綺麗な手の青年

@hoitomi

手の綺麗な青年


駅の階段を上りきった瞬間、夜風が頬をなでた。

一日中張りつめていた肩の力が、わずかに抜けていく。


吉川美優(よしかわ・みゆ)は、スーツの袖口を引きながら人の流れを外れ、改札を抜けた。

会社からの帰り道、すでに空は夜に染まりかけていた。街灯の明かりが足元のタイルに滲む。


「……疲れたな」


ひとりごとのように口にして、ハッとする。

周りを見渡し、誰も聞いていないことに安心する。

鞄の中には処理しきれなかった書類。

嫌でも思い出す。

上司からのため息。

同期の冷たい視線。

──今日も、何もできなかった。


ビルの谷間を歩いていると、ふいに、あの人の手を思い出す。


細くて、白くて、静かで。

輪郭が曖昧なほど柔らかで、半透明で光を反射するような爪は先まで整えられているのに、どこか温かさを感じさせた。


まるで夢の中に出てくる、幻のような手。


けれど、その手はたしかに彼女の心に触れた。

胸の奥──誰にも見せたことのない、心の中に。


「……ユウリさん……」


名前を呟くと、胸が少しだけ痛んだ。


最初に出会ったのは、二ヶ月前の夜だった。


会社で大きなミスをした日。

自分のせいで進行中の企画が止まり、先輩に冷たい声で叱責された。

ひとこと謝るたびに、自分という存在がどこまでも小さくなっていくようで、帰り道は息をするのも億劫だった。


胸の奥のモヤモヤが大きくなる。


電車を降りたあと、知らない公園のベンチに腰を下ろし、スマホも開かず、ただ項垂れていた。

すると──


「こんばんは」


目の前に立っていた青年が、静かに言った。


「つらいのですね」


その声は、とても柔らかかった。

音の振動というよりも、風に乗って届いた“感触”のようで。


その青年の名は、ユウリといった。


年齢は二十代半ばに見えたが、その表情からは年齢という概念を感じなかった。

端整というよりも、整いすぎていて、どこか不自然なほどだった。

けれど、彼の手は──


「……少しだけ、手伝わせてください」


ユウリがそう言い、美優の前に跪くと、ユウリの白く長い手が胸元へと伸びてきた。

服に触れることはなかった。だが、肌にも触れていなかった。

ただ、空気に触れるような手つきで、彼の指は美優の胸の中へ──


水の中に沈めるように、するりと差し入れられていった。


美優は驚いていた。


第一関節。第二関節。掌。手首まで。


「……っ」


声には出せなかったが、美優の呼吸は震えていた。


痛くはなかった。

くすぐったくもなかった。


ただ、自分の中の“いちばんやわらかい場所”が掬い取られていくような、不思議な感覚だった。


ユウリが手を引き抜くと、その指先には、小さな青い光が乗っていた。


ビー玉より少し大きい、透きとおるガラスのような塊。

それを見た瞬間、美優は涙をこぼしていた。


彼女の中から取り出された“なにか”。


それは、言葉にならない苦しみの形だったのかもしれない。


「これで、少し楽になりますよ」


ユウリは微笑み、その塊を手のひらに包んだ。


美優は言葉も出せず、ただ頷いた。




──それから何度も、彼に会いに行った。


連絡先も知らないのに、会いたいと思うと、なぜか彼はそこにいた。


いつもの公園だったり、並木道だったり。

繁華街のビルの隙間に、そっと立っていたりした。


そして、美優が「お願い」と言えば、彼はまた指を伸ばしてくれた。


水に手を沈めるように、ゆっくりと、静かに──彼女の中に触れてくれた。


そのたびに、美優の胸からは青い塊が取り出され、彼の掌の中へと消えていった。


それがどこに行くのか、美優は知らない。

聞こうとしたこともある。だが、口を開く前に、彼の目を見て、やめた。


知ってしまってはいけない気がしたのだ。




──そして今夜も、彼女は彼を探していた。


ふらりと遠回りした夜道。

人気のない高架下。古い照明がちらつく遊歩道。


ユウリは、やはりそこにいた。


「こんばんは」


声を聞いた瞬間、安心と、切なさと、焦燥がいっぺんに押し寄せた。


「……お願い……今日も、だめで……もう、自分がわかんない……」


ユウリはなにも言わず、美優の前に立った。

その見惚れるような手がまた、胸へと伸びる。


──触れて、沈む。


自分のなかにある“何か”が、またひとつ、引き抜かれていく。


青い塊。透明な涙のような、かたちをしたもの。


ユウリはそれを両手で包み、しずかに目を伏せた。


そして、何も言わず、去っていく。




美優はその背を見つめる。

本当は名前を呼びたかった。

「行かないで」と言いたかった。


でも、言えなかった。


言ってしまえば、なにかが壊れてしまいそうで。


そして、自分がもう、自分ではなくなってしまいそうで。


彼がいないと、心がもたない。

彼がいないと、歩けない。


それが救いなのか、依存なのか。

彼が人間なのか、それとも──


わからないままで、いいのかもしれない。




美優は、駅へと続く道を歩き出した。


ビルの窓に映る自分の顔は、少し痩せていた。


頬がこけ、唇が乾いていた。


けれど、それでも──


今夜も、彼に会えた。


それだけで、心は軽かった。




風が、後ろから吹いた。


美優がふと振り返ると、ユウリが曲がり角の向こうで立ち止まり、こちらを見ていた。


街灯に照らされたその顔は、影になっていた。


けれど──


彼の表情はわからなかった。




──彼の手は、今夜も美しかった。

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