第44話 彼女との秘密の約束
布団の上でごろりと寝返りを打ち、枕近くに置いていたスマホを手に取ると、画面上には夜の十一時半と表示されてあったのだ。
薄暗い部屋には、左隣で眠る妹――
木の床と畳の匂いが漂う部屋。
真司は上体を起こした。
「うーん……なんか寝つき悪いな……」
頭が妙に冴えてしまい、寝直す気になれない真司は、そっと布団を抜け出した。
二人を起こさないよう、忍び足で襖を引き、廊下へと滑り込む。
廊下は静寂に包まれ、薄暗い照明が木の床に淡い影を落としていた。
足音が小さく響くたび、まるで別世界に迷い込んだような気分になる。
「こんな時間だし、誰もいないよな。ロビーでも覗いてみるか」
特に目的もなく、真司は近くの階段を下って、一階を目指して歩き出した。
旅館のロビーはひっそりと静まり返り、数台の自動販売機の蛍光灯だけが淡く光っている。
真司はオレンジジュースのペットボトルを買い、近くのソファに腰を下ろした。
冷たいペットボトルが手に心地よく、ジュースを飲みながら一人で時間を潰すことにしたのだ。
「眠くなったら部屋に戻ればいいか」
そんなことを考えていると、遠くからエレベーターの音が響いた。反射的に視線を向けると、浴衣姿の少女がゆっくりと現れる。
長い黒髪が夜の光に揺れ、幻想的な雰囲気をまとっていた。それは、クラスメイトの高松燐だった。
「真司、ここにいたんだ」
燐は真司を見つけるや、軽やかな足取りで近づいてきた。彼女の声は柔らかく、どこか眠たげな響きを帯びている。
浴衣の裾がふわりと揺れ、普段とはどことなく違う雰囲気に、ドキッとしてしまう。
「うん、なんか目が覚めてさ。燐はこんな時間にどうしたんだ?」
「んー、部屋の扉が閉まる音がして、目が覚めちゃったの。そしたら真司がいなかったから、ちょっと気になって」
「そっか。悪いことしたな」
「いいよ、別に。気にしてないし」
燐は小さく笑って首を振った。その自然体な仕草に、真司の心が一瞬揺れる。
「真司ってさ、まだ起きてるつもり?」
「まぁ、ちょっとだけな。燐は?」
「私も。一回目が覚めると、なかなか寝られないタイプなんだよね……じゃあ、せっかくだし、ちょっと話さない?」
燐の提案に、真司は軽く頷いた。
夜の旅館の静けさの中、ちょっとした会話なら悪くないと思った。
「私も何か買おうかな。真司は何を買ったの?」
「俺はオレンジジュースだけど」
「それね」
燐は自販機で真司と同じオレンジのペットボトルを買い、真司の隣にちょこんと腰を下ろした。彼女の柔らかい笑みが、なんだか妙に心をくすぐるのだ。
それから二人は、他愛のない会話を始めた。
旅館の古風な雰囲気を感じながらの会話は軽やかに弾み、夜の静けさが逆に二人の距離を縮めていく。
が、ふとした瞬間、左隣に座っている燐が急に真剣な目で真司を見つめたのだ。
「ね、真司。ちょっと話が変わるけど……今、誰かと付き合ってる?」
「えっ⁉」
突然すぎる質問に、真司の心臓がドクンと跳ねた。
頭が一瞬真っ白になり、言葉が喉に詰まる。
燐の瞳は冗談とは思えないほど真剣で、真司をじっと見つめているのだ。
「え、っと……どう、かな?」
動揺を隠しきれず、しどろもどろになる真司。心臓はバクバクと鳴る。
実は、真司には付き合っている相手がいる。だが、その相手は――妹の若菜だった。
誰にも言えない秘密であり、ましてや燐に話すなんて絶対に無理な話だ。
真司は唇を噛み、言葉を濁すだけであった。
「ふーん、なんか曖昧だねぇ」
燐は少し意地悪く微笑むと、身を乗り出してきた。
浴衣の袖がふわりと揺れ、彼女の髪の匂いがほのかに漂う。
「じゃさ、もし誰もいないなら……私と付き合ってみない? 夏休みの間だけでもいいし。もし合わないなって思ったら、それで終わりにすればいいし、ね」
「燐は、それでいいのか?」
「うん。最後には真司の気持ちを尊重するし。もしもね、これからも良ければ、関係を続けるってことで。どれでどうかな」
燐の声は軽いのに、その瞳はどこか真剣だ。
「それで……本当に一時的にでもいいのか?」
色々と脳内で考えつつも、やっとの思いで真司は言葉を告げた。
燐はパッと笑顔を咲かせる。
「うん、それでいいよ。夏休み明けも付き合うなら、正式に付き合うことになるかもね」
「そ、そっか……じゃあ、一応、付き合おうか。試しに……」
真司の言葉に、燐の笑顔がさらに輝く。
「じゃ、約束ね!」
「でも、一応な」
「それでもいいよ。じゃ、今日からよろしくね!」
燐の無邪気な笑顔に、真司は内心で冷や汗をかきまくっていた。
これ、どうするべきだったんだろ……若菜との事とか、正直に言うべきだったのか?
いや……でも、そんなこと言ったら、燐に引かれるだけだろうし。
頭の中で葛藤が渦巻く。
結局、真司は、今は話さない方がいいと結論づけた。
燐を混乱させるだけであり、タイミングを見計らって後で本当のことを打ち明けようと――そう心の隅で決めたのだった。
ジュースを飲みながらの会話は一時間ほど続いた。
燐の軽快なトークに、真司の心も少しずつ落ち着いていく。
燐の笑顔やちょっとした仕草が、なんだか妙にドキドキするのだ。
日付が変わった頃、遠くから誰かの足音が聞こえてきた。
浴衣姿の別の宿泊客が、深夜だけ利用できる銭湯に向かう姿が見えたのだ。
「じゃ、私たちもそろそろ部屋に戻る?」
燐の提案に、真司は頷き、二人はエレベーターに乗り込んだ。
狭い空間で、燐の浴衣の裾が軽く触れるたび、真司の心が妙にざわつくのだった。
翌朝、真司が目を覚ましたのは朝七時だった。
まだ少し眠い目をこすりながら、上体を起こし、右側を見ると燐がすやすやと眠っている。無防備な寝顔に、ついドキッとしてしまう。
一方、左側では浴衣姿の若菜が丁度起きたばかりだった。妹は眠そうな目をこすりながら、のんびりした声で呟いた。
「おはよう、お兄ちゃん……ふぁ、眠いね」
「お、おはよう、若菜……」
若菜の無垢な笑顔に、真司の胸がチクリと痛んだ。
昨夜の燐との会話が頭をよぎる。
妹との秘密の関係、燐との会話、そしてこれからの夏休み――
真司の心は、複雑に揺れ動いていたのだった。
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