようとしていたのに、まさか覚醒するなんてね」

「……美津子様。あなたは、一体……」


 迫りくる札鬼。このままでは、きっと殺されてしまうだろう。

 私は辺りを見回し、武器になりそうなものを探す。


 ……あった。

 隅に立てかけてある、掃除用の箒。ここにはそれしかない。

 走り、それを掴む。竹刀や木刀と比べても、なお頼りない握り心地だ。


「あら、箒で札鬼と戦うつもり? 面白い子ね。そんな細い棒切れで、この松の札鬼と戦えるとでも思うの?」

「……っ」


 私は箒を手に取り、柄の部分を構えた。

 剣道の中段の構え。

 義母様の言うとおり、こんなものであの巨大な怪物に勝てるはずもない。

 でも、黙ってやられるわけにはいかない……!


「ふふふ……いいわ。あがいてみなさい。あなたがいたぶられて苦しむ姿、楽しみだわ」


 美津子様が指を鳴らすと、札鬼が唸り声を上げて動き出した。

 赤い触手が、鞭のようにしなって襲いかかってくる……!



 月読皓は、庭園の札鬼を一瞬で斬り捨てた。


 月光を纏った一太刀は、泥のような異形を塵へと変える。

 騒ぎを聞きつけて集まってきた使用人たちが、その圧倒的な力に息を呑んだ。


「当主様、ご無事で……」

「けが人はいるか?」


 皓の問いに、使用人の一人が答える。


「数名が転んで傷を負いましたが、大事には至っておりません」

「そうか。手当ては不要だな。札鬼を見た者は記憶操作だ。夕霧家に送っておけ」

「はっ」


 皓は指示を出しながら素早く辺りを見回した。

 詩織の姿がない。


(待っていろと言ったはずだが……)


 眉を顰める皓の元に、一人の少女が駆け寄ってきた。


「皓様……月読様!」


 如月撫子だった。

 朱色の振袖は乱れ、丁寧に結い上げた髪も少し崩れている。

 その顔は青ざめ、瞳には涙が浮かんでいた。


「如月撫子か……」

「は、はい……皓様、大変なんです!」


 撫子は皓の袖を掴んだ。

 震える手。上目遣いの瞳。

 計算され尽くした「か弱い乙女」の演技だ。


「詩織お姉様が……お姉様が危ないんです!」

「何?」


 皓の表情が鋭くなる。


「彼女をどこで見た?」

「あちらの東屋の方で……化け物に追われて、逃げていらしたんです」


 撫子は建物の奥を指さした。

 人気のない、離れた場所にある東屋の方向。


「私、怖くて……でも、お姉様を助けなきゃって……」


 震え声で訴える撫子。

 その瞳の奥に、暗い炎が宿っている――。


「分かった。案内しろ」

「はい!」


 撫子は内心でほくそ笑んだ。


(思った通り、簡単に釣れたわ)


 母から教わった通りだ。

 男なんて、か弱い女の涙に弱い。

 ましてや大切な人が危険だと聞けば、冷静さを失うものだ。


(お姉様が大事っていうのがムカつくけどね……)


 密かに苦虫を噛み潰しながら、撫子は皓とともに東屋へと向かった。


 人気のない渡り廊下を進む間、撫子は懐に忍ばせた札の感触を確かめる。


 『牡丹に蝶』の呪詛札。

 母が「最後の切り札」と言って渡してくれたもの。


「この辺りで見たのか?」


 東屋に着いた皓が辺りを見回す。人の気配はない。詩織の姿も、札鬼の痕跡もない。

 何かが妙だ――彼の瞳が鋭くなっていく。


「はい……確かにこの辺りで……」


 撫子は皓の背後に回った。


 今だ。

 相手が油断している今しかない。


 震える手で札を取り出す。

 牡丹の花に、艶やかな蝶が舞う絵柄。

 美しくも妖しい札から、甘い香りが漂い始めた。


「月読様」


 撫子は声を作った。

 甘く、艶っぽい声。


「私を……見てくださいませんか?」


 皓が振り返ろうとした瞬間、撫子は呪文を唱えた。


「――花に酔い、蝶と舞え。現し世の理を忘れ、ただ美しきものに魅入られよ」


 札が妖しく光る。

 そこから、無数の蝶が舞い出した。


「何――」


 紫色の燐粉を撒き散らしながら、幻想的に舞う蝶たち。

 その羽ばたきと共に、甘い香りが東屋を満たしていく。


「これは……」


 皓の動きが止まった。

 蝶が彼の周りを舞い、燐粉が降り注ぐ。

 その瞳が、一瞬、焦点を失ったように見えた。


「ふふ……効いてきたみたいね」


 撫子は札を胸に抱き、ゆっくりと皓に近づいた。


 母から聞いた話では、この札は相手の理性を奪い、術者に魅了される呪術だという。

 どんなに強い男でも、この蝶の舞には抗えない。


「月読様……いえ、皓様」


 撫子は皓の目の前に立った。

 朱色の振袖が、蝶の舞と共に揺れる。

 上目遣いで皓を見上げ、最高の笑顔を作った。


「詩織お姉様のことなんか、忘れてください」


 白い手を、皓の頬に伸ばす。


「私だけを見て。月読家に相応しい、如月家の令嬢は私だけですわ」


 蝶の数が増えていく。

 東屋全体が、紫色の燐粉で霞んでいく。

 甘い香りは、もはや毒のように濃密だった。


 皓の瞳が、ゆらりと揺れた。

 その視線が、熱を伴って撫子に注がれる。


「撫子……」


 皓が撫子の名を呼んだ。

 その声は、どこか夢見るような響きがある。


(やった! 効いてる!)


 撫子は歓喜した。


 これでこの男は自分のもの。

 詩織なんかより、あの地味な姉なんかよりも自分を選ぶ。

 月読家当主の妻になれる。今よりもっと、欲しいものは何でも手に入れられる――!


「そうよ、皓様。私を見て」


 撫子は背伸びをして、皓の顔に自分の顔を近づけた。


 あと少し。

 あと少しで、この美しい男を我が物にできる。


 しかし――


 その瞬間、皓の瞳の奥で何かが光った。

 月のような冷たい光。

 それは一瞬で、紫色の妖気を切り裂いていく。


「え……」


 撫子が驚愕の声を上げる間もなく、異変は起きた。


 舞っていた蝶たちが、次々と燃え始めたのだ。


「きゃあっ!? な、何!? なんなのよ!?」


 銀色の炎に包まれ、蝶たちが灰となって消えていく。

 甘い香りは、焦げ臭い匂いに変わった。


 でもそれ以上に恐ろしかったのは、皓の顔が徐々に無表情になっていくことだった。

 夢から覚めるように、その瞳に意識が戻ってくる。

 そして、そこに宿ったのは……


「なんとも――愚劣な女だな」


 氷のような、冷たい怒りだった。

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