第3話
バスケン議員への支援が正式に決定したあと、アマガサ・コンサルティング内の全体ミーティングで、リズが「バスケン議員の当面の目標は、大統領選への立候補に必要な署名50万票を獲得することである」とチーム全体に共有した。ここから、アマガサ・コンサルティングではターゲティング戦略を含む施策設計が急ピッチで進められた。その中でも特に異質だったのは、この施策設計段階で採用されたとある手法である。それは、アキらテクノロジーチームが開発していたアルゴリズムによって実装された新しいマイクロターゲティング手法であった。
従来のプロジェクトでは、有権者の心理プロファイル・政治的傾向・デモグラフィック情報などを組み合わせ、単純に細分化したグループごとにセグメントを切り、それぞれに異なる広告やメッセージを打ち分ける戦略が採られていた。しかし、アキがこのとき提案した新アルゴリズムは、さらに深層に踏み込み、「アイデンティティ政治」に関連する属性(「アイデンティティ志向」)を重視したセグメント分けを行うというものだった。
「アイデンティティ政治」とは、単に年齢や性別、職業といった分かりやすい属性だけでなく、人々が自己の価値観・信条・帰属意識などの“根幹”となる部分を強く意識して形成する政治的立場のことを指す。たとえば、性差や人種、宗教、ジェンダー、民族性、さらには特定の社会運動やコミュニティへの帰属などが該当する場合が多い。そうしたアイデンティティに基づいて「自分たちの仲間」を優先し、それ以外のグループを排除・批判するような傾向が強まる政治状況を「アイデンティティ政治」と呼ぶ。
アキのチームでは、「アイデンティティ志向」は、まさにそのような個人や集団が強く持つアイデンティティに根差した価値観や利害関係のことを指す用語として使われた。新しいアルゴリズムは、有権者の心理プロファイル・政治的傾向・デモグラフィック情報に加え、SNSなどでの投稿内容や「いいね」、フォローの傾向を分析することで、本人がどのようなアイデンティティを強く意識しやすいか(アイデンティティ志向)を推定し、そこに合致する広告やSNS投稿を届けるという仕組みだ。
アキの説明によれば、この手法を使えば、例えば、「神経質」で、政治的傾向が「消極的民主党支持」、デモグラフィック情報が「男性」の「大学生」というターゲットには、「移民問題」を切り口に、移民増加による治安悪化、雇用喪失を問題視するブログ記事などをピンポイントに配信することができ、これにより、ターゲットの不安や脅威の感情を刺激することができる。また、「共感性が高い」、政治的傾向が「リベラル寄り無党派」、デモグラフィック情報が「30代」の「女性」というターゲットには、「ジェンダー問題」を切り口に、就職活動中に面接官から「結婚の予定はあるのか」と問われた体験を綴った匿名アカウントの投稿をピンポイントに配信し、職場におけるジェンダー差別の現実を可視化することで共感と怒りを喚起することができる。
「アイデンティティ志向が強ければ強いほど、そこに訴求するキャンペーンは効果抜群なんです。人間は自分の根源的な価値観を揺さぶられると無意識に強い感情的反応、特に不安や怒り、脅威の感情を示しますから。そういう広告は投票行動を変えるパワーがある」
アキは取材にもそう力説していた。新しいアルゴリズムは、そうやってターゲットに対するエコーチェンバーを意図的に引き起こし、特定のアイデンティティ志向を強化・増幅させる。もちろん、既存のプラットフォームに実装されているアルゴリズムによってフィルターバブルが起こることでこれは助長される。
そして、配信した広告や投稿などのコンテンツに対するクリック数やいいね数、シェア率などの傾向を計測し、ターゲットのアイデンティティ志向の強まり具合を示す偏向度を数値化する。偏向度が一定の基準値(閾値)を超えた場合に、当該ターゲットに対してバスケン議員の署名サイトに誘導するように設計されている。
このような判断を最適化したのが、アキらのチームが開発した新しい“行動予測アルゴリズム“だったという。取材時に、アキがラップトップの画面を操作しながら説明してくれた。“行動予測アルゴリズム”は、過去のデータとリアルタイムのオンライン行動を分析し、「誰が、いつ、どのメッセージで最も反応するか」を精密に予測する。段階的にバスケン議員の支持基盤を広げ、最終的に「行動」にまで結びつけることを狙ったのだった。
「署名サイトへの動線は、広告のクリックタイミングなどを分析して、最も効果的な瞬間に誘導する仕組みになっています。もしターゲットの行動変容が起こらなければ、広告のコンテンツのバリエーションを切り替えます。コンテンツのバリエーションは、テキストや画像、色などを微調整されたものが多種多様にあります。とにかくターゲットの行動変容が起こるまで自動でトライアンドエラーを繰り返す感じですね」
アキの説明を聞きながら、バスケン議員が当選したからくりのひとつがこのアルゴリズムであることは間違いないと筆者は確信した。
そして、このときの施策設計の会議では、リズやコーノからも、保守派の閉鎖的傾向、伝統的価値観への執着、反リベラルなどのアイデンティティ志向とバスケン議員のような保守的色彩の強い候補との親和性が高いことから、アイデンティティ政治を意図的に活性化させるうえで有効な手法となるかもしれないとの支持を得て、新しいアルゴリズムを用いてバスケン議員を支援すると結論が下された。これにより、このプロジェクトが単なる選挙支援にとどまらず、アキらの新しいアルゴリズム、つまり、新しいテクノロジーが実地で試される絶好の機会ともなるのだった。バスケン議員を当選させるための作戦は、ここから具体性を増し、静かに加速していくことになる。
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