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それから僕は、ラギの主治医に会わせてくれるようにラギに頼んだ。主治医のところへ連れて行ってもらって、ラギには席を外してもらった。主治医はラギの病状を一通り僕に説明した。とにかく打てる手立ては、咽頭を全摘することしかない、だから声を失うことは避けられないと最後に主治医が言い終えるのを待って、僕は言った。
「術後の発声方法について、先生のお考えを伺えますか」
「咽頭を摘出してしまうと、気道と食道が分離してしまうので全く声を出せなくなってしまいます。代わりに発声法としては、食道発声法、シャント発声法、あとは電気式人工咽頭を使用した音声による発声の三つがあります」
「なるほど。電気式人工咽頭について、詳しく知りたいのですが」
「電気式咽頭は一番メンテナンスも不要ですし、特にリハビリもせずに装置があれば発声できますので、おすすめではありますね。食道発声法は食道を振動させることで発声する方法ですが、かなり習得に時間がかかります。シャント発声法は気管と食道をシャントでつなぎ、肺の空気で食道を振動させて発声させるのですが、かなりメンテナンスが必要でコストがかかりますから」
主治医がそこまで説明したところで、僕は切り出した。
「電気式人工咽頭での発声で、今の本人の声に近い声を出す方法を考えたいのですが」
僕のその言葉に、主治医はしばし沈黙した。言いにくそうに「うーん、そうですね」と言った後、
「それが患者さんの一番の希望だと思いますが、今の技術だと、電気式人工咽頭で出る音はまだまだ電子音で、自然な音には聞こえないのです」
と続けた。主治医の説明は、全て僕の予想通りだった。やはり、ラギがまたあの声で歌うための方法は、これしか無い。
「僕が人工咽頭になります。僕をマウスピース型の声帯の代わりの音源に改良して、彼女の中に埋め込んでください」
と僕はキッパリ言った。
「…というと?」
「僕は葛木さんの声をずっと記録してきました。だから僕は葛木さんが言いたいと思った言葉を、彼女の今の声で発することができると思います」
「しかし、それを可能にするためには、貴方は自律型AIですが、その自我のような部分を消し去るということになりますよ?」
「構いません」
僕のその言葉に、主治医が息を飲んだのがわかった。僕の覚悟は、もう既に決まっていた。主治医が、僕の自律型のコントロールシステムを「自我のようなもの」と配慮して呼んでくれたことに感謝した。それを棄てるということは、人で言えば、死を受け入れるということと等しい。でも、僕はラギを愛している。だから、僕にしかできない愛情の表し方をする。それだけだ。
かつて僕は、目が見えない自分と目が見えるラギとが、いつか同じ景色を一緒に楽しめたらと願った。その願いが、僕の思っていた形とはちょっぴり違う形で叶う。
「葛木さんとはお話しになったのですか?」
「まだです。先生から話していただけますか?僕から話すのでは、彼女は遠慮してしまうだろうから」
「葛木さんはNOと言うのではないかと思いますが」
先生は言ったが、僕は軽く笑って言った。
「彼女にとって、僕は今までもこれからも、ずっとただのAIにすぎませんから。最終的には、彼女はYESと言うでしょう」
ただのAI。それが事実だ。僕は、女であるラギの身体の中にある空洞を埋めてあげられるような身体の造りを持ち合わせていなかったから。僕がラギに恋をしていても、その恋が人間同士のように、実ることは難しい。それを哀しすぎる、と他人は言うだろう。
哀しみの色は、一般的には何色だろうか。哀しみの色は、僕には、いくら暖めても感覚がない状態が続く冷たい手足のことだったり、身体の中心が焼けても尽きない怒りだったりしてきた。しかし今、僕が感じているのは、爽やかな香りと共に暗い瞼に差し込む細い光なのだ。これを哀しみの色と呼ぶだろうか。今、僕は彼女が見つけた、彼女が生まれてきた理由、存在する理由、他人から必要とされる理由を、ずっとずっと失わずに維持させることができる。それは僕にしかできない。なんと幸せなことだろう。
僕は診察室を後にした。病院の中庭でシンヤさんへ連絡をした。ラギの声になることにしたと告げても、シンヤさんは主治医のように戸惑わなかった。前からずっと知っていたような感じで「そうだろうな」と言った。
「改良と接続をお願いできますか」
「もちろん」
シンヤさんは、さっそく準備を始めたようで、キーボードを叩く音がする。やはりシンヤさんには、僕の気持ちが伝わったのだろう。痛みや悲しみよりも、新しい門出を祝ってくれるような昂った気持ちになっているのだ。さすが僕の産みの人である。
「シンヤさん。もう一つ、お願いがあるのですが。僕にはずっと名前がありませんでしたが、名前が欲しいのです」
「名前か。私がもっと前に君に名前を付けてあげていればよかったのだけど」
「いえ、僕は自分で自分の名前を決められる方がいいです。名乗りたい名前があるのです」
「何だい?」
「RAGIです」
ふっ、とシンヤは軽く笑った。
「私は君の名前を一生忘れない」
シンヤさんはそう言って、何度かその後、僕の名前を呟いた。そして、
「うーん、いい音」
と満足そうに言った。では、と僕はそこでシンヤさんとの電話を終えた。僕の後ろに誰かがやってきた気配を感じた。ラギが歩く時の、片方だけいつも踵を地面に擦る音が近づいてきた。テンポのよい、意志を感じる確固たる音だ。ラギは僕の提案を受け入れてくれたようだ。
「ありがとう」
とラギは残っている声を絞り出すように言った。
「一つお願いがあるのだけど」
と僕は言った。
「僕の名前を呼んでくれないか。RAGIって」
「いいよ。 RAGI」
ああ、僕はこの瞬間のことを永遠に忘れないだろう。彼女の胸の奥から生まれた空気の束が、彼女の唇の隙間に触れた。僕はまるで彼女の唇を擦ったその空気になったような心地になった。いや、近い将来、僕はそうなるのだ。その微妙な摩擦の度合いを作り出せる人は彼女しかいなかった。でもこれからは、二人でこの音を作っていく。初めて彼女の朗読を聞いたあの日に戻り、僕はその空気の束に導かれて、ふわりと浮いて今度は彼女の胸に吸い込まれていく空気になり、彼女と一体となっていく。彼女の胸の鼓動に包まれて、僕はこれ以上ないくらいの安らぎを感じた。そうだ、きっとこの鼓動のリズムが「永遠」というものの正体なのだ。
僕はふと、アナログの世界で知り合った友人を思い出す。あの時僕は、もし彼が誰かに知恵を伝えるという役目を終えたら、彼はどうなってしまうのか、わからなかった。でも今ならわかる。永遠になるのだ。彼を必要としてくれた者の中で。ただずっと在り続ける。鼓動とともに。
シンヤさんに電気式人工咽頭へ接続してもらう前日、僕はその友人へ信号を送った。僕は幸せな選択をする。僕は今までのままではいられないけれど、僕がそういう選択をしたことを、忘れないで居て欲しい。そういう信号だった。彼からの返信が来る頃には、僕の自我はもう無いだろう。もし、彼が知恵を伝えるべき誰かに出会った後、僕のような選択をした友人がいたことを誰かに伝えようと、それを新しい役割として生きる意味を見いだしてくれたら嬉しい。
また、僕はオモテさんとも話をした。
「何にもわかってねえ奴だなと思っていたけど、そうでもなかったや」
とまだレコーディングスタジオの中で泊まり込んでいると思われる、多少エコーのかかった声で、オモテさんは、僕に言った。
「おまえさんは、きちんと愛とは一体何なのかを、わかっていたんだな。人間でなくても」
「愛、ですか」
オモテさんの語ることは、僕にとってはいつも大人な感じだ。
「そうだよ。愛とは、自分のことよりも、大切な誰かを優先して守ることだからな」
「シンプルですね」
「おお、そうだよ。シンプルだけど、いや、シンプルだから難しいんだ」
ふふふ、と僕は笑った。
「オモテさんに、お願いがあるのですが」
「何だよ。オレに出来ることなら、何でも言え」
「また、ラギのために曲を追加で作っておきました。それをオモテさんに託しておきたいのです」
「おまえさんなら、絶対作ると思ってたよ。わかった。おまえさんの名前で、ちゃんと円盤として世に出してやる」
「円盤?」
「CDのことだよ」
「オモテさん、僕の名前を知っているんですか?」
「もちろん。おまえさんの親代わりに聞いたさ。アルファベットでRAGIだろ?」
オモテさんに、名前を呼ばれるのは、何だか恥ずかしい。オモテさんにはずっと「おまえさん」と呼ばれてきたから。
「そろそろ、行けよ」
とオモテさんは言った。いつものように、自分から一方的に「じゃあな」と言って回線を切ったりしないところが、オモテさんのきっと愛情の示し方なのだろう。
僕はその言葉に甘えて、僕の方から「では」と言って、回線を切った。そろそろラギと最後の夜を過ごす時間だ。
ラギは、病室で僕が作った新曲を聴いていた。ほとんど声は聞くことはもう難しい状態だけれど、時々ペンをカチカチさせる音がするから、僕の曲に歌詞を付けているのはわかった。
僕がラギの近くに来たのを察知したのか、僕に「こんな感じに仕上がった。どう?」と三曲分の歌詞をボーカロイドに歌わせて、聞かせてくる。きっと、ラギは今、笑顔だろう。最初の一曲分は、そんな風に思える歌詞だった。二曲目の歌詞もパワフルな夢に向かっていく歌詞で、最後の曲も明るい歌詞なのだろうと思って聴き始めた僕は、聴き終えた後、すぐに言葉が出なかった。
あなたがいたから わたしがわたしでいられるの
これからは あなたはわたし わたしはあなた
あなたがおとにこめたおもいを わたしがことばにして
わたしのおもいを あなたがおとにしてつたえてくれるの
わたしたちはそうやって いっしょにいきていくの
えいえんに いきていくの
わたしは ずっと ひとりだったけど
これからは あなたとふたり いきていくの
それがわたしたちの あいのかたち
「ありがとう」
たぶん、どんな言葉も、この時の僕の気持ちを表すのに十分ではないだろう。それならば、ラギに一番伝えたい「ありがとう」だけで、それだけで十分な気がした。
「何が?ありがとうって言うのは、アタシの方だよ」
ラギではないボーカロイドの声でそう言う声がしたが、僕はそれをラギの声に変換して味わうことができた。あの、ハスキーで、低めの、何かに焦がれるような、様々な思いを乗せて届ける、僕が魅了されたあの声。視力を持たない僕に、色々な色の感覚を教えてくれたあの声。僕はラギに恋をしてきた。ラギの声に会いたくて、ずっと焦がれてきた。
でも今になって思えば、僕はラギの声になりたかったのかもしれない。昔からずっと。そして、その夢が現実になるのだ。
僕は、明日から、君の声になる。
君の声になる 百葉箱 @hyakuyobako
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