第5話 現実は思った通りに進まない

 静真の視界が回転した。


「がっ!?」


 そのまま背中から叩きつけられ、静真はうめき声と共に大きく息を吐き出す。


「受け身は基本よ、ちゃんとしなさい。柔道の授業は出ているでしょう?」


 そんな静真の胸板へ、容赦ない踏みつけが襲い掛かる。


「ぐ、う」


 どっ、と鈍い音と共に胸を圧迫され、さらなる苦悶の声を上げる静真。

 幸いなことがあるとすれば、その踏みつけには靴は使われていない。素足だ。それも格闘家のように筋肉で重ねられたものではなく、モデルのように美しい白い肌の足だ。

 それでも、容赦を抜いた一撃というのは肺から息を吐き出させるには十分すぎるほどの威力がある。


「ほら、早く私の足を退けなさい」

「ぐ、が、あ」

「何をしているの、鈍間。早くしないと死ぬわよ?」

「う、うううっ」

「それとも、こうやって私に踏みつけられて楽しむ性癖の持ち主なの? この変態」


 罵倒と共に込められた力に抗い、辛うじて静真は乗せられた足を払うことに成功。

 しかし、当然ながら罵倒の主――優里花はこの程度では止まらない。ようやく、足を退けたか、と言わんばかりにため息を吐くと、そのまま横っ腹に蹴りを入れていく。


「があっ!?」

「ちなみに、私は一般人を思いっきり痛めつけられる機会に興奮する性癖の持ち主よ。なので、私が貴方に容赦することはあり得ない。死ぬ手前まで、散々に嬲ってあげるわ」

「ぐぅっ!?」


 横っ腹を蹴られた静真はその勢いのまま、床を転がり、辛うじて立ち上がり、構えを取る。


「へぇ、まだ立つの」


 静真を見る目を細める優里花。


「はぁ、はぁっ、立つさ! 俺は、ヒーローになるんだから!」


 荒い息を吐きながらも、啖呵を切る静真。

 両者は現在、道着姿で相対していた。

 もちろん、殺し合いでもなければ喧嘩でもない。これは訓練である。そのために、道場の一つを貸し切っているのだから。


「ならば、さっさとかかってきなさい。力無き正義ほど醜悪なものはないわ」

「はぁ、はぁ、はぁっ! や、やってやるっ!」


 静真は挑発なのか、発破なのかわからない声を受けて動き出す。

 拳を握り、優里花の前に飛び込み、思いっきり腕を引いて――――その時点で、静真の理性がストップをかける。同性ならともかく、異性の先輩に手を上げるのか、と。


「愚か」


 その隙を、闘争に適合しきれていない普通の感性を非難するように、優里花の痛烈なる突きが静真の鳩尾へと突き刺さる。


「おごっ――」

「愚かが過ぎるわ、一般人」


 それは武力というよりは、強化された暴力のような乱暴さだった。

 殴る、殴る、殴る、蹴る、殴る。

 急所で仕留めるのではなく、相手の心をいかに折るかを考えた組み立ての攻撃だった。

 当然、そんなものを受けて静真がただで済むわけがない。


「悪を為すのが男だけだとでも? 巨悪を討つとき、女だからその手を緩めると?」

「う、ううっ! ま、まだ、俺は――」

「ヒーローになるというのならば、まずは痛みを受け入れなさい。殴られる痛みを。殴る痛みを。その心に刻み付けなさい」


 静真の顔はひどい有様だった。

 打撃でぼこぼこに歪んでいるのもそうだが、涙と鼻水でぐじゃぐじゃに湿っている。

 心が折れる、折れない以前に、人間の体とは痛みを受ければ反射的に汁を垂れ流すものなのだ。故に、何度も激痛を受けた静真の顔は無様な有様になっているのだ。


「さぁ、怒りでも憎しみでも義憤でも構わないわ。まず、手始めに私を殴るところから始めなさい。女を殴る最低の男になりなさい。何、安心するといいわ。今の私は、人を痛めつけることが大好きな悪よ。変態なサイコよ。思いっきり殴ってきなさい――――殴れ!!」


 それでも、一歩踏み出して、ヘロヘロの右腕を振るったのは単なる意地だった。

 怒りや憎しみもあったかもしれないが、何よりもこのままでは終わりたくない、という意地が実に情けない拳を振るわせて。


「よろしい」


 ぺちん、と情けない音を立てて優里花の左頬を打った。


「これで貴方も最低人間の仲間入りよ、おめでとう」


 すると、ここで初めて優里花の表情が動く。

 仏頂面から、享楽に歪んだ笑みを浮かべた、加害者の表情に。


「お祝いに、私からプレゼントをあげましょう」

「がっ!?」


 先ほどまでとは一線を画すほどの動き。

 素早く、なめらかな武術的な動きにより、瞬く間に静真の腕を取った優里花は、そのまま関節を決める。


「特別な痛みをあげましょう」


 ぎりぎりぎり、みしみしみ、と音が鳴る。

 腕の筋が千切れ、骨が軋む音が、静真の内側から鳴っている。


「や、やめっ、やめてくれ……う、嘘だろ? こんなの――」

「あはっ、あははははっ!」


 情けなく懇願する静真を、優里花は笑った。

 笑って、嗤って、まるで甘い毒薬のような声を耳から静真に注ぎ込んで。


「漏らさなければ、褒めてあげるわ」


 ごきん、と腕の骨が折れる音が、その衝撃が、静真の意識を刈り取った。




 何事にも鍛錬はつきものだ。

 どれだけの天才だとしても、一日で成るものなどたかが知れている。

 随って、ヒーロー見習いとなった静真はまず、肉体を鍛えるための鍛錬を行うことになった。

 ――――というよりは、よほどの例外でもない限り、見習いは鍛錬のみ行う。

 どのような善を為すにせよ、番人としてどんな活動をするにせよ、基礎である肉体が出来上がっていない者は単なる足手纏いだ。

 故に、まずは鍛える。鍛えに鍛えて、どのような事態であっても動けるようになってから初めて、ヒーロー見習いもとい、番人見習いとして仕事を託されるのだ。

 少なくとも、昭輝はそのように静真を育てるつもりだった。

 そして、静真の師匠として白羽の矢が立ったのが、同じ学校の先輩であり、学生でありながら番人としての力量を既に身に付けている優里花というわけだ。

 ただ、優里花による鍛錬は熾烈を極め、開始してからおよそ一週間が過ぎた頃、静真の精神は限界に達しようとしていたのだが。


「死ぬ、死ぬ、死んでしまう……」


 気絶から回復した静真は現在、道場の片隅でガタガタと震えながら休憩していた。

 気絶していた時間はおおよそ五分間ほどであり、残りの休憩時間は二十五分。その時間を、静真は自身の精神からなけなしの勇気を振り絞るための時間に使っていた。


「失礼なことを言わないでほしいわ、鳴上。私はそんなへまはしない。きっちりと手加減した上、死ぬぎりぎりまできちんと痛めつけてあげるわ」

「ひぃっ!」

「もちろん、その後は傷跡一つ残さず治してあげる」

「ひぃいいいいっ!!」


 体育座りをしながら震えている静真を、優里花は冷たい視線で見下ろしていた。

 そこにあるのは優しさからくる厳しさではなく、極寒の冬山の如き無慈悲なる厳しさである。


「何かしら? なんで治してあげる宣言でも恐れているの、お前は?」


 冷たく見下ろす優里花の視線にある静真――その腕は両方ともきちんと繋がっており、どちらも折れていない。これは、優里花が上手く手加減したというわけでは無く、きっちりと折った上で、その後に治したのだ。

 番人たる優里花の特殊能力によって。


「私の力があれば、どれだけ体が壊れるほど鍛錬を重ねても全く問題ないわ。その上、治した分の肉体の『細胞分裂』は進んでないから、寿命が大きく削れることもない」


 優里花の目線の先にある静真の肉体は、腕が折れていないだけではなく、鍛錬で付いたあらゆる傷が消え去っていた。まるで、最初からそんな傷などなかったかのように。

 何も知らぬ者が見れば、それこそ奇跡の御業に感じてしまうほどの特殊能力だった。

 しかし、きっちり治ったというのに静真の表情は明るくない。

 だが、それもそのはず。


「一体、何が不満なのかしら?」

「治す時、めっちゃ痛いことですけどぉ!?」


 奇跡染みた治療の対価は安くは無く、『傷を負った時の倍の痛み』を受ける必要があるのだ。


「骨折の痛みで気絶したのに、それよりもひどい治療の痛みで起こされたことですけどぉ!?」

「お得でしょう?」

「何が!?」

「痛みに慣れる機会が増えて」

「スパルタが過ぎる!?」


 だというのに、静真はかすり傷も含めて全ての傷をきっちりと治療されたため、痛みに悶絶しながら地獄を味わう羽目になったらしい。


「もっと、もっとこう、痛くない治療は無いのですか!?」

「あるわ」

「あるんですか!? なのに、何故!?」


 精神的にはボロボロであるが、肉体的には元気になった静真はよほど痛かったのか、非難の意味も込めて言葉をぶつける。


「貴方がこれから先、やっていくつもりならこの程度の痛みでは話にならないから」


 けれども、帰ってきたのは冷や水のように静真の思考を落ち着かせる冷たい声だ。


「鳴上静真、貴方はまだ知らない。この世界の無常さを。番人としての痛みを。貴方は何も知らない……知らなくていいことを知ろうとしている愚者よ」

「……っ!」

「ならば、この程度の痛みには耐えなさい。耐えられないのならば、ヒーローなどという昭輝の戯言を真に受けるのは止めることね」


 冷たく容赦のない優里花の言葉に、静真は歯を食いしばって。


「いいや、俺は止めません」


 けれども、その心はまだ折れていなかった。


「國生先輩に思いっきり痛めつけられて、浮ついた気持ちは消えました。ヒーローになって、格好つけたい、なんて心のどこかにあった願望は消え去りました――――だけど、大切な日常を守りたいという覚悟と、昭輝さんに対する憧れは消えていません」

「……愚か、ここに極まっているわ、鳴上静真」


 優里花は深々とため息を吐くと、鋭く告げる。


「立ちなさい。今日は休日だから、午前中一杯は貴方を痛めつけてあげる。貴方の中にある、その覚悟も、憧れも、微塵に壊してしまうほどに」

「ははっ、上等ですよ、國生先輩」


 静真はその鋭さで心を貫かれない。

 歯を食いしばって立ち上がった後、威勢よく啖呵を切る。


「どれだけみっともなく泣きわめいても、男には引けない意地があるってことを教えてあげます」

「ならば、私は現実を教えてあげるわ。人間は意外と、痛みには勝てないという現実を」


 静真と優里花は自然と間合いと取り、互いに構えた。

 静真の方は素人臭く、何一つ様になっていない構え。

 優里花の方は、自然体で力が抜けていながらも隙が無い構え。


「うぉおおおおっ! くらえ、最低男パンチぃ!!」

「はい、論外」


 そして再び、拷問染みた組手が始まる。



◆◆◆



 昭輝は現在、上機嫌だった。

 何せ、目の前には好物のヒレカツ定食がある。

 二十代の時にはおかわりも行けた好物がある。流石に、三十代になった頃にはおかわりは厳しくなり、胃の調子と相談しながら揚げ物を食べる時は気を使っているが、今日は好物を食べるには不足の無いコンディションだった。


「いただきます、っと。んー、これこれ。やっぱり、この店のヒレカツ定食はこう、あっさりとしていながらジューシーな旨味があるという、絶妙な味わいがたまらねぇ」


 昭輝は現在、上機嫌だった。

 何せ、自分の隣には戦利品がある。紙袋にたっぷりと詰め込んだパチンコの景品がある。

 今日は朝から玉が止まることがなく、じゃんじゃんと箱が積みあがるほどに勝ったのだ。もっとも、全体的な負け分から見たら些細な勝ちではあるものの、肝心なのは気分である。

 パチンコを楽しみながら、金も儲かる。この幸せの連鎖のおかげで、昭輝は普段よりも三割増しで美味しくご飯を食べられていた。


「っと、ん? お前は食わねーのか? 俺の奢りだぜ、がっつりと行けよ」

「…………馬鹿昭輝」

「んだよ?」


 昭輝は現在、上機嫌だった。

 目の前の優里花から睨まれても、それは変わらない。

 何せ、『思い通り』になることが一つあったから。


「いい加減に聞かせて、何故、鳴上静真を、あの一般人をスカウトしたの?」


 昭輝の望み通り、静真が番人の見習いとして活動を始めたのだから。


「へぇ、その言い方だと、相変わらず優里花は反対なんだな、あいつをスカウトするの」

「当たり前でしょう? 彼は一般人よ?」


 上機嫌な昭輝に対して、優里花は不機嫌極まりないオーラを漂わせた仏頂面だった。


「一般人、ねぇ? 誰だって最初は一般人だろ? 最初は大目に見ろよ」

「生まれた時から『特別』だった人が何を言っているの? そもそも、私たち番人は、神機に対する適性が無ければ、どれだけ体を鍛えたところで意味ないわ。貴方が頼むから、渋々鍛えてあげているけど…………正直、モノになるかは神機との相性次第よ?」

「はっ、それなら問題ねぇな。あいつと神機との相性はばっちりだよ。ほかならぬ、この俺が言っているんだから間違いない」

「何その自信? 根拠を示しなさい、今すぐ」

「俺の神機、『紅蓮』はあいつを気に入っている」

「…………貴方、まさか」


 ごくりと喉を鳴らした後、優里花は目を細めて昭輝へ訊ねる。


「引退、するつもりなの? 番人を」

「まぁ、今すぐってわけじゃねーけどな? 俺も後継者を考え始める年齢ってわけだ」

「…………私たち番人の中で一番強い癖に?」

「三十代半ばのオジサンには、もうそろそろドンパチは厳しいものがあんだよ。バリバリ動いていてもなぁ、もう筋肉痛が翌日に来ねーのよ、オジサンだから」

「…………むぅ」

「ははっ、そんな顔をするなって」


 昭輝は露骨に唇を尖らせた優里花に苦笑した。

 さながら、拗ねた幼子を見るかのように。


「番人を辞めたからと言って、何も関係なくなわけじゃねーよ。つーか、三十代半ばで無職ってのもきついからな? 辞めた後は工場で神機の整備員として働いたり、神社の雑用係として、『神様』のご機嫌伺いでもするからよ」

「認めない」

「いや、俺も年齢による引退は認めてほしい――」

「あいつが、貴方の後継者なんて認めない」


 どん、と優里花は苛立たしげにテーブルを叩き、昭輝を睨みつける。


「あんなの、何も知らないただの一般人でしょう? 私たちとは違う癖に。普通の範疇に収まっていられる癖に。こっち側にはみ出ようとする愚か者でしょう? そんな奴が、貴方の後継者なんて認められるわけない」

「おいおい、随分な言いぐさだな? 別に、『可哀そうな人間』しかなれない職業ってわけであるまいに」

「それでも、痛みを知らない人間はすぐに逃げる」

「一週間、逃げずにお前の鍛錬を受けているだろうが」

「……根性は、少し認めなくもないけれど」


 ただ、昭輝から冷静な指摘を受けると、怒りは多少削がれた。


「お前はどうせ、あいつに大人も逃げ出すような拷問染みた鍛え方をしているんだろうが。それでも逃げ出さないってのは、気骨があるって証拠にならないか?」

「まだ一週間しか経っていないわ。それに……鍛錬に耐えたところで、実戦で役に立たなければ意味ないわ」

「んじゃあ、とりあえず実戦までは様子を見るってことでいいな?」

「…………昭輝、本気なの?」


 そして、怒りが削がれて冷静さを取り戻したが故に、その質問は優里花の純粋な疑問が込められていた。


「本気で一般人をこっちに引き込むつもりなの? だとしたら、貴方のそれは優しさではないわ。ヒーローに憧れる少年を、現実の戦場に引き込むのは、優しい行いじゃない」

「ははっ! おいおい、優里花――――俺がいつ、優しさで動いているって言った?」


 だからこそ、答える昭輝の顔から笑みが消え去る。

 真剣に、偽りなしに疑問に答えるために。


「俺はあいつを必要だと思った。だから、スカウトした。それだけのことだ」

「……どうして? 昭輝、貴方はどうしてそこまであいつを見出したの?」


 だが、それも一瞬のこと。

 再び優里花が問い直す頃には、いつもの飄然とした笑みを浮かべていて。


「そりゃあもちろん、あいつがヒーローに向いているからだ」


 冗談めかした、けれども間違いなく本気の言葉を紡いでいた。



◆◆◆



 ヒーロー見習い――もとい、番人見習いとして鍛錬を始めた静真だったが、当然ながら日々の生活というものがある。

 休日の半分を潰して、みっちりと優里花から稽古をつけられることもあるが、基本的に平日は学業に専念。体を鍛えるのも精々、ランニングと筋トレ程度である。

 従って、覚悟を決めた静真ではあったものの、その生活スタイルはあまり変わらなかった。

 高校生として当たり前のように学校へ通い、家に帰ってきては予習と復習を行って。残った時間を鍛錬に費やす。

 すると必然、今まで趣味に費やしていた時間というのは消し飛ぶことになり、時間間隔も加速することになる。

 その結果、『それ』は静真が思ったよりも格段に早くやってきた。


「それでね、やっぱり生首なの」


 場所は天見町では数少ない、都会的でお洒落な雰囲気の喫茶店。

 テーブルを挟んだ向こう側から、にこにこと太陽の如き笑顔を見せる少女は、先日、思わぬ形で接点を持ったクラスメイト。

 そう、静真は現在、クラスメイト――未咲と共にデートっぽいことをしていた。


「生首ヒロインという存在感のあるキャラクターを出しながら、その外連味だけでは無くて、最後は綺麗に感動のラストに締めくくるところが、泥波香蓮先生の凄さなの。『首の少女』のあらすじを読んだ時は、泥波香蓮先生に青春ホラーが書けるの? え? 青春を悉く恐怖に陥れるの? とか思っちゃったけど、本編を読んだらかなり王道の青春だったから驚いてね?」

「あー、あれを書いている時、母さんは多分、青春グラフィティに嵌っていたからな。俺によく、学校の雰囲気とか恋バナとかを語らせていたし」

「やっぱり! あの青春の雰囲気は、綿密な取材あってのものだったんだね!」


 少なくとも、静真の認識としてはそのような感じである。

 何せ、女子と二人きりで喫茶店に居るのだ。

 お礼という名目で食事を奢られているものの、話題の大半は作家である母親の作品に関するものだけれども、それでも二人きりで楽しくおしゃべり出来ているのだ。

 これをデートと言わずとして、なんと言おう?

 などと、舞い上がった思考と、生来のネガティブな思考が拮抗し合い、今の静真は辛うじて平静を保てている状態だった。


「まー、うちの母親は取材を結構大事にするからね。それこそ、小説の舞台となる場所に引っ越して、執筆中はずっとその場所の雰囲気に浸るぐらいに」

「えっ? そうなるともしかして、この天見町が舞台の新作が出ちゃう?」

「多分ね。いつ頃発刊されるかはわからないけど」

「推しの作家が地元を舞台に小説を書いてくれる……この世界にこんな喜びがあったなんて」


 そんな陰陽相克状態の静真に対して、未咲の態度は終始、元気で明るいものだった。


「ひょ、ひょっとして、あれかな? もしかしたら、私たちの学校も舞台になるのかな?」

「んー、まぁ、なるかも? 主人公は高校生の予定らしいし」

「……取材のご協力なら、是非ともこの私に! なーんて、言ってみたり」

「ああ。それは普通にうちの母親も喜ぶだろうね、割とマジで」

「ほ、本当!? やったぁ! じゃあ、その内、家にお邪魔してもいい?」

「…………あ、ああ。大丈夫だと思うよ、うん」


 静真を通して、推しの作家に会おうという下心は見え見えなものの、それを隠していないことが逆に、健全なお付き合いの証明となっていた。


「わぁい! ありがとう、静真君! 私、静真君と会えて本当に良かった!」

「俺というか、俺の母親に、みたいなニュアンスを感じるけどね?」

「ううん、そのことももちろんあるけれど。でも、それ抜きでも静真君と会えて良かったと思うな。だって私、こんなに泥波香蓮先生に語れる相手、他に居ないもん」

「そ、そうか」


 もっとも、健全ではあるものの、さらりと静真の心をくすぐる一言を告げたりするので、意図的か無意識化はさておき、悪女的な振る舞いをしていることは確かだった。


「それでさ、静真君」

「うん?」

「これは偏見とか意見の押しつけじゃないんだけどね? こう、泥波香蓮先生の一ファンとしては、息子である上に文芸部に所属している静真君も小説を書くのかどうか、気になったりするんだけど?」

「あー」


 いや、あるいは『泥波香蓮』というジャンルに対する興味に終始しているのかもしれない。

 未咲は愛想の良い猫のように距離を詰めると、気になって仕方がない、という様子で静真は問いかけている。


「悪いけど、期待には沿えないな。俺って、小説を書く才能があんまり無いみたいだし」

「えっ?」

「というか、『書きたいテーマ』が無いんだ、俺の中には。だから、適当に文字数を稼ぐことぐらいはできるけど、人を感動させる代物――ううん、自分自身を納得させる作品すら、俺には書けないんだよ」


 そして、帰ってきた答えに、未咲は叱られた猫のような気まずい表情を浮かべてしまった。

 興味本位から、静真の地雷を踏んでしまったのだと思ってしまったのだろう。


「ご、ごめんなさい……無神経なことを聞いてごめんなさい……」

「ん? あ、いやいや! 謝らなくても!」


 対して、静真の態度はあっけらかんとしたものだった。


「うちの母親には悪いけど、そもそもそんなに小説書くの好きではないしね、俺。だから、別にそこまでコンプレックスというわけでもなくてね?」

「そ、そう?」

「そうそう」

「……うん、わかった。ここで私が変に気にし過ぎると、それこそ変な空気になる奴だね」

「そうそう」

「ここはお詫びと場の雰囲気を変える意味を兼ねて、年頃の男子が好きそうな話題を……よし、それじゃあ、私もスリーサイズでも――」

「ちょっと待って???」


 多少の危うさはあったものの、結局のところは平穏無事。

 静真と未咲は、何事もなくこの後もデートっぽいことを楽しんだのだった。

 少なくとも、表面上は。



●●●



 デートっぽいことを楽しんだ後の夜。

 静真は久しぶりの悪夢にうなされていた。


「泥波先生のお子さんですからね、将来が楽しみです」


 一体、いつ言われた言葉なのか?

 誰に言われた言葉なのか?

 それすら覚えていないような昔の出来事であるが、静真は過去に小説家を志していたことがある。


「ほう、小学生の頃からもうこんなに書けるのですか」

「いいねぇ、才能があるよ」

「親子で作家対談……いいね、夢がある」


 大人の無責任な言葉に舞い上がり、本気で小説を書いた。

 それも、短編ではない。きちんと小説の作法をインターネットで検索し、ライトノベルの賞の規約もきっちりと守った上で、長編を一本応募したのだ。

 当時、まだ小学生だったことを鑑みれば、静真のやったことは『年齢の割には凄い』ことになる。だが、所詮は早熟であるだけに過ぎない。

 初めての小説を投稿した結果は、一次選考落選。

 つまりは、箸にも棒にも掛からぬ有様だったのである。


「あまり気にしなくてだいじょーぶだよ、息子! 新人賞なんて大体、プロでも一次選考落選することもあるから!」


 母親からの慰めの言葉を受けても、静真の心に付いた折り目は戻らない。

 無論、たった一度の挑戦で終わったわけでは無い。

 何度も、何度も、静真は小説を書いて新人賞に応募した。インターネット上の投稿サイトに載せたこともある。流行の作品を真似して、いくつか作品を書いたこともある。

 しかし、そのどれもが鳴かず飛ばず。

 その内、段々と静真は評価をされないということに慣れていった。

 心に予防線を引くという段階ではない。納得する段階に到達してしまったのだ。

 自分に才能は無いと、中学生の段階で既に見切りをつけてしまったのだ。


「息子、息子! 偉大な母親からのアドバイスだけど! そういう時は、周囲の評価よりも、自分の書きたいものを書いてみるとよろしいのよ?」


 そして、とどめとなったのは母親からの善意の言葉だ。

 書きたいもの書けばいい。

 そんなありきたりな、けれども現役のプロ作家から提示されたアドバイス。初心に戻れるような言葉。その言葉を受けて、静真は確かに初心を思い出した。

 ――自分が小説を書けば、母親が喜んでくれるかもしれない。

 そんな、ささやかな善意で構成された、がらんどうの動機を。

 そう、つまりは最初から静真には書きたいものなんてなかったのである。


「母さん。俺さ、小説よりもやりたいことが出来たから、小説はもうやめるよ」


 中学二年生の時、静真は母親に諦めと誤魔化しに満ちた言葉を吐き出した。

 小説よりもやりたいこと、というワードに込められた思いは熱意ではなく、冷めきった納得だ。何せ、この言葉は誤魔化しではない。静真は大分前からずっと、小説を書いているよりも、他の子どもたちと同じようにゲームや動画を視ている方が楽しく感じていたのだから。

 故に、静真の挑戦はここで終わり。

 才能も熱意も無かった子供が、当たり前に自分の身の程を思い知ったというだけの話。

 誰にでもあるような挫折。

 そのことを反芻するように、静真は夢を視ていたのだ。


 原因は恐らく、喫茶店での食事の最中、未咲から言われた言葉。

 静真としてはまるで気にしていないつもりでも、心の古傷が疼く程度には、無意識に気になっていたのかもしれない。


 ――――結局のところ、鳴上静真は何者にもなれない。


 悪夢の中、誰に言われるでもなく自分自身で静真は自虐する。

 夢中になっていたから、陰気になる暇もなかっただけで、きっかけさえ与えられてしまえば、静真の精神は勝手に自虐を始めるのだ。

 挫折したお前が、今更何者になるつもりなのか? と。

 優里花からの鍛錬を受けている時、才能の無さを思い知らなかったのか? と。

 まさか、お前程度が彼女と――未咲という陽キャ一軍女子と、どうにかなれるとでも? と。

 静真は闇の中に引きずられるように、悪夢の中で藻掻き苦しんで。



『《生まれ変わりたいと望む貴方に、祝福を与えましょう》』



 光の如き啓示が降り注いだ。

 それは心の闇を切り裂くように静真へと降り注ぎ、段々と光の塊のようなものが、胸の中へとするりと入りこんだ。

 さながら、静真の心の隙間を埋めるかのように。


「…………ぬーんっ!!」

『《えっ?》』


 しかし、静真はその心地よさを否定する。

 悪夢の中にあって、入り込んできた光を弾き出し、拒絶する。


「うる、さい! 誰か知らないけど、勝手に人の心に土足で入ってくるな! 俺の失敗も! 挫折も! 自虐も! 全部全部、俺が自分でどうにかするものなんだ!!」

『《…………はぁ》』


 心の闇に沈みながらも、吠えるように宣言する静真。

 陰気ながらも、妙にプライドに溢れた言葉を叫ぶ相手に対して呆れたのか、降り注ぐ光の向こう側に居る何者かは、呆れたようにため息を吐いて。


『《問答無用です、せいやっ!!》』

「ぎゃぼっ!!?」


 右ストレートを放つが如き勢いで、静真の胸に光の塊を再度叩き込んだ。

 どうやら、これは拒絶を選んでも勝手に進む系のイベントだったらしい。



●●●



 静真は夢を覚えていない。

 否、『大体の者』は夢を覚えられない。夢の啓示を記憶できない。

 そういう風にできているのだ。

 故に、静真がその変化を感じ取ったのは夢を視てから数日経ってからのことだった。


「へぇ、やるじゃん。面白いぜ、この短編」


 その日の放課後、静真は早めに文芸部のノルマを達成するため、今月分の課題を提出していたのだ。


「日常の中に潜む、些細な恐怖、背筋が震えるような読後感。だけど、どこか清々しい……泥波香蓮みたいな作風のホラー短編で、俺は結構好きだな」


 そして、その課題文の文章を誤字チェックがてらに、隆造が呼んでいたわけだが、その感想というのが思った以上に好感触だったのである。


「そ、そう?」

「おう、少なくとも俺は好きだな、こういうの。つーか、地の分もこなれた感じもあるし、結構昔から小説を書いていたのか?」

「ん、まぁ、それなりに?」

「ははっ、なんで首を傾げてんだよ?」


 首を傾げながら、釈然としない気持ちを静真が抱いていたのは、もちろん理由がある。

 何せ、初めてだったのだ。

 自分の書いた小説を、リアルで褒められた経験というのは。

 何せ、『小説を書く行為』を褒められたことはあっても、その内容を容易く褒める大人は周囲に存在せず、自分の小説を読ませるほど仲の良い友達は今まで居なかったのだ。

 故に、初めての体験に、静真は喜ぶよりも先に戸惑ってしまったのである。


「…………遅咲きで、才能が開花したとか?」


 思わぬ評価を受けた静真は一人呟くが、その答えはどこにも見つからない。

 何はともあれ、その場では『珍しいこともあるもんだ』と、自分の書いた小説に対して、他人事のように感心したのだった。




 これは何か異変が起こっている、と静真が確信したのはそれから数日後。

 休日の朝から午前中を全部潰す、優里花による組手の時である。


「ぬおっと、ととと?」


 いつも通り、優里花によって背負い投げを決められた静真だったが、その受け身が異様なほど綺麗に決まったのだ。

 それこそ、ほとんど体への衝撃を外へと逃がしてしまうほどに。


「ふぅん。投げられ続ければ、一般人でも学ぶということね。いいわ、今からもっと真面目に痛めつけてあげる」

「ちょっ、それは流石に勘弁――」

「悪党は弱者に容赦しない」


 そして、その後の鍛錬も中でも、静真の様子は依然と異なっていた。


「った、たたた……凄く痛いぃ……」


 泣き言を言いながらも、静真はなんとか優里花の打撃を受け止めて。


「折れる、折れる、折れる!? また折られるのは嫌だぁ!?」


 悲鳴を上げながら、必死に優里花の関節技から抜け出し続けて。


「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇっ……や、やっと一発……」

「ふぅむ。この私としたことが、不覚ね」


 鍛錬が終わる数分前の時間には、ようやくまともな形で優里花へとまともな一撃を食らわせることに成功したのだった。


「なるほど。これが『ヒーローに向いている』ということね。まったく、才能を見出したのならば、昭輝も素直にそう言えばいいのに、あの馬鹿」


 その活躍たるや、今まで地獄の鬼の如く厳しかった優里花をして、感心の言葉を吐き出すほど。そう、静真は組手を何度も続けることにより、ついにまともな動きができる程度には、戦闘力が向上したのである。


「…………???」


 しかし、その向上した戦闘力に一番戸惑っているのが、静真本人だった。


「この俺があんな動きを? しかも、たった数週間の鍛錬で? 嘘だろ?」


 ボコボコにされるだけだった鍛錬で、まともに動けるようになる。

 これを成長とは捉えず、異変と考える程度には静真はネガティブであり、自身の性能にシビアな人間だった。

 何せ、今までまともに運動系の部活に所属もしていなかった静真だ。

 先週まで、されるがままボコボコに痛めつけられていた静真だ。

 そんな人間が突然、マシな体の動きを見せるようになるのは、いくら何でも都合が良すぎる変化だと自身を疑っているのである。


「一体、何が起こっているんだ?」


 珍しく感心している様子の優里花をよそに、静真は冷静に、客観的に自身の変化について考える。

 もしかするとこれは、『よろしくない変化』ではないかと。




 疑いはありつつも、日常は止まらずに進んでいく。

 そして、静真と周囲の関係性も。


「ふふふーん♪ 楽しみだなぁ! 私、明日に泥波香蓮先生と会えるんだ!」

「普通……とは言い難いけど、そこまで立派な感じの大人ではないから、あまり期待し過ぎない方がいいよ?」

「いやいや、たとえどんな人だったとしても、私の中でバイアスがバリバリかかっているから! 超尊敬しちゃう!」

「同級生からそこまで尊敬を受ける母親って、ちょっと複雑だわ」


 自身に違和感を抱き始めた翌日、静真は未咲と二人きりで下校していた。

 女子と二人並んで帰路に着く、という憧れのシチュエーションが現実になっている最中、けれども静真の心には喜びよりも戸惑いがあった。

 どうにも最近、上手くいきすぎている気がする。

 異様なほどに、物事が思い通りに進み過ぎている気がする。

 それこそ、何かの『特殊能力』にでも覚醒したことを疑うほどに。


「とりあえず、未咲が来ることは前もって教えてあるから……一応、サイン本の準備は前もってしているらしいから、そこは期待してもいいよ?」

「サイン本!?」

「ちゃんと、未咲の名前も入れているらしい」

「サービスが過ぎるね! 私、興奮してきちゃった!」


 ただ、今だけはそんな疑念は押し殺しておこう、と静真は自らを戒めた。

 何せ、今は未咲と一緒に帰路を歩いているのだ。

 明日の予定を二人で話し合っているのだ。

 こういう楽しくて仕方がないような時に、わざわざテンションが下がるようなことをいつまでも悩み続けるのはよろしくない。


「ははっ、喜んでくれたなら何より」


 せめて、悩むのは自宅に帰った後にしよう。

 そのように考えた静真は、陰気な自分に出来る精一杯の笑顔を浮かべた。


「そりゃあ、推しの作家のサイン本で喜ばない方が嘘だよ――と、ここら辺で良いかな?」

「ん? 何が?」


 そして、突然、未咲が周囲に視線を向けた行為に首を傾げて。



「お久しゅうございます、陛下」

「うむ、遅参を許そう」



 気づけば、静真は跪いていた。


「我が騎士、『影』なるジーン・クロケットよ」


 王者の如く威厳に溢れる、未咲の前に。

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