よくある話
八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)
芽が殻を破る時、その音は世界に鳴り響くのか。
朝起きて、昼を食べて、夜に眠る。
「基本的に同じことの繰り返しで生きています、大体、人間はほとんど同じ行動と言えるのでしょう」
教授が軽口を叩きながら、ビールジョッキを飲み干す。
都内の高架下の居酒屋で退官間近の教授と酒を飲むのが好きだ。
有名な大学の辺鄙な学部の教授で、僕はしがないサラリーマン。
この居酒屋で相席になったおりに意気投合して、それからと言うもの、示し合わせた訳でも連絡を取り合う訳でもなく、居酒屋に行くと教授がいて、飲んでいると教授が姿を見せる、そんな不思議な縁で繋がっていた。
「教授、だとすると、酒を飲むという行為は反していますね」
「ほう、どうしてですか?」
「だって、夜に寝るということは、少なくとも陽が落ちてからは寝ていないといけない訳ですから」
「ああ、いい着眼点ですね、そう、寝ていないといけない、でも、実はずっと寝ているのかもしれませんよ」
「えっ?」
「実はこの世は誰かの創造の世界で、私たちはその世界で生きているのかもしれません」
「つまり存在していないってことですか?」
「もしかしたらね」
教授が枝豆を数個口にして新しいビールジョッキを口元に運ぶ。
「昔そんな映画があったっけ」
「ああ、ありましたなぁ、でも、それを超えるものですよ、だって、あれは現実世界がありますが、私達にはないのかもしれない、ただの想像の世界で想像のままに生きているにすぎないのかもしれない」
「まさか、だってそうするとずっと想像していないといけないじゃないですか?」
思わず日本酒の入ったコップを落としそうになる、教授の目は酒に酔った男ではなく、学生に語りかけるような鋭い視線になっていた。
「設問、君が君たる所以を示せ、しかし、この世界の何物も用いてはならない」
「そんな無茶苦茶な」
「ええ、無茶でしょ、でも、そこに答えがあるのですよ」
「いや、どう考えても無理じゃないですか」
「そうです、無理なんです、だから、世界は嘘っぱちなんですな」
「えっと……」
「答えを導き出すことができない世界というのは、正常な世界ではないのですよ。この世界は緻密な計算によって導き出されたりしますが、ある一部などは計算ができない、エラーが発生してしまう」
「エラーのある世界は異常だと?」
「ええ、そういうことです」
「でも、人間がいなかったとしても、災害とか、その他のなにかとかで……」
「人間がいなかった場合は世界は何もないのでしょうね」
「え?」
「想像の中に世界があって、想像のままに良いやつも嫌なやつもいる。父親や母親がいて、兄弟がいて、姉妹がいて、祖父母がいる」
「待ってください、それってつまりこうやって教授と話をしているのも」
「ええ、夢の中で、教授と呼ばれている私は存在していないのかもしれない」
「いや、酔ってるし、それに枝豆は塩辛し、他のつまみだって……」
「味があるし感じることができると?」
「ええ」
「全ては創造されたことなんですよ」
「そんな理不尽なこと」
「そう、その理不尽が正解です」
「え?」
「理不尽な世界こそが、夢の中の世界なんですよ、おかしいと思いませんか?このように話をしていて、相手と話が通じることが、そして、何かを見て綺麗だとか、汚いとか、感じることも、それを相手に伝えて共感を得ることも……」
「いや、共通認識ですし……」
「ええ、共通、それ自体が異常なんですよ、そう、だから、この世界はみんな嘘っぱちなんです」
「酔っ払いの戯言みたいです」
「ええ、酔っ払いの戯言です、でも、私は何か片鱗を見たのです」
「片鱗?」
「ええ、私は今日、とても、変なものを見ましてね」
「へんな、ものですか?」
ビールジョッキを置いた教授が生徒に語りかけるように真剣な眼差しを強めた。
「大学の校舎の廊下を歩いていた時なんですがね、陽が差し込む長閑な廊下であったのですが、その真ん中に闇があったのです」
「闇ですか?」
「そう、ブラックホールのようにぽっかりと闇があり、その闇の中に長い髪の女性が一人、ぽつんと立っているんですな、すれ違う生徒たちはその姿を認識することなく、脇を歩いたり、はたまたすり抜けるように歩いてゆく。誰もその姿が見えていない」
「お化けじゃないですか」
「ええ、お化けみたいなものです、決めつけるのはいささかよくない、でも、明らかに違ったのは、その異質に誰も気がついていないということです、学生達は立ち止まることなく歩いてゆく、そして、それは私だけに見えて大変に異質なもの、とすると、どこか別のところからやってきたものだと言えるでしょう」
「まぁ、お化けですから……」
「そう、理不尽の塊ですよね」
「いや、お化けですし」
「そう、理不尽の才たるお化け、けれど、実はそれこそが創造主だったらどうします?」
「ちょっと待ってください、それって……」
「そう、私達はお化けの創造する世界で暮らしているんです」
「そんな馬鹿な」
「そう思うでしょう。でも、考えても見てください、これだけ周りに人間がいて、私とあなたがいて、世界の人々は理不尽を解明するために日々努力している、けれど、理不尽は一向に紐解かれる事はなく、紐解くと新しい理不尽が発見される」
「いや、それは紐解かれるじゃないですか」
「いえいえ、永遠に繰り返すんでしょ、ニューリピート、ニューリピート、ニューリピート」
壊れた再生機のような声色で教授は繰り返した。僕は呆れながらそれが終わるまで待つ。
「それは新しいことを発見する訳ですから」
「確かに新しい発見です、もっと重要なことですが、人間はそれをずっと紡いでくことができない、要するに長く生きていることができない」
「でも子孫を残してるじゃないですか」
「いいですか、子孫を残していることと、世界が続いていることは同義ではないのです。貴方が死んだ時に世界は終わってしまう、それが続いていることを誰も証明できない」
「僕が死んだら……」
「ええ、そうですね、観測者のいないのに続いているとは言い難いでしょう?」
「書物や文献がありますし」
「それは間違いのないものとして確認しましたか?」
「え?」
「その目で実際に起こったその事柄を確認できていますか?」
「いや、無理に決まってます、過去のことなのですから」
「そう、過去のこと、過去のことなのです。だから、たとえ夢の創作物だったとしても、それが間違いだとは言えない、だが、積み重ねたことのないものを創造することは、我々にはできない」
「いや、それは……」
「できないんですよ、もしできてしまったら、それこそ、この世界の理不尽は消えて無くなってしまうでしょう」
教授は右手の人差し指で口元にあて押さえた。まるで生徒に静かにしなさいとでも良いたげにだ。
「あ、それで誰かということですか?」
「その通り、excellent、そんな中でイレギュラーとも例えれる存在がある」
「それがお化け?」
「そうです、それがお化けです」
「でも、どうして話の胆のようになってくるんですか?」
教授は背筋を伸ばして、枝豆を二つ分ほど口に放り込んで食べ終えると、咳払いをする。
「いいですか、私達は共通の認識がある。でも、彼らは違う、共通の認識はない、そして何より彼らが何を考えているのか、そもそも、どんな存在であるのかすら、我々は認識できない。そう、理不尽の塊なんです」
「理不尽の塊」
「ええ、そして理不尽の塊を紐解くことが出来ない、人間が神の存在をひもとけないように」
「神様の世界ではないんですか?」
「神様の世界だとするなら、それでは皆が幸福に暮らしていないんですか?聖典と呼ばれるものは幸せに導くために書かれています。絶対的な幸せになる法則ではない」
「それは、えっと……」
「でも、思考された世界とするならば誰かの頭の中ということになる、皆を幸せにすることなく、そして人々の動きを観察し続ける誰かの」
「それが、お化けの正体」
「ええ、そして正体はきっと作家だと思うのです」
「作家って、物語を書く作家ですか?」
「そうです、お化けは数多くのことを思考し、そして俯瞰している。ときより世界に迷い込み、自分の理想から外れてしまった事柄に介入しては正してゆく、小説家が書き損じを破り捨てるようにね」
「でも、現れるだけじゃないですか」
「いえ、例えばですよ、それが行きと帰りの世界へ戻る直前の姿だったとしたらどうします?ちょっとした悪戯みたいなものです」
「え? 悪戯? 」
「つまり、お化けは事柄を操る際にはその場に居ない、そりゃそうですよね、そんな存在が隣にいたらお話が狂ってしまう」
「それは、そうですが」
「そして、生きと帰りに姿をちょっと見せて、世界に小さな羽ばたきを残してゆく」
「バターフライ効果ですか?」
「バタフライ効果ね、あ、それ今度注文しましょう、美味しそうです。話がそれましたが、そう考えると全ての辻褄が合うのです」
「お化けの創造する世界で、私達が生かされている」
「そのとおり、excellentです」
教授はビールを飲み干して、枝豆を口に含んで噛み潰す。
「きっとこの話をしていること自体、きっとお化けの目論見でしょう」
「目論見?」
「ええ、貴方の記憶に残ったこの話は、きっといずれ何処かで思い出されて話される、そう芽吹いたように思い出す訳ですな、そうすると普段とは違う異質な話がこの世界に芽吹く、すると世界に新しい何かが現れる」
「はぁ……」
理解に苦しむ話で僕には難しすぎる気がするが、言わんとしている事は話としては理解できた。
「そしてそれを観測する術を我々は持っていない、お化けの存在も、お化けの話も、私のこの話さえ、証明する証拠はないんですな」
「そうなると、僕らと変わらない存在なんじゃ」
「いえ、違いますよ、共通項がないのです、意思の疎通が出来ない、人間や動物は表情や声色で判断しますが、お化けはそこまで豊かではない、したがって、恐怖的感情下を伴っての話には辻褄が合わないことばかり……なの、所謂、見える人、見えない人、感じる人、感じない人、姿や形もそれぞれで違うのよね」
「理不尽の塊」
「そう、それよ、この酔っ払いによるいい加減な理論を証明するわけ」
「ああ、よくある話ね」
「そう、よくある話よ」
二人で笑い合いビールジョッキをぶつけ合う。素晴らしい音が周りに響き、それは周りが振り向くほど綺麗な音だった。
「あれ、さっきまで老齢な教授と話をしていたはずだと思ったけど……」
「大丈夫? 飲み過ぎじゃないの? それより、こんな素敵な彼女と話してたのに酷いこと言うわね」
「ごめん、ごめん、飲み過ぎてるのかも」
ビールジョッキを持つ、ショットカットの美女が笑う。
都内の高架下の居酒屋で出会った女性教授と酒を飲むのが好きだ。
有名な大学の辺鄙な学部の教授で、僕はしがないサラリーマン。
この居酒屋で相席になったおりに意気投合して、それからと言うもの、示し合わせた訳でも連絡を取り合う訳でもなく、居酒屋に行くと教授がいて、飲んでいると教授が姿を見せる、そんな不思議な縁で繋がっていた。
そして、今は僕には勿体無いくらいの彼女だ。僕のことをよく理解してくれる察しが良くて切れ者の彼女だ。
「私ってそんなに老けて見える?」
「見えないよ、ごめん、で、何の話だったけ?」
「忘れちゃった、お互い酔いが回り過ぎたのよ」
「かもね」
「あ、うちの泊まってく? 明日は私フリーだし」
「じゃぁ、お邪魔しようかな」
「するでしょ?」
「うん、したいな」
「私も、そう思ってたの、ずっとずっと前から……、こんなこと言うのは変だけど、子供ができてもいいくらいに……」
彼女の小指が小刻みに動く、それは動物が誘いをかける時のようなサインに思えて、思わず唾を飲み込んでしまう、妖艶なほどに色っぽく見えて堪らない動きだった。
「もう行こう」
「うわ、露骨だし、でも、いいわ、お誘いに乗ってあげる」
会計を済ませて連れ立って店を後にする間際に、忘れ物をしたような気がして今先ほどまでいた席を眺めた。
「あれ?あんな人居たっけ?」
「さぁ、入れ替わりで入ったんじゃないの?」
それは退官間際の教授のような紳士的な風貌をした人物だった。
「さ、いこ、いこ」
「う、うん、君のほうが積極的だよ」
「いいじゃない、そんな気分なの、言ったでしょ、子供ができてもいいくらいにって……」
「う、うん」
「きっと可愛いわ」
顔を引き寄せられて唇が触れ合う、確かにこちらの方が大変重要な事柄に思えてきた。
でも、もう一回だけ振り返る、なぜかそうしなければいけない気がしたのだ。
教授の手にはビールジョッキが握られていて、それを飲み干すと枝豆を口の中へ放り込んだ。見慣れたような錯覚に何かがぞわりと気持ちを撫でる。
『理不尽の塊』
その口が動き居酒屋の喧騒で聞こえるはずもないのに、教授がそう冷たく呟いたのが聞こえた気がした。
「やっぱりあの席の人、どっかで出会った気がするんだけど」
彼女に振り返ってそう説明する、そちらを見た彼女が怪訝そうな顔をした。
「なに?誰も居ないわよ?酔っ払いすぎたんじゃないの?」
「え?」
振り返った席には誰も居なかった。
ビールジョッキも、枝豆も、教授も、なにもない。ただ、そこには綺麗に磨かれて客を待つだけの席があるだけだ。
「もう、本当に大丈夫?」
「ごめん、変な話をして」
「こっちに気を向けてほしいな」
僕の手を取った彼女が誘うように胸元に寄せる。
「うん」
「行こ」
「あ、そうだ、お化けの話って知ってる?」
「え?お化けの話?」
「そうそう……」
世界にまた一つ芽が生まれた。
席に教授がいた、ビールジョッキを飲み干し、枝豆を口に放り込み、しばらく咀嚼してからニタリと笑う。
「その芽に何が宿りますかな」
その空間は真っ黒に染まって跡形もなく消え去った。
よくある話 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki
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