第8話 トーマス・マンは古典文学じゃねえ



 スクールバスのつり革に手首をつっこみ、もう片方の手で、文庫本を開く。

 すぐに声をかけてくるやつがいた。


「なーに読んでんだァ?」


 来た。心臓が大きく打つ。だが表情は変えない。


「トニオ・クレーゲル」

「エロいの?」

「アホ」


 半ば無視して本を読み続ける。

 僕の様子にお構いなしに、そいつは話しかけてくる。僕はそいつに目を向けた。


「あのな、おれ事故ったの知ってる? 脳の手術をしてさ、記憶のかなりの部分が抜け落ちてるんだ。悪いけど名前言ってくれる?」

「はあ? マジかよ」


 そいつはなおもふざけようとした。だが、僕の表情が真剣なのを見て取ったらしい。態度が態わった。


「早水。同じクラスの」

「ハヤミ、だな。ん、憶えた」

「そんなヤバい手術だったのか」

「まあな」


 無理な演技をしないで、わからないことは全部記憶喪失で通せ。

 ゆうべ寺坂さんと、そう打ち合わせた。


「相手に合わせるのではなく、相手を自分に合わせるの。それがぼっちゃんですよ」


 堀部さんもそう言っていた。


「喋るのが億劫なら喋らない。大事故の後の記憶喪失なら、むしろそうした方が自然でしょうね」


 寺坂さんは頭のいい人だと思う。黙っていた方が自然だという指摘は、今の早水の態度を見ても正鵠せいこくを射ている。


 それで黙って本を読んでいると、バスが停まるごとに僕に話しかけてくるやつらが増え、それでも黙っていると、彼らも特に気にする様子もなく、思い思いにバスの中でくつろぎ始めた。


 校舎の場所。職員室の場所。教室の場所。いちいち教えてもらわなくてはわからない。


「タクは記憶が飛んでるらしいからな」


 机やロッカーの位置は、きかなくても彼らの方から教えてくれた。


 席につくや否や、いきなり背後から首を絞められた。


「おう、誰がくそ村だ」


 ニキビだらけの天パの男。こいつが電話をかけてきた沢村らしい。


「すまんな。あの後、スマホぶっ壊れて、折り返せなかった」

「そうか。まあいいよ、たいした用じゃなかったし」


「ちょっと。タクは大手術の後なのよ。静かにしてあげて」


 びっくりするほど強い剣幕で、彼らを僕のまわりから追い払う女子が現れた。

 高校生だから女子。

 でもこの女子は上背が高く、薄くメイクしていた。おとなの女性の貫禄がある。


 女子は席の前に腰掛け、おとなっぽい、情のこもった眼差しで僕をみつめた。ついドギマギしてしまう。


「大丈夫だった?」

「まあ」

「記憶ないの? あたしのことも忘れた?」

「……ごめん」

「そう」


 女子の顔がみるみる暗くなった。


「まあいいわ。これ、退院祝い」


 渡されたのは、死の世界をさまよう不気味なメルヘンの少女、とでもいうような顔の、人形のストラップだ。


「あたしは不破のどか。まあ、一言でいえば、そうね、記憶をなくす前のタクの、いちばん近くにいた女」


 ああ、この子が「のどか」。

 浅野拓海のスマホを充電し始めた時、大量のメッセージが着信した、その送信元の子。吉良青子きらさやこ、潮田レモンに次ぐ、第三の女、のどか。


 しかし本人によれば「いちばん近くにいた女」だそうだから、自己申告上は第一の女。


 まあ芸能人の潮田レモンや、化け物にしか見えないさやこお嬢様よりは、30倍くらいマトモな子に見える。


 ホームルームのチャイムが鳴ると、じゃああとでと、のどかさんは席を立ち、別の女子が僕の前の席に腰かけた。もともとこの女子の席だったらしい。


 婚約者含めて、彼女が3人。

 根がまじめっ子なので、そうなるとすぐに好意の順番をつけたくなる。まじめっ子界隈では本命はお一人様限定。あの子もこの子もそっちの子も大好きというわけにはいかない。

 しかし浅野拓海はちゃらんぽらんなので、その辺のルールはテキトーかもしれない。


 ホームルームの間、のどかさんからもらった人形のストラップを指に絡めた。


「わたしはあなたのものよ」


 のどかさんからそう言われたようでくすぐったい気分になる。いいなあ浅野拓海。

 彼女が想いを寄せているのは浅野拓海であって、外見は同じでも中身はニセモノの僕は、気付かれないように彼女からの想いを受け継がなくてはならない。


 同性の友人たちについても以下同文。沢村、早水、ほか誰がいたっけ。早く名前を憶えて、関係を以前のまま保つ。これが僕の最初のミッションだ。


 休憩を挟んで授業が始まった。

 思いがけないことに、授業のレベルはとびきり高かった。以前通っていた松の廊下高校はたしかに偏差値の低い学校だったし、そこですら平均レベルだった僕には、殿中学園の、それも一年生の一学期のレベルですら、既にちんぷんかんぷんだ。


 ヤバい。


 左隣の席から何かが落ちた。シャーペンかと思って覗くと、化粧道具、たしかアイライナーとかいうやつだった。

 落とした隣の女子は気付いていないようなので、拾って机の上に置いてやった。


「あ、ごめん、ありがとう」


 隣の席の女子は小声でささやいて手を合わせた。


 チラチラと視線を感じる。

 周囲を見まわす。目が合ったやつらが、あわてて視線を逸らす。


 ノートに落書きをしている者、ひそひそ喋っている者、隠れてスマホをいじっている者、教科書の陰で何か食っている者、――授業のレベルに対して、生徒のレベルはあまり高くないのかもしれない。


 最初の授業が終わったところで、早くもぐったり疲れてしまった。


 化粧品を拾ってあげた隣の女子が、個包装のグミを机に置いてくれた。


「疲れた?」

「あ、ありがとう」


 女子はびっくりしたように目をまるくした。


「浅野くん、どうしたん? 雰囲気が変わったね」


 グミの包装を破って口に入れる。いちご味だ。


「袋も普通に破ってるし」


 何の話をしているのかわからない。


「頭の手術をしてね。いろいろ忘れてるみたいなんだ」

「んーと、そうじゃなくてね」


 隣の女子は困ったような、言い難そうな、複雑な表情で首を傾けた。


「朝から思ってたんだけど、すっごく姿勢がいいんだよね、今日の浅野くん」


 へ?


「事故の前はあんなにぐにゃぐにゃだったのに、今は背筋がピシッとまっすぐ。お華の先生みたい」


 はあ?


「お菓子をあげたらお礼が返ってくるし」

「いや、あの」

「グミとか、そういう小さい袋を指で破るの、前はできなかったよね。のどかちゃんのところへ持って行って、これ開けて、とか言ってさ」


 その情報は聞いていなかった。さては寺坂さんも知らなかったな。


「初めての場所みたいで、ちょっと緊張してるからかな」


 話を打ち切りたくて読みかけの「トニオ・クレーゲル」を開いた。背中に汗をかいていた。ちゃらんぽらん界隈では、背筋もぐにゃぐにゃにするという新事実。


 いや、だって、まじめっ子界隈では、背筋はまっすぐにした方が楽だし、目にも血行にもいいというのが常識だ。


「以前の俺って、こんな感じ?」


 わざと椅子にのけぞるような姿勢をしてみせる。


「そうそう。そんな感じ」

「努力してみるよ」

「いやあ、そういう努力は要らないんじゃない?」


 大石暗之介は身長が低かった。身長が低いと、少しでも高くしようと背筋をまっすぐ伸ばす癖がつく。もともと身長の高い浅野拓海にはその必要がないわけだ。

 机に突っ伏し、脱力した感じで文庫本を開く。なかなか難しい姿勢だ。


 いきなり本が取り上げられた。


「なにこれ?」


 いつのまにかやってきた不破のどかさんが、僕の本の表紙を見、裏を見、カバーの見開きを見た。


「おい、俺の本」

「あんた、頭がどうかしたの?」

「だから手術をしたんだって」

「頭の手術をしたら、ドイツの古典文学を読むようになるわけ?」


 仕方なく立ち上がり、のどかさんから本を取り返した。


「トーマス・マンは古典文学じゃねえ」


 ホームルーム前の僕への歓迎ムードは、最初の一時間で、ちょっとだけ白けた空気に変わってしまった。


 これはヤバい。絶対ヤバい。

 まじめっ子の世界とちゃらんぽらんの世界は、こうも文化が違っているのか。

 文化の相違は文化的背景の相違であり、文化とは、つまり生き死にのことだ。バックボーンが違うと、生き死にの形が変わるのだ。


 授業にはまったくついて行けなかった。

 お華の先生と言われないよう、椅子に浅く腰掛け、すこしのけぞった姿勢で授業を受ける。ノートがとりにくい。すぐに背中が痛み始める。


 こんな姿勢で毎日フルに授業を受けていた浅野拓海って、実はすごいやつだったのかもしれない。


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