いなせの部活
“化学部”の読み方は本来であれば“かがくぶ”のはずであるが、うちには科学部が自称かつ不法であるのにも関わらずガールがそれなりに様々な部活に対して何をしているか分からないが顔が利くため、化学部は“ばけがくぶ”と呼ばれていた。化学部からしたらいい迷惑であるが、実際のところはそうでもなかった。なぜなら化学部も、部員が一人だったからである。そのため、唯一の部員の名前“夕暮 いなせ”から取って“いなせの部活”と呼ばれていた。
「やあ、いなせちゃん。こんにちは。元気してるかい?」
科学部からいなせの部室までは中庭挟んで別棟まで行かなければいけないし、ガールは全速力で走っていたというのにいつもと変わらぬ飄々とした感じで化学部の部室を開けた。十月も近いというのにそんなに全速力で走るとなると汗をかくのは必然であり、俺のYシャツは汗でベットリであった。
「こんにちは、ガールさん。後ろのカスは何の用ですか? そんなに息を荒げて、身の危険を感じます。帰ってください」
いなせは俺を一瞥するとそんな事を言った。ガールを変態研究者とするなら、いなせは常識という概念を3Dプリンタで興したような存在であった。白衣を除けば制服の着崩しは全くなく、手入れの行き届いた黒髪は美しく、立ち居振る舞いは凛と咲く花のように可憐で、しかしそれでいて丸眼鏡がさらにその魅力を引き立てていた。
「会う生徒全員に罵倒されてる俺という存在はなんなの。存在自体が悪なの?」
いなせとの出会いはガール経由であった。二年生になった時、俺のあずかり知らぬところでいなせとガールが対立を起こしていたらしく。それを喧嘩両成敗まで持って行ったのが俺という事である。この問題の本質は解決方法であり、俺を共通の敵に仕立て上げることによって解決したという地獄のような諍いであった。ちなみに諍いの原因は科学部の名称をいなせが譲って欲しかった、という割とどうでもいいことであり、それで会ったばかりの新入生にヘイトを向けられるようになったことについては読者諸賢の皆々様においては同情して頂ければ幸いである。
「汗だくで、しかも息を荒げた人間が入ってこれば警戒するのは当然です。さっさと死んでください。もしくはいまここで死んでください」
全部活と交流のある科学部であったが、いなせの部活とは特に交流が深かった。二年生の夏休みに全国化学コンクールで出した『時間と空間について』という名の賞も取った論文は、おそらくガールと俺だけでは取れなかっただろうし、そこは理系一位、首席入学の彼女の協力が不可欠だっただろう。けど学校外で交流は全くないんだよなぁ。
「それは、そうだな。着替えてくるよ」
「別の場所で着替えてくださいね」
「どこまで常識がない人だと思われてるの?」
「大脳新皮質がエロい事で埋まってる人間なんか信用できません」
「その罵倒は今日で二度目だよ!」
俺はいなせの部室から少し遠い、というか微妙に化学室から距離のあるトイレで体操服に着替えた。普段であれば校則違反だが、放課後に関しては部活動に勤しむ生徒のおかげで違和感もない。もっとも科学部は運動をしないが。化学室へ帰る途中、保健室の前の掲示板に目がいった。普段であれば気にすることもないような新聞の一面記事であったが、内容が内容だったからである。『二二歳女子大生 飛び降り自殺で死亡』近くの神社で数年前に起こった事件らしかった。
「自殺……」
それも二二歳という若さで。
『遺族の意向により、遺書が公開されている。内容は以下の通りである。』
『とりあえずパソコンとかは水につけて全部のデータを消すようにしてください。誰にでも見られたくない事はあるはずです。次に、妹のありすについてなんだけど、彼女が二十歳になるまでは黙ってて欲しいです。私の遺物は全て彼女に渡してね。何書けばいいかなー。分かんないけどさ、幸せな人生だったんじゃにゃいかな。いい家に生まれて、そこそこ(といっても中学までかな)楽しかったし。ああ、その意味で感謝してるよ。最後の方は会う事なかったけどね、お父さんとお母さん。それだけかな。ただ、思うよ。私の人生は、私は主人公だったのかな、って。それだけ。おやすみなさい。いい夢を。優しい世界を 六分儀 京』
死ぬ、という事について一度だけガールと話をしたことがあった。あれは確か、そう。死後の世界はあるのか、という事が議題であったような気がする。俺は死ぬ事はおそらく生まれていない状態と同じであってとかどこかの本で読んだ受け売りをそのまま話していたような気がするが、ガールはどうにも死後の話というよりも、死に方について話をしていたような気がする。
「殺人、不慮の事故、病死、老衰、そして自殺。死に方にもまあ沢山あるわけだけれども、私は自殺という単語が一番嫌いでね。最も忌み嫌う死に方だと思っているよ。なぜかって? 簡単な話さ。自殺なんて言う言葉は存在しないからさ。誰かが殺したんだ。必ず誰かが殺したんだ。殺人事件のように分かりやすいものではないし、延命治療を止める消極的安楽死という事でもない。何者かの悪意によって、一人の人間の精神が破壊されてしまう。自殺なんて言われるときに、犯人は曖昧模糊とした存在になる。もちろん例外はあるけれどね。自殺ほう助とかは。けどね、私に言わせてみれば自殺なんてそんなものはない。私は思うよ。自殺をしたってニュースを見るたびに、誰が君を殺したんだって」
俺はその時、何も言えなかった。その時のガールは普段見せない凄みがあった。見た事のない表情をして、俺じゃない誰かに訴えかけているようでもあった。俺は新聞記事を見直した。 “優しい世界”彼女にとって世界は優しくなかったのだろうか。この女子大生は、誰に殺されたのか。
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