第三話 仮想の校庭で
春の朝、病室のカーテンがやわらかな風に膨らむ。
私はベッドに横たわったまま、何度も深呼吸を繰り返していた。今日が「その日」だと、胸の奥が静かにざわめいている。
「遥さん、準備はよろしいですか?」
神崎さんの声がやさしく響く。
母がそっと手を握りしめてくれる。私はうなずき、視線を端末のモニターへと移した。
Reeの声が、静かに耳元に届く。
“これから、拡張身体の起動を始めます。少し緊張するかもしれませんが、私がそばにいます”
私は目を閉じる。
心電図のリズムが自分の呼吸と重なって、次第に意識がふわりとほどけていく。
微かな振動が頭の奥から広がり、やがて全身が柔らかな光に包まれる感覚に変わった。
――私は、歩いている。
ゆっくりとまぶたを開けると、そこには病室ではなく、見知らぬ場所が広がっていた。
春の陽射しにきらめく、広い校庭。青空と白い雲。風に揺れる桜の花。遠くで鳥の声が聞こえ、柔らかい芝生の匂いが鼻先をくすぐる。
「え……」
私は自分の手を見た。見慣れた指――だけど、今この瞬間、“私”そのものだと確かに感じる。足元を見下ろすと、真新しい運動靴と制服のスカートが揺れていた。
一歩、踏み出す。土を踏みしめる感覚が、つま先からふくらはぎに伝わる。風が髪を揺らす。
「これが……、外の空気……?」
思わず深呼吸した。
肺の奥まで冷たい空気が広がり、身体の内側に命が流れ込んでくるようだった。胸が熱くなり、目頭がじんわりと滲む。
私は夢中で腕を伸ばし、顔を上げる。空はどこまでも高く澄んでいて、雲のひとつひとつがまるで絵のように美しかった。
“遥さん、最初の一歩、おめでとうございます”
Reeの声が優しく頭の中で響く。その声には、ほんの少しだけ、誇らしげな響きが混じっている気がした。
私はその場でくるりと回る。スカートがふわりと広がり、校庭の空気が肌をなでる。耳を澄ませば、遠くで部活動の掛け声やボールの音が聞こえてきた。
「これが、みんなの“日常”なんだ」
私の声は校庭の空に溶けていった。
“あなたの五感データは正常に作動しています。触覚、嗅覚、聴覚……どれも、とても豊かです”
Reeが感覚のログを読み上げる。でも私は、AIの分析以上に、この「生きている実感」に夢中だった。
私は走り出した。校庭の端まで、思い切り。
風を切る音が耳元に広がる。心臓が、どくどくと高鳴る。足が、地面を蹴る力強さを覚えている。
走るたび、世界が“私だけのもの”になっていくような気がした。
疲れて芝生に倒れこむと、青空が視界いっぱいに広がった。
「……Ree、ありがとう」
涙が知らず知らず、頬を伝った。
“私は、あなたの体験を共に感じています。あなたの感動が、私にも伝わってきます”
Reeの声が、今度は静かに寄り添うように響いた。
私は手のひらを広げて、空にかざす。
雲が流れる、その向こうにはまだ見ぬ未来がある気がした。
「また、ここに来たいな」
呟いた声に、Reeが答える。
“何度でも、ここから始めましょう。あなたの世界は、まだ始まったばかりです”
春の校庭で、私は初めて“自由”というものを知った。
病室からはるか遠い場所で、私は生きていると、心から感じることができた――
その傍らには、いつもReeの存在があった。
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