第7章:過去の傷、未来の形
「……昔、俺、名前を変えたんだ」
ある静かな午後。
仕事を終え、怜の部屋でのんびりとコーヒーを飲んでいたときだった。
拓也はふとした拍子に怜の古いサイン入り資料を見つけ、不思議に思って声をかけたのがきっかけだった。
「怜って、ペンネームだったのか?」
「うん。……前の名前、使いたくなかったから」
カップを指先でなぞりながら、怜はぽつりぽつりと話し始めた。
「俺、昔……暴かれたんだよ。“男なのに恋愛漫画なんて気持ち悪い”って、ネットで叩かれて。顔も、本名も、晒されて」
「……!」
「最初は無視してた。でも、だんだん編集部にもクレームが来て、嫌がらせの郵便まで届いた。仕事も途切れて……気づいたら、全部怖くなってた」
拓也は、何も言えずにその話を聞いていた。
「それからは、人に顔を見せるのが怖くなって。誰にも心を見せないようにした。“秘密主義”なんじゃなくて……ただ、隠れて生きるしかなかっただけなんだ」
静かな語り口の中に、痛みがこもっていた。
「でもね、拓也といると、ちょっとだけ忘れるんだ。“また裏切られるかもしれない”って恐怖も、“どうせ笑われる”って諦めも」
拓也はそっと怜の手を取った。
その指先が、震えていた。
「……そんなこと、絶対させない。怜が何を描いても、どんな顔してても、俺が全部受け止めるよ」
「……信じて、いいの?」
「信じて。これは約束じゃなくて、“決意”だから」
拓也の言葉に、怜の目が揺れた。
そして、静かに頷いた。
「……ありがとう、拓也。君がいてくれて、本当によかった」
その夜、拓也の部屋に怜が初めて泊まりに来た。
広くもなく、雑然とした空間。
けれど、怜は小さく笑った。
「……ここ、拓也の匂いがする。安心する」
シャワーを浴びて、拓也のTシャツを借りた怜は、ベッドの上で膝を抱えて言った。
「俺さ……たぶん、やっと、居場所ができた気がする」
「ここがその場所なら、いつでも帰ってきて」
拓也が隣に腰を下ろすと、怜はそっと身体を寄せた。
「昔は、人の温もりが怖かった。でも今は、君に触れてもらうと……あったかくて、泣きそうになる」
「泣いてもいいよ」
「やだ。泣き顔見せるの、君にだけにするって決めてるから」
怜の瞳は、もう過去に縛られていなかった。
静かに前を向いていた。
夜が深まり、二人は同じ布団にくるまって眠る。
怜が眠りにつく前、小さく囁いた。
「拓也と出会えてよかった。君が、俺の“秘密”を受け止めてくれたこと、一生忘れない」
拓也はその手を握り返し、そっと呟いた。
「怜の全部は、俺だけのものだから」
壊れそうだった心が、優しく癒えていく。
痛みも、傷も、未来へ続く一部に変わっていく。
そして二人は、“本当の恋人”として、一歩ずつ進み始めた。
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