第2話 札鬼『柳に燕』

 茶会前日の放課後、私は一人で教室の掃除当番をしていた。


 もう生徒はほとんど帰ってしまい、廊下から聞こえてくるのは遠くの運動部の声だけ。

 黒板を消しながら、明日のことを考える。


 ……明日はいよいよ月読家との茶会。撫子のための、大切な日。


 私は粗相のないよう、心の中で何度も作法を確認していた。


「お姉様」

「わっ……」


 突然の声に振り返ると、教室の入り口に撫子が立っていた。一人だった。いつもなら取り巻きの女の子たちと一緒なのに。


「撫子……?」

「掃除当番? 大変ね」


 撫子は教室に入ってきて、私の手元を見た。

 その声は、いつもの棘のある調子ではなく、妙に優しい。


 ……何か、変だ。


「ごめんね。もうすぐ終わるから」


 私は曖昧に答えて、黒板消しを動かし続けた。

 撫子は窓際まで歩いていき、夕日を眺める。


「明日、いよいよね。月読様との茶会」

「……うん」


 撫子の横顔は、夕日に照らされて美しい。でも、その表情は読めない。


「それで、お姉様」


 撫子が振り返った。いつもの意地悪な笑顔ではなく、真面目な顔をしている。


「ちょっと相談があるの。明日の茶会のことで」

「相談?」

「そう。大切な話だから、二人きりで話したいの」


 私は手を止めた。撫子が私に相談なんて、今まで一度もなかった。撫子が私に近づいてくる。


「この後、時間ある?」

「う、うん。大丈夫よ」


 断る理由なんてない。掃除が終われば、私はただ家に帰るだけだ。

 それから家族の食事を作ったり、掃除をしたり……とにかく、私の時間というものは基本的にはない。


「旧校舎裏の桜の木の下で待ってて。三十分後くらいに」

「わかった……でも、どうして旧校舎なの?」

「誰にも聞かれたくない話だからよ。お願い、お姉様」


 もしかしたら、撫子も明日のことで不安なのかもしれない。

 相手が帝都一の名家月読家ともなれば、緊張もするだろう。姉として、相談に乗ってあげるべきなのかも……。


「……うん」


 私は頷いた。撫子の顔に、満足そうな笑みが浮かぶ。


「ありがとう、お姉様。じゃあ、後でね」


 撫子は軽やかな足取りで教室を出て行った。


 一人残された私は、また黒板消しを動かし始める。でも、胸の奥で小さな不安が渦巻いていた。


(本当に、ただの相談……なんだよね?)


 窓の外を見ると、夕日がもう西の空を赤く染め始めていた。

 旧校舎は、この時間になると人気がなくなる。

 私は掃除用具を片付けて、撫子の指定した時間まで暇をつぶすことにした。



 三十分後、私は旧校舎裏の桜の大木の下にいた。


 もう生徒の姿は見えない。古い木造校舎は夕闇に沈み始め、大きな桜の木が不気味な影を落としている。


「遅いわよ、お姉様」


撫子の声がした。振り返ると、彼女は桜の木にもたれかかるようにして立っていた。

 その手には、何か小さなものを持っている。


「ご、ごめんね。それで相談って……?」


 近づいてみて、私は息を呑んだ。撫子の手にあるのは花札だった。

 でも、普通の花札じゃない。「柳と燕」が描かれた札から、なにかどす黒い気配が漂っている。


「ええ、相談よ」


 撫子がにっこりと笑う。でも、その笑顔は獲物を前にした猫のようだった。


「お姉様に、明日の茶会を諦めてもらう相談」

「え?」

「あら、聞こえなかった? お姉様は明日、茶会に出なくていいの。体調不良ってことにしておいてあげる」


 撫子の笑顔は、もう完全に勝ち誇った悪意のあるものに変わっていた。


「だって、考えてもみてよ。月読様がお姉様なんか見るはずないじゃない。地味で、暗くて、女らしさのかけらもない」

「撫子……」

「あ、そうそう。蓮先輩、知ってる? 『詩織といると息が詰まる』って言ってたわよ。『撫子といる方がずっと楽しい』って」


 ……胸が痛む。彼は本当にそんなことを言っていたのだろうか。

 でもそれよりも、撫子の手にある札が気になった。


「その札は、何?」

「これ? お母様からもらったの。特別な力があるんですって」


 撫子は札を掲げた。


「お姉様は知らないでしょうけど、世の中には不思議な力があるのよ。この札で、ちょっと懲らしめてあげる」

「撫子、やめて。そんなもの——」

「黙って!」


 撫子の声が鋭くなった。私の肩が思わず跳ねる。


「いつもいつも、お姉様は私の邪魔ばかり! 何もできないくせに、どうして私より目立とうとするの!」


 ……私が、目立とうとしている?


「知ってる? 如月家の令嬢を2人とも参加させるよう言ってきたのは、月読家の方からなんですって。つまり、万に一つ……あなたが選ばれる可能性もあるの」

「お、落ち着いて、撫子。そんなことは……」

「あるのよ! だって、アンタは――!」


 撫子は何かを言いかけたがそれを途切れさせる。札を高く掲げ、何かの呪文を唱え始めた……!


「——穢れし者よ、柳の下に集いて燕となれ。恨みを糧に、憎しみを翼に」


 札が不気味な紫色の光を放ち始める。その瞬間、空気が変わった。


 ぞわり、と全身の産毛が逆立つ。

 喉の奥が急に渇いて、呼吸が浅くなる。

 まるで見えない何かに首を絞められているような息苦しさ。


(こ、これは……!?)


 本能が叫んでいる。逃げろ、今すぐここから逃げろと。

 でも、足が動かない。まるで地面に根が生えたように、その場に立ち尽くしてしまう。


 撫子の手の中で、花札が黒く脈動し始めた。

 どくん、どくん、と生き物の心臓のように。

 その度に、周囲の空気がねじれ、歪んでいく。


 地面から、何かが染み出してくる。

 最初は黒い水たまりのようだったそれが、みるみるうちに盛り上がり、形を成していく。


 腐敗臭が鼻を突いた。生臭く、甘ったるい死の匂い。

 思わず口を手で覆うが、その匂いは肺の奥まで入り込んでくる。


「ひっ……」


 声にならない悲鳴が漏れた。

 地面から這い出してきたそれは、もはや生き物とは呼べない何かだった。


 柳の枝のようでいて、どこか人の腕のようにも見える無数の触手。

 その先端には、燕の形をした影がまとわりついている。

 でも、その燕たちの目は真っ赤に爛れ、嘴からは黒い液体が滴っている。


(な……なんなの、これは……!?)


 冷たい汗が背中を伝い落ちる。膝が震えて、今にも崩れ落ちそうだ。


「さあ、お姉様。せいぜい苦しんでね。そして二度と、私の前に現れないで!」


 撫子の高笑いが、薄暗い旧校舎裏に響き渡った。


「こ、これは……!? この怪物は、なに……!?」


 地面から完全に這い出した怪物は、私の想像を遥かに超えた大きさだった。

 柳の大木が根こそぎ動き出したような巨体。

 無数の触手が不規則にうねり、その周りを燕の影が狂ったように飛び回る。


「お姉様を襲——」


 撫子の命令は、最後まで言い終わらなかった。


 燕の赤い目が、ぎょろりと撫子を見下ろす。まるで、獲物を品定めするかのように。


「え?」


 撫子の顔から、血の気が引いた。

 次の瞬間、柳の触手が撫子に向かって振り下ろされた。


「きゃあああああ!」


 撫子は間一髪で横に飛びのいたが、触手は地面を抉り、土煙を上げた。その威力に、撫子の顔が恐怖で歪む。


「ち、違う! あなたが襲うのはお姉様よ! 私じゃない!」


 必死に札を掲げて命令しようとするが、怪物は全く聞く耳を持たない。

 それどころか、より凶暴性を増していく。


「なんで! お母様は、ちゃんと言うことを聞くって……」


 その時、燕の影の群れが撫子を取り囲んだ。

 真っ赤な目が無数に瞬き、甲高い鳴き声が響き渡る。


「いや! 来ないで!」


 撫子が逃げようとした瞬間、柳の触手が彼女の足首を掴んだ。


「いやあああ! 離して! 離しなさい!」


 触手は撫子を引きずり、宙に吊り上げる。彼女の悲鳴が夕闇に響いた。


「助けて! 誰か! お母様! お父様!」


 必死に叫ぶ声。でも、ここには誰もいない。

 撫子自身が――たぶん私を始末するために――人気のない場所を選んだのだから。


「助けて……ッ、お姉様!」


 撫子の目が、私を見つけた。

 恐怖に歪んだその顔は、もういつもの高慢な妹ではなかった。ただの怯えた女の子だ。


「助けて! お願い! 死にたくない!」


 悲痛な彼女の叫び声を聞きながら、私は、動けなかった。


(助ける? ……撫子を?)


 心の中で、暗い声が囁く。


(この子は、私を消そうとした。橘先輩を奪い、家では虐げられ続けてきた。

 今だって、私を傷つけようとして、あの化け物に襲われているだけ。自業自得じゃない)


 触手が撫子の体を締め上げる。彼女の顔が苦痛に歪む。


(ここで逃げれば、全てが終わる。撫子はいなくなり、明日の茶会も、これからの日々も、少しは楽になるかもしれない。

 撫子さえいなくなれば、お父様も、お義母様も私を見てくれるかもしれない。……愛してくれるかもしれない)


「お姉様! お姉様ああ!」


 撫子の必死の叫びが、私の思考を遮る。


(でも——)


 私は、震える手を見つめた。


(ここで撫子を見捨てたら、私は一生、この手を見る度に思い出す。妹を見殺しにした手だって)


 胸の奥が、きりきりと痛む。


(そんな私を、誰が愛してくれるの? 妹を見殺しにした私を?)


 何より——。


(そんな自分を――私自身が愛せない)

「……助ける」


 呟いた言葉は、自分でも驚くほどはっきりしていた。

 札鬼の触手が、撫子をさらに高く吊り上げる。燕の影が、彼女の体に群がり始める。


「いや! いやああああ!」


 もう時間がない。

 私は震えを押し殺し、学生鞄を開けた。中から、自主練習用の木刀を引き抜く。

 こんなもので、あの化け物に勝てるはずもない。でも——


「撫子!!」


 走り出していた。恐怖で足はもつれ、手は震えている。それでも、走る。


「今助けるから!」


 撫子の目が、信じられないものを見るように見開かれた。


「お姉様……?」


 札鬼が私に気づき、新たな触手を向けてくる。


「撫子から離れなさい!」


 木刀を構える。剣道の型なんて、こんな化け物相手に何の意味もない。

 それでも、これしか私にはない。

 触手が唸りを上げて迫ってくる。


(……怖い!)


 でも、足は止まらない。


(死ぬかもしれない)


 でも、引き返せない。

 たとえ撫子が私を憎んでいても、私は——


「私は、見捨てないから!」


 木刀を振り上げた瞬間、突然、温かい何かが全身を包み込んだ。

 私の髪に結んだリボンが、眩い光を放っている。まるで春の陽射しのような、優しくて力強い光。


「……っ!?」


 桜の花びらが、どこからともなく舞い始めた。

 幻のように儚く、でも確かにそこにある花びら。それが、木刀に纏わりついている。


「……やあぁッ!」


 温かい光に包まれたまま、私は木刀を振り下ろした。

 すると、ただの木刀から桜色の光が迸る。

 まるで春の嵐のように、無数の花びらが刃となって怪物に襲いかかる……!


 ざぁっ、という音と共に、柳の触手が切り裂かれた。

 黒い血のようなものが飛び散り、怪物が耳をつんざくような悲鳴を上げる。


「ギャアアアアアアッ!!」

「うそ……」


 撫子が呆然とした声を上げた。切断された触手から解放され、地面に落ちる。


(な、何なのこれは……!?)


 私も、自分の起こしたことが信じられなかった。

 手の中の木刀は、まだ桜色の光を纏っている。


(なんだかわからない……けど、体の奥から知らない力が湧き上がってくる)


 これは、一体……。

 その時、視界の端で撫子が立ち上がるのが見えた。そして——


「ひいぃっ……!」


 小さな悲鳴を上げて、撫子は走り出した。これでいい。少なくともあの子は逃げられるはずだ。

 代わりに怪物は怒り狂い、残った触手を全て私に向けてきた。

 さっきとは比べ物にならない殺気。

 そして、その無数の赤い目に、明らかな悪意が宿っていた。


 私は木刀を構え直した。もう一度、さっきと同じように——!


「はあぁっ!」


 迫る触手に振り下ろした木刀。

 ……しかし。


 今度は、何も起こらなかった。


「え?」


 ただの木刀が、触手にぶつかって跳ね返される。衝撃で手が痺れた。


「な、なんで……!?」


 触手が、まるで嘲笑うかのようにゆらゆらと揺れる。

 そして、鞭のようにしなって私の脇腹を打った。


「ぐっ……!」


 激痛に膝をつく。でも、立ち上がらなければ。

 木刀を杖にして、よろよろと立ち上がる。


 今度は足を狙って触手が迫る。

 咄嗟に木刀で受けるが、圧倒的な力の差に吹き飛ばされた。


「きゃあ!」


 地面を転がり、木刀が手から離れる。

 慌てて取りに行こうとするが、触手が容赦なく私の腕を打ち据えた。


「あぁっ……!」


 痛みに涙が滲む。でも、諦めない。諦めたら、本当に終わりだ……!

 這いずって木刀に手を伸ばす。指先が柄に触れた――


(あと少し……っ)

「ギギギィィィ……!」


 その瞬間、触手が私の足首を掴んだ。ゴツゴツした植物が巻き付く感触に、背筋が凍る。


「いやっ!」


 そのまま恐ろしい力で引きずられ、宙に吊り上げられる。

 さっきの撫子と同じ状況。だけど、今度は誰も助けてはくれない……!

 怪物は、まるで獲物をいたぶる猫のように、私をゆらゆらと揺らす。


「う……ぐぅ……!」


 もう声も出ない。体中が痛んでいた。

 怪物の無数の目が、私を見下ろしている。もう遊びは終わり、とでも言うように。

 太い触手が、とどめを刺すために振り上げられる。


(ここで、終わりなの……?)


 思わず目を閉じる。


 その時——



「――月華一閃」


 静かで、けれど圧倒的な力を持つ声が、夕闇を切り裂いた。

 銀色の光が、まるで満月のように輝きながら、怪物を一刀両断する。


「ギャアアアアアア……!!」

「痛っ」


 叫ぶ怪物。私の足首を掴んでいた触手が緩み、私は地面に落ちた。


(な、何が起きたの……? 私、助かった……?)


 軽く手を握り、体の感触を確かめる。痛みはあるが、折れた場所はなさそう……。

 それから、身体を起こす。すると――


 そこに立っていたのは、この世のものとは思えないほど美しい青年だった。


 銀髪が陽の光を受けて輝き、紫色の瞳は静謐な光を宿している。

 黒い外套を纏い、手には銀色に光る日本刀を持っていた。


「ゲゲゲゲ……」


 真っ二つに切り裂かれた怪物が、黒い霧となって消えていく。

 ……なにがなんだかわからない。

 だけどとりあえず、危機は去った……のかな。


「い……っ」


 忘れていた痛みで声が漏れる。

 青年はゆっくりと刀を鞘に収め、私を見下ろした。

 その瞳が驚きに見開かれ、光を宿す。


「奇妙な気配に駆けつけてみれば……やはり先ほどの光、『桜に幕』の力か」

「……?」


 彼は私の傍らに膝をつき、私の髪を一房持ち上げた。

 その手がくすぐったく感じられる。……彼は、私の髪のリボンを見ていたようだ。


「あの……あなたは……」


 震える声で問いかける私に、青年は静かに答えた。


「月読皓。月読家の跡取りだ」


 ……月読様。明日の茶会で会うはずだった人。

 でも、なぜここに……?

 皓様は立ち上がり、私に手を差し伸べた。


「立てるか?」

「あ……」


 その手を取ろうとして、でも、自分の手が血で汚れていることに気づいて躊躇する。

 先ほどの戦いのときに、どこか擦りむいたのだろうか。


「血か? 気にするな」


 皓様は構わず私の手を取り、グイと力強く立ち上がらせてくれた。

 その手は、冷たいけれどどこか優しかった。

 そして、真っ直ぐに私の目を見つめて言う。


「如月詩織。桜花の血を引く者よ」

「え?」

「貴女には、私の花嫁になってもらう」

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