第3章 Hell
ノアの端末に、“Hell”という単語が表示されたのは、偶然ではなかった。
中央管理機構に属するノアは、Heavenに関する記録を精査する業務を任されていた。 男児たちの健康状態、学習進捗、遺伝的適性、将来的な利用価値──それらをすべてデータ化し、管理するのが彼女の役目だった。
だが、ある日アクセスした記録の中に、不自然な空白があった。 「処理完了」とだけ記されたファイル。 対象者の名前、顔写真、生活記録──すべてが消されていた。
「Hell:転送済」
ノアは目を細め、再度端末に入力した。アクセス権は彼女にある。
Hell──それは、Heavenの影にあるもう一つの施設。 公式には存在しない。だが、ノアは知っている。 そこに送られるのは、「不要」と判断された子どもたちだ。
逸脱行為。反抗心。不要な疑問。純粋すぎる好奇心。
Heavenという名の温室には、それらは必要とされなかった。
ノアは何も驚かなかった。なぜなら、それらを設計したのは、かつての自分自身だったからだ。
その夜、ノアは記録を閉じ、カーテン越しに夜の街を見下ろした。 地上には、何も知らずに眠る女性たちの世界。
そして地下には、壁に貼りつけられた手と、光のない瞳と、助けを求める声が、確かに存在している。
彼女の胸には、痛みではない何かがわずかに波打っていた。
それは、共鳴か、それとも罪か。
けれど、どちらであれ──この世界は、正しく造られている。 少なくとも、今はまだ。
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