第9話 もうすぐ夏が終わる
浜辺に降りると、海は思ったよりも静かだった。
風も、音も、まるでどこか遠慮しているみたいで。
世界が少し、ためらっているように見えた。
レイはサンダルを脱いで、裸足で砂を踏んだ。
そのまま、波打ち際まで歩いていく。
「冷たい」
そう言って笑うその声に、なぜか胸がつまる。
僕は少し遅れて彼女の隣に立った。
「……静かだね」
「うん。今日の海、やさしい」
「なんか、全部が止まってるみたい」
「そうかもね。たぶん、夏が終わる準備をしてるんだと思う」
彼女の声は、ひどくやわらかかった。
まるで、思い出を抱きしめるような声だった。
「ねえ、知ってる?」
彼女がぽつりと言った。
「“夏”って、いつか全部を忘れさせてくれる季節なんだよ」
「……どういう意味?」
「たとえば、今日みたいに誰かと手をつないで歩いたとしても、
秋になったら、すこしずつ色が変わって、形が変わって、
そのうち何が本当だったか分からなくなるの」
「……」
「でも、それでもいいって思えるのが、夏なんだよ」
僕は何も言えなかった。
砂の中に足が沈んでいく。
波が寄せては返す。その繰り返しだけが、ずっと続いていた。
ふと、彼女が空を見上げた。
「……今日って、何日だっけ?」
「8月31日」
「そっか。じゃあ、本当に最後の日なんだ」
レイは、さびしそうに笑った。
「夏が終わるとね、わたしは“いなくなる”んだよ」
「やめてよ、そういうの」
「ほんとだよ」
彼女はふざけてない目で僕を見た。
「忘れられた存在ってね、季節が変わると、元の場所に戻れなくなるの」
僕は、なぜかその言葉に、すぐには反論できなかった。
波が彼女の足元をさらっていく。
まるで、時間が少しずつ彼女を攫っているように見えた。
「でも、もし名前を呼んでくれたら、大丈夫。
わたしは“ここ”にいられる」
そう言って、彼女は目を閉じた。
夏の匂いが、もう少しで消えそうだった。
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