ラスト・ラビリンス

高村録

chapter.1


 パンの寝床はいつもそこだった。

アメリカの田舎にある名もなき大学の小さなコンテナ。パンにとって世界とはそこが全てだった。


 大学と言ってもパンは大学生でも、ましてや教授でもなかった。パンはかつてその大学を受験したが、彼女の頭は決して賢くはなかったので当初希望していた哲学部には入れなかった。そもそも哲学というものに興味を抱いたのも、パンは人の-自分のそれも含めて-喜怒哀楽などといった感情の機微がよくわからなかったからである。しかし当然そんな彼女が大学の入学試験で人の心理や哲学について論述を述べられるわけはなく、哲学部で感情を学ぶ計画はあっけなく散ってしまった。にもかかわらずパンがその大学にいるのは、たまたま町の裏通りでトラブルをおこしていた車をその場で軽く直した際、運転手であった件の大学教授に手の器用さを見込まれて校舎のボイラー室にアルバイトとして雇われたからである。


 パンの家には呑んだくれの父親がいた。彼は酒が切れると-切れなくても稀にそうなることはあったが-とにかく暴れて物をよく壊すので、床に転がったオーブントースターや断線した照明を直すのはいつも娘の仕事だった。

 それでもパンは父親のことを嫌いではなかったし、特に好きでもいなかった。なので大学のコンテナを好きに使っていいと言われてからは一度も家に帰らず常にそこで寝泊まりをしている。そうしてたまに調子の悪くなる電気回路系統を手探りで直すことに毎日を費やしていた。


 手探りで、と言ったがこれは専門知識が無いための見様見真似でという意味だけではなく、彼女は本当に作業を手探りでやっていたからである。


 パンは白内障であった。母親がまだ生きていた頃、酔った父親の投げた酒瓶は幼い彼女の目を強く殴打した。その時からユダヤの血が入った黒く美しい瞳は白く濁ってしまい、彼女の視界には常に"もや"がかかることになったのだ。


 大学の生徒たちはたまにブレーカーの中をいじるパンの姿を校内で見ることがあったが、焦点の合っているのか合っていないのかわからない濁った二つの目と、お世辞にもたおやかであるとは言えない大きな体つきのために誰も声をかけることはしなかった。そしてパンも人との関わりが得意ではなかったのでそれを良しとした。学生たちがする他愛のない話をぼんやりと聞いていたり、用もないのに図書室へ入ったりする静かな暮らしをパンは不快だと思ったことは一度もなかった。


 コンテナの中で暮らすようになってどのくらいの年月が経過したか、パンはわざわざ数えてはいなかった。家に置き去りにされた父親がのたれ死んだ頃ではないだろうか。ある日パンは見たことのない生徒を大学の庭で見つけた。そして白く霞がかった目にもそれが赤毛の髪をなびかせて歩く美しい女性だということがはっきりとわかった。しかしパンが最も彼女の中で注目したのは、一般的にロフストランド・クラッチと言われる歩行補助具であった。パンはその場に立ち尽くしじっと彼女を黙って見つめた。するとその人はパンに気付き、二つの白い瞳を見つめてにっこりと微笑んだ。


 パンは何か、言いようのない何かに襲われた。なぜなら今まで特定の人物に興味を持ったことがなかったので、その感覚を自分で言語化できなかったのである。パンは長い間-もしかしたら数秒であったかもしれない-動くことができなかった。放課後のベルが鳴る中、はっきりと自分に、自分だけに向けられたひとつの笑顔を思い出しながらパンは初めて自分の感情に名前をつけた。



 "それ"は恐怖という名前であった。

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