遺伝子技術:生命の設計図への介入と、生物学的階層の創出

最後に、遺伝子技術、特にCRISPR-Cas9システムに代表されるゲノム編集技術の進展は、進化の最も根源的なレベル、すなわち生命の設計図であるDNAそのものに人間が直接介入することを可能にした。

当初は遺伝性疾患の治療という倫理的に受け入れられやすい目的で利用が始まったが、やがて能力向上(エンハンスメント)を目的とした利用へと拡大し、人間の生物学的なあり方そのものを問い直す事態を招いている。


遺伝子技術が「変異」の発生に与える影響は、他のどのテクノロジーよりも直接的かつ決定的だ。

それは、ランダムな突然変異を待つのではなく、望ましい遺伝的形質――高い知能、優れた身体能力、特定の芸術的才能、高いSID親和性やQSI、さらには長寿や疾病耐性など――を、受精卵の段階で意図的に「設計」し、新たな「変異」として人間の遺伝子プールに導入することを可能にする。

これにより、「自然な人間(ナチュラルズ)」と、遺伝的に「強化された人間(エンハンスド)」あるいは「デザイナーベビー」との間に、生まれながらにして生物学的な「差異」が生じる。

この「遺伝的格差」は、他のテクノロジーが生み出す格差とは異なり、個人の生涯を通じて持続し、そして次世代へと直接的に遺伝する可能性を持つ、最も根深く、覆しがたい格差である。


「選択」のメカニズムにおいて、遺伝子技術は、社会の深層で静かな、しかし強力な「優生学的選択圧」を生み出しつつある。

より優れた遺伝的資質を持つように「デザイン」された子供たちは、教育、就労、恋愛、そして社会的地位の獲得において、あらゆる面で有利なスタートラインに立つ。

彼らは、生まれながらにして高いポテンシャルを持ち、その能力を最大限に発揮することで、社会の指導的階層を形成していく。

一方で、そのような遺伝的介入を受けずに生まれたナチュラルズは、相対的に不利な立場に置かれ、エンハンスドとの競争において劣勢を強いられる。

これは、かつての優生思想が夢想した、生物学的なエリートによる社会の支配が、テクノロジーの力によって現実のものとなりつつあることを意味する。

もちろん、公には遺伝子差別は禁じられている。

しかし、個人の遺伝情報がSIDCOMを通じてある程度可視化され、AIによってその潜在能力が予測される現代において、非公式な形での遺伝的選別は、社会のあらゆる場面で水面下で進行している。


そして、「遺伝(継承)」のプロセスにおいて、遺伝子技術は文字通り、その効果を永続化させる。

エンハンスメント目的に編集された遺伝子は、生殖細胞系列を通じて確実に次世代へと受け継がれ、特定の「有利な形質」を持つ家系が形成されていく。

これは、自然淘汰の長い時間スケールを待つことなく、人間が自らの手で進化の方向性を決定し、特定の遺伝的系統を「進化させる」ことを意味する。

その結果、人類という単一の種は、遺伝的プロファイルの異なる複数のサブグループへと分岐し、将来的には生殖的隔離すら生じうる「種分化」のプロセスへと足を踏み入れる可能性すらある。

リサ・セント=クロノスが予見した「ヒューマナリウム種」の誕生は、もはや単なるSF的空想ではなく、現実的な未来のシナリオとして議論され始めている。


遺伝子技術は、このように生命の設計図そのものに介入し、生物学的な「差異」を意図的に創出し、社会の深層で優生学的な「選択圧」を駆動し、そしてその結果を永続的に「継承」させることで、進化のベクトルを最も根源的かつ不可逆的な形で、人間という種の分化と階層化の方向へと推し進めている。

これは、我々が直面している「格差進化」の最も先鋭的で、かつ最も倫理的に困難な側面である。


SID、霊子、AI、遺伝子技術――これらの基盤テクノロジーは、それぞれが独自の方法で進化の力学に介入し、人間の能力と存在様態に新たな「差異」を生み出し、特定の「適応」を促し、その結果を次世代へと「継承」させることで、我々の社会を急速に分断し、階層化している。

そして、これらのテクノロジーは独立して作用しているのではなく、むしろ相互に連携し、影響を増幅し合いながら、複合的な「格差進化」のシステムを形成している。

例えば、遺伝的に高いSID親和性を持つようにデザインされた子供は、SIDを通じた教育で高い認知能力を獲得し、高いQSIを発揮して魅力的な物語を創造し、AIと協調して革新的な成果を上げ、その結果として得た物語資本をさらに自らの子孫の遺伝的強化に投資する…といった、正のフィードバックループが形成されるのだ。


このテクノロジーによって加速・歪曲された進化のベクトルは、もはや旧世紀的な生物学的進化の概念だけでは捉えきれない。

それは、我々の意識のあり方、物語を創造し消費する文化、そして人間という種の生物学的な定義そのものを巻き込んだ、より包括的で、より根源的な変容のプロセスだ。

次のセクションでは、この変化の本質を、「生物学的進化」から「意識進化」「物語進化」へのパラダイムシフトという観点から、さらに深く考察していく。

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