熒(ほたるの光)

            ☩

 

 遠くから、チロチロと小川のせせらぎが聞こえてくる。近くに水場があるのだろうか。その音は静かに流れ込み、頭に溢れていた金属的な耳鳴りを押し流した。あたりに静寂が現れた。湿った土と若草のにおいが顔に、触れる。

 

 目をあけても暗闇で何も見えない。開けたつもりだったが、目蓋は閉じたままなのだろうか。瞳を凝らすと、おぼろげな白い点が漂ってくる。眼球に残っている幻か。白い光点はあたり一面に現れ始めた。確かに光だ、柔らかく瞬く白い光。どこかで見たことがあるが、いつ? どこで? なぜか懐かしく……

 

 光りは雪のように降り始めた。そしてどんどん速くなり、もう目で追うことはできない。わたしは、どこへ行くのだろうか。



            ☩


 水辺の木道を父に寄り添って、ゆっくり歩いた。昼間の暑さが嘘のように涼しい、むしろ肌寒いくらいだ。繋いだ手の熱が伝わってくる。周りを歩く人々はカップルばかりだった。肩が触れる。浴衣から透けるかおり。  

 足もと ……サワサワ…サァ…キャ…キォッヶテ…ネ…ハジメテ…オャ…ソォ…タノシィ…ソゥ…ァァ…サワサワ…… 耳。ささやき声だけが、なぜか沁みるように響く。手をぐっと握った。

 

 月明かりもない暗闇の中を、前の人影の後をゆっくりと進む。ふわっとため息が広がる。足を止めてあたりを見あげると、白い光の点が取り囲んでいる。

 ……わぁあ……ぁあ…きれい……きれいね……ぁあ…ほんと……でも……すぐ……しぬ…んでしょ……あぁ……とても…きれいに、ほたる……


 ―――みてごらん、ほたる。わたしは瞬く光の中にいた。初めて、ほたるを見た。美しくもどこか冷たい光。わたしも光と共に浮かび、こころは共に明滅した。



            ☩


 ——―おかえり。玄関戸を引き開ける音。廊下のきしむ音。薄暗く優しい明りが灯る居間、どこか懐かしい畳の匂い。


 仏壇の母と娘の遺影をぎこちなく見つめた。心の中で ―――ただいま、そうつぶやいた。まだ素直になれない……


 ひんやりする夜具、ふすまの隙間から差し込む弱々しい光。父はただ一人、酒瓶を傾けているようだ。未だに、こんな毎日を送っているのだろうか。


 やがて暗闇が支配する。明滅する規則的な時計の音だけが、闇の向こうから聞こえる。眠気を邪魔するようで、誘うような音。わたしの心は時を越えて、飛んだ。もうすぐ、ほたるの季節だ。



            ☩


 わたしは、重い足取りで終電に乗った。酔いつぶれた男が一人、暗い車窓にもたれるように眠り込んでいる。 

 

 ―――次は新○ノ宮駅…… 私は乗り過ごしていた。このまま乗り続ければ故郷に近い○川渓谷、幸せだったころのほたるの記憶が…… 


 わたしは、あの溪谷に掛かる橋の上にいた。これは夢だろうか、蛍の光が見えたような気がした。橋の上から小川を眺めた、やはり、ほたるの光は一つもなかった。まだほたるの季節には早い。


 こころはだった。風に浮くようにとなった。涙がながれ雫となった。雫は浮かんだかと思うと、橋の上へ向かって離れて行くように見えた。あれは誰の涙? ほたるの夢は消えていた。わたしは、吸い込まれるように暗い闇の中へ落ちていった。


 ただ、ほたるが見たかっただけ、そうすれば…… ひかりが燃え上がった。



            ☩


―――おかえり。おれは玄関を開けた。しかし、そこには誰もいなかった。また飲み過ぎてしまったようだ。


 一匹のほたるがスーっと入って来た。ずっと、ほたるは見ていなかった。おや、まだほたるの季節には早いはずだが? これはまぼろしか。もう今日は、これ以上飲むのは止めようか。


 おれは床に就いた。心臓の鼓動は、ほたるのように静かに瞬いた。ふと胸にこみあげる。ほたるが戻って来たのなら、消えた心の先にも、ほんの僅かだとしても、ほたるのような小さなひかりが灯ることだろう。






           ☩☩☩


 ―――後書き――― 蛍の成虫の一生は2週間ほどだ。この僅かな時、命の最後の光を灯す。これは単に儚く美しい光ではない、命をつなぐ過酷な競争の光なのだ。たとえ叶わなくとも、最後の時まで……

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