境界の渡り手 〜滅びかけた世界で目覚めた俺は、失われた記憶を力に変えて進む〜
Blanc
第1話 灰の目覚め
大地は裂け、空は崩れていた。神すら姿を消した終焉の地に、ただひとり残った男がいた。昼と夜が断続的に入れ替わり、地面は光と闇の境界を揺れていた。重力は歪み、岩が空に浮かび、風は音もなく逆巻く。崩れた理が、そこに在るすべてを狂わせていた。
そこは、時間すら正しく流れぬ断層の中心。かつてこの世界の根幹が紡がれたとされる禁忌の地──“時の座標”と呼ばれていた。
空間の裂け目から溢れ出す“何か”が、現実そのものを蝕んでいた。深淵の中心に、黒く脈打つ影があった。巨躯でもなく、魔獣でもない。ただ、存在してはならない“何か”。
神喰らい──それが、あの存在の呼び名だった。神々の加護も、術式も、通じぬ異形。すでに神獣たちは沈黙し、精霊たちは結界を張って世界の残滓を守っている。
残された者は、ただ一人。男はその手に、黒鉄の大剣を握っていた。その刃に込められた想念と“始源の魔法”は、この戦いと共に世界に終わりを告げようとしていた。
「ここで……終わらせる」
誰に向けた言葉でもない。だが、誰かがそれを聞いていた。その瞬間、世界の音がすべて消えた。視界が白く染まり、音が遠のいていく──
……アシュト……あなたに、託します……
男でも女でもない、穏やかで柔らかい声が、胸の奥へと届いた。そして次の瞬間、冷たい風が頬を撫でた。
―――
意識が徐々に浮上してくる。最初に感じたのは、鼻をかすめる埃混じりの湿った匂いだった。次に、床に触れた手のひらから、ざらついた冷たい石の感触。空気はひんやりとしていて、まるで時間が止まったかのような静けさが辺りを満たしていた。耳に届くのは、かすかな風の音と、自分の呼吸の音だけ。
ゆっくりと目を開ける。視界に広がったのは、灰色がかった石の天井だった。あちこちにひびが入り、所々は崩れ、そこから細い光の筋が斜めに差し込んでいる。
──ここは?
崩れた柱と砕けた床が広がる空間。かつて神殿だったのかもしれない。外の気配が一切なく、この場所だけが取り残されたように感じられた。
胸の奥で、微かに脈打つ何かを感じる。自分が誰なのか、なぜここにいるのか──何一つ思い出せない。記憶を辿ろうとしても、そこには霧のような空白が広がるばかりだった。
自分という存在の輪郭が、ふとした拍子に崩れてしまいそうな、不安定な感覚。ただ、“アシュト”という名前だけが、確かなものとして心に刻まれていた。
喉の奥にかすかな違和感を覚え、思わず声を出そうとする。
「……っ」
かすれた音が漏れた。自分の声がこんなにも乾いていて、異質に響くとは思わなかった。その声は、静まり返った空間に妙に大きく、孤独に反響する。
咄嗟に唾を飲み込み、喉を潤す。もう一度、小さく息を吸い込んで──
「……どうなってるんだ……」
ようやく出た声は、かすかに震えていたが、自分の中から確かに発せられたものだった。息を整えながら、慎重に体を起こす。
──思ったより、動ける。
だが、筋肉の張りや重心の取り方、皮膚の感覚に、どこか馴染まない感覚が残っていた。まるで“借り物の身体”を動かしているような──そんな奇妙なずれ。服に目をやると、着ているのはシンプルで動きやすそうな服装だが、どこか他人の衣服を着せられたような落ち着かなさがあった。
それでも、違和感は次第に薄れていった。わずかなズレは残っているものの、感覚の輪郭が少しずつ馴染んでくる。まるで、この体の方が自分を受け入れようとしている──そんな奇妙な感覚だった。
──気味が悪い。
何も分からない。今は、とにかく情報が足りない。ここがどこなのか、なぜここにいるのか、この身体は何なのか。せめて、この場所がどういうところなのか、それくらいは知っておかないと。
「……とにかく、動いてみるしかないか」
一歩を踏み出す。靴越しに伝わる石の硬さが、かすかに足元を不安定にした。ゆっくりと足を進め、崩れかけた壁際に近づく。
壁の彫刻は風化していて、元の意匠はほとんど判別できない。床には割れた石板や壊れた燭台の残骸が転がっている。かつて神聖だった空間の名残だけが、静かに残されていた。耳を澄ますと、空気が息をひそめているように感じられる。その沈黙が、かえって胸の奥をざわつかせた。
小さく息を吐きながら、部屋の隅に向かいかけたそのとき──神殿の奥、遠くから、微かな物音が聞こえた。ピキリ、と耳が反応する。
これまでの静寂があまりにも深かったせいで、その小さな音がまるで警鐘のように響く。何の音か判別できないが、明らかに“外部”から来る気配があった。
「……誰か、いるのか?」
その瞬間、空気がひときわ冷たくなる。沈黙を裂くように、石の軋むような音が、異様に大きく響いた。全身に、緊張が走る。
その音が“何かの始まり”を告げたような気がした──。
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