硝子ノ森

秋犬

月の光はレモンの香り

 ぱきり ぱきり


 石英の欠片を踏みしめて、僕はランタンを片手に森の奥へ奥へと向かう。月は青々と光り輝き、結晶化した木々の間を抜けて地表へ降り注ぐ。この森は硝子がらすの森と呼ばれ、常夜とこよの国と僕らの村の境界線に位置していた。


 るるぅ るるぅ


 透明な木の間を駆け抜ける風の音が響き渡るが、それを聞いているのは僕しかいない。この森に生き物は住んでいなかった。常夜の国から吹き付ける凍てついた瘴気しょうきによって、木々は氷のような姿になる。森の奥に進めば進むほど、吐く息すら凍り付くような冷たい風が人間の行く手を阻む。


 そして僕の目的の場所も、煌めく森の中に冷たく鎮座していた。透き通った重い扉を開けて、僕は天井まで透き通って月明かりがよく差し込む神殿の中を進んでいく。


「姉さん」


 僕の声を聞いて、神殿の中央に座っている姉さんは頭をあげた。


「また来たのね、アルメオ」


 月の光のように優しい姉さんの声が神殿の中に響いた。


「だって、姉さんと話が出来るのは今日が最後だから」


 僕は改めて姉さんを見つめる。何もかもが凍り付く瘴気を浴びて透明になるこの森に幽閉されている姉さんは、向こう側が見えるほど透けてしまった。以前は血の通っていた手も、今は冷たく光を通すばかりだ。


「これは定めですから、参らねばなりません」

「わかってるよ」


 僕は台座の上から動けない姉さんの前に腰を下ろす。そうして、いつものように姉さんにいろんな話を聞かせた。この森の外にある僕らの村の出来事、川や小鳥のようなこの森にはないもの、そして僕の父さんと母さんのこと。姉さんはいつも楽しそうに聞いてくれた。


「そうしたらね、父さんは本当に夜水晶よるすいしょうが欲しかったら全財産を持ってこいなんてケチな商人に言うんだ」

「まあ、おかしいわね」


 僕は姉さんが笑うところがどうしても見たくて、掟破りであることはわかっていても夜ごとに神殿に忍び込んでいた。


「ねえアルメオ、またあなたの顔を触らせてちょうだい」

「いいよ」


 僕は姉さんの差し出す手の前に顔を出す。氷ともまた違う、すべすべした感触が僕の顔を撫で回す。姉さんの心のうちが手を通して、僕にも伝わってきた。


 ――今夜が最後だから。


 この先にある常夜の国は、果てしない暗闇と瘴気の渦まく土地だった。常夜の民は僕たちとは違う身体をしていて、暗闇の毒に負けない姿をしている。族長の息子の僕は彼らに何度かあっているが、僕らとは違う毛むくじゃらの恐ろしい姿をしていた。


 そんな彼らに、僕らは頭が上がらない事情があった。常夜の国は鉱物資源が豊富で、僕らは彼らから石を買い取ることで代々暮らしてきた。特にそこで採れる「夜水晶」という鉱石は大変希少で、夜空を濃く煮詰めたような不思議な輝きを放っている。常夜の民はここでしか採れない夜水晶を採掘することと引き換えに、僕らとこんな取り決めをしていた。


『百年に一度、人間の女を常夜の嫁として捧げること』


 常夜の民は僕らより寿命が長い。だから百年に一度で良いとされているが、その一度にぶつかった人間は溜まったものじゃない。定めとして選ばれた娘は常夜の国で生きていけるよう、視力を奪われた後にこの硝子の森で少しずつ瘴気に触れて常夜の空気に慣れ、そして十六歳の誕生日に常夜の国へ嫁入りする習わしだった。


「姉さん。姉さんは森の外へ行きたいと思ったことはない?」


 姉さんの冷たい手をとって、僕は尋ねた。


「いいえ。私はずっとここにいたから、外が怖いわ」

「それじゃあ、常夜の国はもっと怖い?」

「そうね……優しい方がいらっしゃればいいわ。あなたのようにね」


 目の見えない姉さんにとって、外の世界は恐ろしい場所なんだろう。でも僕にはこの冷たい世界に閉じ込められている姉さんが不憫で仕方がなかった。村の人は姉さんを「供物」と呼んで、どうせ常夜の民のものになるならと名前もつけなかった。父さんも母さんも、自分の娘のはずなのに姉さんを構うことはなかった。


 だから、僕が姉さんを「姉さん」として常夜の国に送り出したかった。そして、姉さんにはアルメオという弟がいたことを知っておいてほしかった。


「そうだ、お土産があるんだ」


 僕は懐から檸檬れもんを取り出して、姉さんの手に乗せた。この前の交易で手に入った、この辺りでは貴重なものだった。


「船乗りが食べる果物だよ。お日様の匂いがするんだ」


 姉さんは檸檬を自分の頬に押し当てる。凍てつくような神殿の中に、初夏のような爽やかな空気が流れた。


「これが、あなたの話すお日様……」


 姉さんは胸いっぱいに檸檬の香りを吸い込んだ。この森に日の光が入ることはない。昼間の時間も薄暗い瘴気に覆われていて、月明かりのある夜のほうが明るいくらいだった。


「とてもかぐわしい、これが光なのね」


 姉さんがぽつりと呟いた。こんな冷たい暗いところで、ひとりでずっと瘴気を浴び続けるなんて、なんて残酷なことなんだろう。でも姉さんがそれを受け入れているなら、僕がどうこう言えるものではない。


 ――逃げようよ、一緒に。


 そんな言葉を喉の奥にとどめて、僕は美しい姉さんを見る。月の光を浴びてきらきらと光っている姉さんは、もう森の外に出ることはできない。


 僕は一度でいいから、日の光を浴びている姉さんを見たかった。きっと優しくて、とても美しい女性だったはずだ。でも、もし姉さんが選ばれていなかったら僕はこんなに姉さんを素敵だと思っただろうか。取り留めなく考えていると、姉さんが僕に檸檬を返そうとした。


「それは姉さんにあげるよ。大事にして」

「でも……」


 遠慮がちに檸檬は僕と姉さんの間を彷徨った後、姉さんの懐に収まった。


「ありがとう。大切にするわね」


 僕は姉さんの顔が見られなくなった。姉さんが頭を振る度に、結晶化が進んで透明になった髪がきらきらと月光の中で踊った。こんな素敵なものが、常夜の国に行くなんて耐えられない。


「ねえ」


 僕が声を紡ぐより早く、姉さんが口を開いた。


「さあ、もうお帰り。私の輿入こしいれ、しっかり見てね」


 それを聞いて、僕はもう訳がわからなくなった。姉さんは全てを受け入れているというのに、僕はなんて浅はかな奴なんだ。


「わかった、また明日ね」


 僕は涙を堪えてランタンを持つと、姉さんに背を向けた。美しく結晶化した木々もその間をすり抜ける月光も、粉々になった石英の粉も全部僕には関係なかった。姉さんが幸せならそれでいいんだ。何度もそう自分に言い聞かせて、僕は家に帰った。


 翌日、僕は父さんに連れられて姉さんの輿入れの儀式に参加した。全てを受け入れた姉さんは、台座ごと常夜の民に連れられて、常夜の国の入り口である穴の中へと降りていった。


 神殿は次の「供物」が備えられるまで閉鎖されることになり、僕は常夜の民と会うとき以外硝子の森に入ることはなくなった。台座のあった場所は、もう何の香りもしなかった。そして二度と、姉さんに会うこともなかった。


***


 それからずっと時が流れた。父さんが族長の座を退き、跡を継いだ僕は硝子の森で常夜の民との交易を続けていた。僕も結婚して子供を持ち、やがて息子へ跡を継がせようかという年になった。


「今年採れた上物ですよ」


 その年の交易で、僕はひときわ美しい夜水晶を受け取った。見る者を虜にするような、不思議な暗い光をその石は放っていた。


「これは素晴らしい。言い値を出しても惜しくない。いくらだ?」


 常夜の民は、とびきりの夜水晶でも他の夜水晶と変わらない値段をつけた。僕は金額を上乗せして、もっと見つけてきたら更にいい値段で買い取ることを伝えた。夜水晶は人の心を狂わせるほど、美しい石だ。どんな値段でも買い取る好事家はたくさんいる。


 村に帰ってから、僕は買い取った夜水晶を更によく見ようと日の光にかざした。すると、中に何か入っているのが微かに見えた。ドキリとした僕は少し惜しかったけれど、夜水晶を割ってみた。すると中から乾いた檸檬の皮が現れた。


 ――これが光なのね。


 姉さんの声が聞こえたような気がした。僕は割った夜水晶を拾い上げると、頬に押し当てた。果てのない暗闇と凍るような瘴気、その中に一筋差し込んだ、柔らかな月の光と鮮烈な檸檬の香り。光り輝く夜水晶が僕に優しく囁きかけてきた。


 ああ、あの日確かに姉さんは光を見ることが出来たんだな。


 いつの間にか夜水晶は濡れていた。僕はずっと夜水晶を頬に押し当て続けた。僕が光を姉さんに見せたんじゃない、姉さんが光そのものだったのだ。


〈了〉

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