カミツキダコ

鈴隠

カミツキダコ

数年前、夏の終わりの話。


当時、趣味でスキューバをやっていて、友人と二人で、あるポイントに潜りに行く計画を立てていた。


場所は、地元から少し離れたあまり知られていない地点。

潜るには少し覚悟もいる深めのエリアだったけど、生き物も多いって話を聞いて、冒険気分で向かった。


現地付近に着いて、器材を準備していると、近くで釣りをしていた年配の男性が、声をかけてきた。

「お前ら、あそこに潜るんか?」

「そうですけど」って答えると、その人は目を細めて、こう言った。


「……やめとけ。あのあたりには“カミツキダコ”の群れが出る」


最初は冗談かと思った。

“カミツキダコ”なんて名前のタコは聞いたことがないし、タコが“群れ”で出るなんて、どうにも現実味がなかった。


友人が笑いながら「都市伝説っぽいっすね」と言うと、男はそれ以上何も言わなかった。

ただ、視線だけが、妙に真剣だった。


結局、忠告は無視して、潜った。


水は澄んでいて、深度を下げるごとに静けさが増し、水圧を確かに感じていた。


10メートル、15メートル……

岩場を越え、少し窪んだ地形に入ったあたりで、妙なものが見えた。


黒い塊が、海底を這うように動いている。


最初は魚かと思った。

でも、よく見ると丸い先端になびく脚が蠢いていた。


タコだ、と気づいたのはその数秒後。

一匹ではなかった。

群れだった。


無数の黒いタコが、岩陰から這い出て、こちらに向かって動いてくる。


少し先を泳いでいた友人が、急に苦しむように手足をばたつかせた。


友人の体に無数のタコが群がり、脚を絡みつけていた。


泡がぶくぶくと上がり、何か叫んでいるようだった。


助けなければと慌てて近づこうとした瞬間、

心臓が止まりかけた。


髪の毛だった。

長く、黒く、水中でゆらめく髪が、友人の顔や腕にまとわりついていた。


根元には、顔があった。


白く浮かんだ女の顔。

口元はにやけるように、ゆっくりと開いていた。


半狂乱になりながら、俺は逃げた。

後ろも見ず、必死に浮上した。


気づけば岸に戻っていて、全身が震えていた。

通報して、救助が来て、警察も来た。


友人は助からなかった。


遺体は後日、少し離れた磯で見つかった。


全身には大量の「人間の歯形」が残されていた。

肌にめり込むほど深く、まるで何人もの人間に同時に食いちぎられたかのような痕だった。


当然、納得のいく説明などできるはずもなく

警察にも事故死として処理された。


なにがカミツキダコだ、ふざけるな。


あれ以来、一度も海には潜っていない。

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カミツキダコ 鈴隠 @rukbat1215

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