アメーバ幼女は名乗らない

二晩占二

第1話

 ある日の仕事終わり。

 おれは駅前で、迷子を見つけた。


 大泣きしているので近づいてみると、それは人間ではなかった。

 アメーバだった。


 まだ幼い。

 5歳か6歳くらいだろうか。

 半透明で、ぐにょぐにょで、女の子の姿をしている。


「ママあああーーー、ママあああああーーーーっ!」


 かわいそうに。

 心情では助けてあげたいが、現代社会的ややこしさの被害を被るのごめんだ。

 親切心から話しかけたせいで、不審者に間違えられた知人の話を思い出す。


 すまんな、幼女よ。

 日本人=親切は、すでに過去の神話と化したのだ。


 などと、胸の内で謝罪を述べながら通り過ぎようとしたところ、何やら異様な感触に苛まれた。

 体中が膜に覆われたような、水草に絡みつかれたような、浮遊感と重さが体を縛り付ける。


 そう。

 いつの間にか、おれの全身に、アメーバがまとわりついていたのだった。


「なっ、おい、こら。やめなさいっ」

「ママあああーーー、ママあああああーーーーっ!」


 だめだ、完全に平常心を失っている。

 顔を真赤にして喚きながら、おれのスーツの表面を這いずり回っている。大粒の涙が革靴に落ちて、膜を張った。


 ため息ひとつ吐いて、おれは観念する。


「……ママと、はぐれちゃったの?」

「ぐすっ、ぐすんっ……うん」


 演技かと思うほど、瞬時に泣き止むアメーバ幼女。

 全身をぷるぷるさせて涙を出し切ると、おれの胸のあたりからにゅるーんと顔がせり出した。


 目と目が、ばっちり合う。


「お名前は?」

「わかんない」


「お家は?」

「わかんない」


「ママとは、どこではぐれちゃったの?」

「わかんない」


 困ってしまってワンワンワワン。


 アメーバ幼女は自身の情報を、何ひとつ言語化することができなかった。

 そもそも単細胞生物にとっては、名前など不要の産物なのかもしれない。人間のように、個々のパーソナリティを弁別する必要など、ないのだから。


 迷子タグのようなものがついていないか、調べてもみたが、ねばねばした粘液以外に何も持ち合わせていないようだった。


 こういうときは、交番に預けるに限る。

 落とし物と迷子は警察案件、と相場が決まっているじゃないか。


 ――などというのは、安直すぎる考えだった。


「うーん、困りますねえ。アメーバは法律で保護されていませんし。ちょっとお預かりしてもどうすればいいか……」


 史上空前の奇妙な迷子を連れてこられて、交番勤務の警察官も困ってしまってワンワンワワンだった。


 巡回ついでに母親らしきアメーバを捜してみます、と口約束を取り付けるのがやっと。

 ほぼ門前払いに近い対応で交番を追い出されたおれに、アメーバ幼女が心配そうな目線を向ける。


「……うぅ」

「心配するな、おじさんが絶対にママを見つけてあげるから」


 まとわりつかれ続けたせいで情が移ったのか、おれは今、心の底からアメーバ幼女を助けたいと思っていた。

 しかし、万策はつきかけている。

 文系出身のしがないサラリーマンなおれには、アメーバの生態についての詳細な知識もない。習性も知らない。

 警察にもさじを投げられた今、次の打つ手を絞り出すことすら困難、というのが正直なところだった。


 ベンチに座り、考え込む。妙案が浮かぶのを待つ。


 幼女に、アイスクリームを買ってやった。不思議そうに見つめたあと、彼女はようやく、おれの体から離れた。

 幼女の体が包み込むように広がって、覆い隠すように、アイスにかぶりつく。全身を振動させている。どうやら、咀嚼しているようだ。たまに頭がキーンとなって、おでこをペチペチしている。


「あ」


 と、急にアメーバ幼女が驚いたような声をあげた。


 そして、次の瞬間。


 不規則に伸び縮みしはじめる、幼女の体。前後左右、いたるところから突起のようにアメーバがひしめく。

 先端が震えたり、ちぎれたり、飛び上がったり、と不穏な動きを繰り返す。


「ど、どどどどうしたっ!?」


 おれは慌てふためいて、幼女の顔を覗き込んだ。透き通った顔に、苦悶の表情がにじみ出ている。粘液に弾かれる、あぶら汗。


 ――まずい、のか?

 いったい、何が起こったんだ?

 ま、まさか、アメーバにアイスクリームを食べさせちゃだめだったのか? アメーバにとっては毒なのか? アイスが? 知らねえよ、そんなこと。アイスのパッケージに書かなきゃだめだろ、そんなら。


 って、やばい。顔色が悪くなってきた。いや、気のせいか? わかんねえ、くそ。太陽光が反射してよくわからん。

 このままだとこの子、死んでしまうんじゃないか?

 迷子を助けるどころか、殺人者に……? いや、アメーバって人か?


 ――って、そんなこと、関係ない!


「おい、大丈夫か。死ぬな、死ぬなよ」


 あたふたと狼狽し続ける、おれ。

 声をかけたり、顔のあたりを撫でたりするくらいしか、できることが思いつかない。


 行き交う通行人たちは、ちらりと横目で異常事態を見届けて、二度見もせずに行ってしまう。


 やっぱりな。

 ほら、見ろ、幼女よ。

 日本人=親切は、過去の神話だ。


 絶望に沈みかけた、そのとき。




 ぽんっ。




 と、小気味いい音とともに、腕の中が軽くなった。

 アメーバ幼女が、消えたのだ。


 蒸発した?

 ――いや、違う。


 俺のすぐそばに、いつの間にか、幼女が立っていた。さっきまでの騒動が嘘のように、平然とした表情で。


 しかも、ふたり。


 まったく同じ顔のアメーバ幼女が、ふたり。まったく同じ背格好。まったく同じ粘度。



 分裂だ。

 おれは、はっと閃く。


 アメーバ幼女は、分裂したのだ。

 アイスクリームの栄養素を吸収し、分裂に耐えうるエネルギーを獲得したことで、個体を1つ、増やすことに成功したのだ。



「あっ、ママ!」



 片方のアメーバ幼女が、もう一方のアメーバ幼女を、指さして声をあげる。

 そして、勢いよく抱きついた。


「ママっ、ママっ!」

 相手の胸のあたりに、ほっぺをすりすり。

「よしよし、いい子いい子。頑張ったねー。もう大丈夫よ」

 頭をなでなで。


 訳がわからず、おれは呆然とする。

 ま、ママ……?


 ふたりのアメーバ幼女が、まったく同じタイミングで、おれのほうを向いた。


「ありがとう、親切なおじさん! このとおり! ママが見つかったよ!」


「ええっと……、え? それが、ママなの?」

「うん、ママだよ!」

「はじめまして、ママです」


「え、ああ、うん、はい。はじめまして。……じゃなくて。いや、今さっきまで、ふたりはひとりだったよね?」

「うん!」

「はい」


「今、分裂したとこだよね?」

「うん!」

「はい」


「じゃあ、ママじゃなくて……、子どものアメーバに、更に子どもができただけなんじゃ……」


 つまり、孫アメーバが誕生しただけ、のはずだ。 しかし、それはやはり、人間の感覚。 アメーバに、ラベリングされた属性情報は通用しない。


「アメーバは単細胞生物だからね。分裂したとき、迷子だったアメーバの記憶が、分裂先の……この子の核に、移ったのよ。きっと」


 ママと呼ばれたほうのアメーバが、解説する。

 気のせいだろうか。さっきよりも、幾分大人びているような。


「はあ。で、君が、ママってことで構わない、と?」

「ママだよ!」

「実際にママじゃないですか。あなたの、ご覧になったでしょう? わたしがこの子を、分裂するうむ瞬間を」

「はあ。いや、まあ確かに。拝見しました。目の前で」


 あまりに突拍子もない解決策で、脳がついていけない。

 おれは、それ以降、「はあ」と「まあ」を連発するだけのマシーンと化した。


 すると、会話の停滞感を察したのか、二体のアメーバ幼女はぐにゅぐにゅちゃぷちゃぷと、せわしなく流動しはじめる。

 そして俺に背を向けたかと思うと、くっついたり離れたりしながら、仮足を伸ばして歩きだした。


「さようなら、親切なおじさん。この御恩は、いつか必ず」


 おれはまた「はあ」とだけしか返すことができず、小さく手を振りながらふたりを見送った。幼女たちの姿は排水口の中へと消えていった。


 この御恩はいつか必ず、ってなんだっけ。

 なんか日本むかしばなしで見たような……あっ、鶴の恩返しか。


 アメーバの恩返しって、何だろう。

 バクテリアとか?


 嬉しい妄想にたどりつけなかったおれは、もうあまり深く考えないことに決めた。 


 体中がねばねばする。

 早く帰って、風呂に入りたい。

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