声をかけること

幌井 洲野

(1)その人

 ある秋の日の午後、若い小説家のカツベアヤミ、出版社でアヤミの担当をしている編集者のカワズルアズサ、そして、アズサの弟で大学生のヨウスケは、東京の都心の大きな植物園の中を歩いていた。アヤミは、自宅のある滋賀県の大津市から、新作小説の取材でこの植物園を訪れていた。それに同行するのが、アヤミの担当編集者であるアズサである。実は、アズサとヨウスケも大津市出身だが、二人は現在は姉弟で山梨県に住んでいる。アズサはそこから東京西部の出版社に通い、ヨウスケは自宅のすぐそばの大学に通っていた。同郷の三人は、仕事を通じて姉弟のように仲が良かった。今日の植物園訪問は、本来は、アヤミとアズサの仕事なのであるが、アズサの弟でもあるヨウスケも、「観光がてら」二人についてきていた。


 植物園は、大部分が雑木林になっていて、園内は、奥の方になるほど深い林になっている。三人がそこの遊歩道に足を踏み入れると、木々の間の下草の間に、なにか横たわっているものが見えた。三人が近づくと、それは倒れている人間だった。倒れているのは、若い女性である。アヤミやアズサより多少歳上だろうか。丈の短い茶色い秋物のコート、ベージュのセーター、ワイン系のスカート姿である。


 その人は仰向けになっていて、腕はだらんと力なく広がり、目と口は開いているように見えた。胸も上下していない。


 秋の陽が木々の間を抜けて、ところどころ、落ち葉の上に明るい斑点をつくっている。けれどその人のまわりだけ、すこし空気の温度が違うような気がした。アズサがアヤミの隣で立ちすくむ。こわごわとした表情で、隣のアヤミを見て聞く。


「死んではるの?」


 アヤミは、アズサに、


「大丈夫やん。もし死んではったら噛みついたりせえへんから」


と静かに言って、その人の前に出て立ち止まった。しばらく何も言わず、倒れている人をじっと見てから、その人に声をかけた。


「あの、ちょっと、起きてはります?」


 返事はない。何か妙な静寂があたりを包む。アヤミが言う。


「この人、起きてへんようやな。けど、ずっと前から倒れてはったら、もうとっくに誰かほかの人が見つけてはるはずやから、ここに来はったんは、ついさっきやな」


 この遊歩道は、園内の奥まったところにあるので、人通りは少ないのだが、それでも一時間に何回かは散策者が通る。アズサは、アヤミの後ろでやや恐ろし気にその光景を見ていた。しばらく考えたような顔をしたあと、アヤミに尋ねる。


「やっぱ、死んではるん?」


 アヤミが答える。


「目ぇも口も開いとって、息もしてはらへんようやから、多分な」


 ヨウスケが口を開く。


「救急車? 警察呼ぶか?」


 アヤミがそれに応えて、


「警察呼べば、一緒に救急車も来てくれはるやろ」


と言い、自分で警察に連絡する。電話を切ったアヤミが、


「この人、さっきまで生きとったんやろね」


とつぶやく。すると、アヤミの後ろにいたアズサが、


「さっき死にはったんなら、ウチの冷蔵庫に入ってるお肉の方が、もっと前に死んどるし、怖くないな」


と言う。隣にいたヨウスケが横から入った。


「あのな、お姉ちゃん、人とお肉を比べたらあかんで」


 アズサは、「あっ」という表情を見せて、口を閉じた。三人のあいだに、もう一度静けさが戻ってくる。


 アヤミはその間ずっと、倒れている人を静かに、そしてじっと見ていた。しかし、アヤミが見つめている、その人はもう動くことはなかった。アヤミが静かに言う。


「そやね。この人もまださっきまで生きてはったんなら、まだ死んではるのと生きてはるのの間くらいかも知らんし、警察来るまで、うちらで見守ったろ」


 警察が到着した。相次いで、救急隊や植物園のスタッフも現れた。倒れていた人は、もうすでに死んでいることが分かり、救急隊はその人を運ばずに帰って行った。代わりに警察車両がその人を収容する。その間、三人は第一発見者としてその場で簡単な事情聴取を受けた。


 現地で簡単な検視の結果、あの場に倒れていた人は、亡くなってから少なくとも数時間が経っていた。ということは、三人の前に通りかかった人に見つからなかったのなら、自分で歩いてきたのではなく、死んだ後に誰かに運ばれてきたということになる。自分で歩いてきて倒れたのなら病気や事故の可能性もあるが、死んでから運ばれてきたのなら、「事件」となるだろう。しかし、単なる「第一発見者」の三人は、状況が事故でも事件でも、対応に大した変わりはない。三人は、関係者が去った後、静かにその場を離れた。

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