掛け軸の正妃
紫藤市
掛け軸の正妃
後宮のもっとも奥に建つ
国中のみならず諸外国からも取り寄せた繊細で優美な調度品の数々が室内を飾り、絹や紗の
居間と寝室を区切る
そして、部屋の奥には
そこに描かれているのは、国王陛下のご寵愛深い正妃様です。
艶のある黒髪を優美に結い上げ、薄紅色の生地に色とりどりの
見る者誰しもが魅了されずにはいられない美しさを持つ正妃様は、いまにも絵の中から抜け出しそうなほど生き生きと描かれているのですが、残念なことに微動だにせず掛け軸の中に収まっていらっしゃいます。
この正妃様は国王陛下に嫁がれて間もなく、後宮に陛下の
そんな正妃様を愛おしく思われた陛下は、妾妃たち全員に
しかし、正妃様はいまだにご機嫌を損ねたままで、どんなに国王陛下が
正妃様の部屋付き女官のひとりであるわたくしは、毎日掛け軸の中の正妃様のお世話をしております。
朝、日の出前に正妃様のお部屋へ参りますと、夜勤の女官と交代いたします。
まずは正妃様の
次に下女が運んできた
朝餉が終わる頃、国王陛下のお渡りがあります。朝儀を終えられた国王陛下が、執務室へ戻られる前にお立ち寄りになるのです。
国王陛下は毎朝、珍しい贈り物を
国王陛下がお帰りになりますと、お茶とお菓子が運ばれてきます。
わたくしと数人の女官たちはおのおの得意とする楽器を手にし、流行りの曲を演奏し、歌を唄います。絵の中の正妃様が退屈されないよう、楽しく賑やかにするのです。
正午頃、
食事が済みますと、衣装櫃から午後用の襦裙を選び、正妃様にお勧めします。
午後になると、またお茶とお菓子が運ばれてきます。異国の珍しい紅茶や黒茶が出ることもあります。お菓子も丁寧に精製された砂糖を可愛らしい花に
女官のひとりが正妃様のために、物語を朗読し、花を生け、刺繍をします。
その後、わたくしたちが掛け軸を壁から外して正妃様を後宮内の庭園の散歩にお連れしている間に、下女たちが部屋の掃除をします。
夕刻になって部屋に戻ると、
夜勤の女官たちは、やはり下賜された夕餉を食べ、正妃様のために夜着を準備し、香炉に新しい香を焚きます。
夜が更けると、国王陛下のお渡りがあります。陛下が正妃様とどのようなお話をなさっているかは存じ上げませんが、万民を統べる陛下といえども、正妃様のお心は自在に動かすことはできずにいるようです。
わたくしは最初、掛け軸に描かれている
わたくしは正妃様の部屋付き女官になれたことを、この上なく誇りに思っています。
ある日、正妃様の部屋付き女官に新しい者が加わりました。
確かに玉はとても美しい容貌の娘でございます。
肌は雪のように白く、頬は薔薇色、
女官仲間たちからは親しみを込めて「
玉麗は少々軽はずみな言動が目につく娘でした。
貧しい家の出ということもあり、正妃様の持ち物が下賜されると大仰なくらい歓声を上げ、古参の女官たちを差し置いて真っ先に自分が欲しい物に手を伸ばすものですからたびたび叱られていました。きらびやかな後宮での暮らしに目が
玉麗のような寒村出身の女官は後宮では珍しくありませんが、ほとんどの者は下賜された物を売って現金に
ところが玉麗は、家族のことなどきれいさっぱり忘れたような顔で、自分のための
正妃様の部屋付き女官になる前の玉麗は、
玉麗は磨けば磨くほど美しく変身する玉でした。
正妃様から下賜された襦裙、裳、簪、首飾りなど、最高級の品々を身に付けても引けを取らない
ただ、掛け軸の正妃様よりも美しくあろうとし始めたことから、女官仲間たちの反感を買うようになりました。
「ねぇ、玉麗さんの今日の化粧をご覧になって? 白粉をあれほど塗りたくっては、せっかくの肌の白さが台無しでしょうに」
「髪の結い方が
「
皮肉と嫌味が陰口として囁かれましたが、玉麗はいっこうに気にする様子は見せませんでした。
ますます着飾り、鏡に映る自分の姿と掛け軸の正妃様の姿を見比べては、どちらが美しいかとわたくしに尋ねてくる始末です。
「国王陛下は、なぜ生身の女ではなく掛け軸の中の正妃様を寵愛されるのかしら」
毎朝国王陛下がお帰りになった後、飽きもせず玉麗はわたくしに質問します。
「悋気を起こした正妃様がこの掛け軸の中に入って出てこなくなったなんてふざけた話、本当にみんな信じているの? 正妃様の嫉妬を恐れて妾妃様たちは後宮を追い出されたって話だけど、本当に実家に帰った妾妃様はひとりもいないって聞いたわ。じゃあ、妾妃様たちはどこに消えてしまったのかしら」
大声で
万が一にも正妃様のお耳に妙な噂話が入ってはいけないからです。
「もしあたしが正妃様より綺麗だってことで国王陛下の目に留まったら、正妃様は悋気を起こして絵の中から出ていらっしゃるかしら。もし出ていらしたら、あたしは正妃様を絵の中から連れ出した功労者ということで、妾妃にしていただけるかしら」
玉麗はことあるごとに「妾妃になりたい」と呟いていました。
自分の身分では、どう頑張っても妾妃にしかなれないことはわかっていたからです。
しかし、国王陛下は二度と妾妃は置かないことを正妃様に誓われています。たとえ天変地異が起きようとも、正妃様との誓いだけは破るわけにはいかないのです。
とはいえ、国王陛下も玉麗の美貌から目を逸らすことはできずにいました。
毎朝正妃様の居室を訪問されるたび、並んで出迎える女官たちの中でも群を抜いて美しく着飾った玉麗の姿に視線を向けていらっしゃいました。
ある朝、わたくしが普段と同じく日の出前に正妃様の部屋へ参りますと、少々様子が異なっておりました。
まず、壁の掛け軸がいつもと違いました。
掛け軸の中から正妃様の姿がぽっかりと消え、両側に描かれた
わたくしは呆然と掛け軸を凝視しました。
室内には夜勤明けの女官が静かに椅子に座っていました。彼女は掛け軸の絵が変わっていることなど気付かないような表情で入ってきたわたくしに視線を向けると、いつも通り軽く目礼をしてきました。
おはようございます、とわたくしが口を開き掛けると、夜勤の女官はそっと自分の唇に指を当て、静かにするようにと目で訴えてきました。そして椅子から立ち上がるとわたくしのそばへと歩み寄り、そっと耳元で囁いたのです。
「正妃様はまだお休み中です」
わたくしが唇を引き結んでまじまじと夜勤の女官を見つめ返すと、彼女は
「朝餉が運ばれてきましたら、正妃様を起こしてくださいませ」
相手からそう告げられると、わたくしは黙って頷くしかありません。
夜勤の女官が足音も立てず部屋から出て行くと、わたくしはひとり部屋に取り残されました。他の部屋付きの女官たちは、朝餉を運ぶ下女たちと一緒にやってくるのです。
お恥ずかしい話ですが、わたくしはまだ掛け軸の中の正妃様としか対面したことがありませんでした。
寝台でお休み中の正妃様に、どのように声を掛けてお起こしすれば良いのかわかりません。
正妃様の部屋付き女官になって一番緊張した朝でした。
まずは香炉に新しい香を焚き、衣装櫃から午前中正妃様がお召しになる襦裙を取り出しました。櫛、簪、首飾り、耳飾りなどを化粧台の上に並べ、鏡を拭きます。できるだけ音を立てないようにしなければ、と気が張っていたせいか、襦裙が手から
やがて東の空が白んでくると、日勤の女官たちが朝餉を運ぶ下女たちを従えて現れました。
古参の女官はわたくしの顔を見ると、平静を保ったまま告げました。
「正妃様の朝餉をお持ちいたしました。正妃様はお目覚めでしょうか」
様子を見て参ります、とわたくしは決まり切った返事をしました。
普段は掛け軸に目を向けるだけで良いのですが、今朝は寝室へと向かいました。
「正妃様、おはようございます。朝でございます」
「朝餉の準備が整いました。お起きくださいませ」
わたくしが枕元へ向かってそっと声を掛けると、横たわっていた女性は身じろぎしました。
「まだ、眠いわ……」
ぼんやりとした声が
どこかで聞いた声でしたが、すぐには誰だかわかりませんでした。
「国王陛下がいらっしゃる前に、お支度を調える必要がございます。お起きくださいませ」
少しだけ声を強めて呼び掛けると、寝台の女性はむくりと上半身を起こしました。
長い黒髪は寝乱れ、
けれど、掛け軸の正妃様とはあまり似たところがありません。
「もう、朝?」
「ぎょ……」
玉麗、と名を呼び掛けたところで、古参の女官が寝室へ入ってきました。
「おはようございます、正妃様。そろそろお支度と朝餉に取りかかりましょう」
慇懃な口調ながら有無を言わせぬ気配を漂わせて、古参の女官は玉麗を「正妃様」と呼んだのです。
そしてわたくしは、掛け軸の中から正妃様の姿が消えた理由を察しました。
正妃様の襦裙を身に纏い、正妃様だけに許された形に髪を結い、金銀の簪を髪に挿した玉麗は、まるで絵から抜け出た正妃様にそっくりな姿になりました。白粉を顔や首に
女官たちは皆、彼女を「正妃様」と呼びました。
朝餉の膳は掛け軸に供えられるのではなく、生身の正妃となった玉麗の前に並べられました。
もちろん、彼女は当然のような顔をして
これまで下賜されていた膳はすべて彼女の口に入ってしまいました。
朝餉を済ませ、化粧を直していると、国王陛下が朝のご機嫌伺にいらっしゃいました。
陛下のお姿が見えますと、玉麗も座っていた椅子から優雅に腰を上げます。
「おはよう、正妃。今朝のご機嫌はいかがかな」
陛下が直々に声を掛けられますと、玉麗は目を細めて微笑みます。
そして、手にしていた扇でそっと口元を隠しました。
「大変よろしゅうございます、陛下」
玉麗の隣に一歩下がって立っていた最古参の女官が、代わりに返事をします。
すると陛下は満足げな表情を浮かべ、侍従が運んできた贈り物を女官に渡しました。
漆塗りの箱の中に入っていたのは、
その見事さに女官たち一同は息を飲みました。
玉麗も一瞬目を大きく見開き唇を動かし掛けましたが、最古参の女官が襦裙の袖を軽く引いたので、声を出すことはありませんでした。
「なんと素晴らしい贈り物でしょう。正妃様は大層喜ばれていらっしゃいます」
最古参の女官が礼を述べると、陛下は嬉しそうに相好を崩されました。
そして、公務を執るため後宮から出ていかれました。
陛下の姿が回廊からも見えなくなりますと、玉麗は緊張がほどけたのか倒れ込むようにして椅子に座り込み大きな溜め息を吐きました。
女官たちもくたびれた様子で胸を撫で下ろしました。
正妃様の姿をした玉麗を、陛下はお気に召したようです。
普段であればこの後、お茶とお菓子が運ばれてくるのですが、今日は違いました。
まず、部屋の隅に置かれていた琴が玉麗の前に置かれました。
「さぁ、正妃様。琴の練習をいたしましょう」
最古参の女官が告げると、玉麗は顔を顰めました。
彼女は着飾ることは得意ですが、音楽の素養はほとんどなく琴を爪弾いても耳障りな音しか出せないのです。
「陛下は正妃様と
「あたし、こういうの苦手なの」
不満げな表情を浮かべて玉麗は琴から視線をそらしましたが、最古参の女官は厳しい顔で玉麗の両頬を手で押さえて琴に顔を向けさせました。
「才能のあるなしではありません。どんなに下手であっても、指の皮がすり切れるほど練習すればそれなりに弾けるようになります」
容赦ない女官の返答に玉麗は醜く顔を歪めました。そして、助けを求めるように他の女官たちに目を向けましたが、皆黙ってふたりのやりとりを見守っているのみです。
わたくしももちろん口を挟むことはいたしません。
正妃になるということは、その地位に相応しい教養を身に付けなければなりません。ただ美しく着飾っていれば良いというものではないのです。
女官たちが常日頃から正妃様にお聴かせするという名目で楽器を演奏するのも、お茶を
もちろん、正妃様も国王陛下の第一夫人の名にふさわしい貴婦人でなければなりません。諸外国の
玉麗は正妃という立場をよく理解しないまま、正妃様に憧れ、
「それとも、琴を演奏できない理由を作って陛下に申し上げますか。例えば、
「練習するわ!」
冷酷な最古参の女官の提案に怯えた玉麗は、目を涙で
その後は、昼餉までひたすら琴の練習が続きました。
昼餉の最中は箸の上げ下ろしから椀の持ち方まで、食事の作法をさらに厳しく
その後は習字と生け花、古典詩の暗唱と続きます。
日没後に夕餉が運ばれてきましたが、このときも気が休まる暇などありません。
女官たちによる玉麗への厳しい正妃教育は毎日繰り返されました。
正妃となる女性は、一般的に王族の姫君か貴族令嬢から選ばれることがほとんどです。彼女たちは蝶よ花よと育てられつつも、幼い頃から十年ほどの期間をかけてお妃教育を受けてこられます。
玉麗のようににわか仕込みの妃とはわけが違うのです。
女官たちは誰も、玉麗が可哀想だとは思いませんでした。
玉麗も最初こそ泣き言を
女官たちの厳しい訓練に涙することはあっても、逃げだそうとはしません。生まれ故郷に逃げ帰ったところで、
琴の弦で指の皮が切れようが、姿勢が悪いと言って女官に竹の棒で背中を叩かれようが、後宮では暖かい布団に絹の襦裙、食べきれないほどの料理や菓子が常に目の前に並んでいるのです。
玉麗の成長はめざましく、ふたつきも経つと彼女が
琴は人並みていどに上達し、歌は国王陛下の前で美声を響かせることができるほどです。すべての所作も生まれながらの王族と見紛うほど、指の先から足の先まで優美な動きができるようになりました。
国王陛下は正妃として振る舞う玉麗をいたくお気に召したようです。
後宮では初雪が降れば雪見の宴、白く積もれば積雪の宴、新年には
国王陛下が朝だけではなく夜もたびたび正妃様のお部屋を訪ねていらっしゃるようになり、そのままお泊まりになる日が続くと、後宮は
ただひとつ、わたくしが気になったのは正妃様のお部屋の壁に吊られた掛け軸です。
玉麗が正妃様となって以降も、正妃様の姿が消えた掛け軸はそのまま残されていました。
あるとき玉麗が掛け軸を別の物に取り替えるよう女官に命じましたが、掛け軸は冬になっても、早春を迎えても
「もう春になるのだから、梅の絵を飾るべきではないかしら」
春になり、後宮の庭では桃の木が薄紅色の花を咲かせました。
国王陛下のご寵愛厚い玉麗は、少しずつ
桃の花が散り始めたある晴れたうららかな午後のこと、玉麗は国王陛下と一緒に庭を歩いておりました。
国王陛下と正妃様の散歩は、いくら後宮内といえどもふたりきりというわけにはまいりません。わたくしたち女官がおふたりの後をぞろぞろと付き従って歩いておりました。
後宮の庭は、川や池、小さな滝などがところどころに造られており、途中で休息するための
国王陛下は
空は青く澄み、白い雲が風に棚引いて流れておりました。
庭の木のどこかで
「なんと清々しい日であろう。この景色を眺めておれば、政務の
「はい、陛下」
国王陛下に話し掛けられた玉麗は満面の笑みで答えました。この頃には、女官たちが代わりに返事をするということもなくなっていたのです。
「もちろん、そなたの姿があってこそのこの絶景だがな。
目を細めた国王陛下は、軽く玉麗の肩に手を置いて告げられました。
「いやですわ、陛下。あたくしは玉麗でございます」
日頃「正妃」と呼び掛けられていた玉麗は、ほとんど無意識のうちに答えていました。
一瞬、国王陛下の顔は夢から覚めたばかりのように無表情になり、数拍後にはこの世のものとも思われないほど
青空は途端に
「陛下?」
玉麗は自分の失言に気付かないのか、顔を
「どうなさいましたか」
ようやく陛下の異変に気付いた玉麗は床几から立ち上がり、
国王陛下は無言のまま大きく目を見開いた玉麗に背を向けると、未練を振り切るように素早い足取りで後宮から出ていかれました。
翌朝、わたくしが日の出前に正妃様の居室へ入りますと、壁から吊られた掛け軸の中には正妃様のお姿が戻っておりました。
正妃様はこの半年ばかりの間、掛け軸から抜け出ていたことなど素知らぬ顔で微笑んでいらっしゃいます。相変わらず牡丹の刺繍が美しい
わたくしは夜勤明けの女官と目礼を交わすと、衣装櫃から襦裙を取り出し、帯や肩巾と一緒に衣桁に掛けました。櫃の中の襦裙はすべて新しい物に入れ替えられており、これまで誰かが一度でも袖を通した形跡がある物はありません。化粧品も櫛も簪も、すべて新しい物ばかりが小物箱の中に並んでおります。
その後間もなく下女たちが運んできた朝餉は、わたくしたち女官に下賜されました。
掛け軸の正妃 紫藤市 @shidoichi
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