第8話 兄の事

 俺の今までの人生はほぼ兄の順平によって支配されていた。年は二歳しか離れていなかったが、母が病弱な上に父親が家には滅多に帰ってこないという家庭事情もあって、俺にとって兄は一家の長的な存在だった。


 俺が小学生に通い始めた頃の事だ。勉強するのが楽しくないというワガママな理由で、俺が「虐められるから学校に行きたくない」と嘘を吐くと、本気にした兄は俺のクラスに怒鳴りこんできた。

「俺の弟をいじめた奴は出てこい」

 そうわめきながら机やいすを蹴り倒し、掃除道具のホウキを振り回し、子供たちは怯えて逃げまどった。騒ぎの後、当然兄と俺は担任にきつく叱られた。

 別のある日。「給食に嫌いなものが多くて食べたくない」とまたしてもワガママをほざいた俺のために、兄はなんと学校に遅刻してまで弁当を作り、授業中だった俺の教室に届けてくれた。

 ただその後兄と俺は、担任に「アレルギーもなく苦手なだけだとお父さんから伺いました。それなら給食で好き嫌いをなくせるように努力しましょう」と注意を受けた。

「あのくそおやじ。ちくりやがって」と兄は父親に毒づいていたが、兄の手作り弁当よりも給食の方がはるかに美味しいと気付いた俺は、その後きちんと給食を頂くようになった。

 俺は兄を類まれなアホだと思っていたが、頼りにはしていたし信頼もしていた。結局俺は兄がいないと何もできない子供だったし、情けない事だがかなり成長してもそれは続いていた。

 

 幸い少年の頃は自分の手に負えないほどの面倒は起こらず、日々は平穏に過ぎて行った。けれどそんな退屈で平和な日常は永遠には続かない。

 単身赴任中だった父が浮気相手を妊娠させてしまい、母と離婚したいと言い出した。母は俺が幼い頃から病弱で、体調が良いときには家事も出来たが、次第に起き上がれない日が増えていった。母親の世話と家事は、時折様子を見に訪れる母の姉とヘルパーさん、そして俺たち兄弟(主に俺)が分担して出来ることはやっていた。

 だがとどめが離婚。その後母の容体は急激に悪化し、入院した病院でひっそりと逝ってしまった。俺が高校ニ年の時だった。


 いつかはこの日が来ると覚悟はしていたものの、俺が心に受けたダメージは大きかった。

 それは後悔。家の雑事をさせられる事で母に不満をぶつけたこともあった。母の介護が必要な時には嫌悪感を隠せなかった。

 思い出されるのは母の詫びる声と悲しそうな顔ばかり。どうしてもっと優しくできなかったのか。

 心を閉ざし、ますます陰気で無気力な人間に成り下がった俺に、ある日兄が言った。

「高校は卒業しろよ。そしたら俺と組ませてやる」

「組ませて?」

 兄は高校を卒業後、母が父から受け取った離婚の慰謝料の一部とバイトで貯めた金で、某みんなが知ってる芸人養成学校に入った。兄が就職してまともにやっていけるとは誰も思っていなかったので、あえて反対する者もいなかった。

 学校で知り合ったというナントカ君と兄はコンビを組み、俺は用なしとなった。もともと芸人になれるような面白さもトーク力も持ち合わせていないと自覚していたので、俺は兄に対しては相手が見つかってよかったなとしか思わなかった。


 その頃の俺は母が俺に最期に残した言葉、「ありがとう」が胸に刺さったままで苦しくて仕方がなかった⋯⋯俺は母を幸せにできるような事を何もしていなかった。母の世話も家事も仕方なくやっていた。

 そして高校卒業後、俺が選んだのは介護福祉の専門学校だった。せめて誰かの残された人生を少しでも楽に、ほんのわずかでも幸せに出来たらと思った。


 そして数年がたち、俺がとある介護付きの老人ホームで働き始め、兄とその相方がようやく客前で芸を披露できるようになった頃、兄とコンビを組んでいたナントカくんが結婚したいから芸人をやめて就職すると言い出した。

 そして横暴な兄は言った。

「さあ。約束通り俺と組んでお笑いやろうぜ」

 めちゃくちゃだった。ド素人の俺に代役が務まるわけもない。

「無理だよ。俺にだって仕事があるし、俺しゃべるのヘタなの兄貴も知ってるだろ」

 日頃から、お前ってつまんないやつだな、そんなんで生きてて楽しいか?と口癖のように兄に言われていた。だが。

「いや、人前に立つのが苦手ってのも、個性だし売りポイントになるんだ。笑いをとるのは俺がやるから、おまえは俺に軽く突っ込みながら立っときゃいい。おまえは顔はまあまあイケてるから女子ウケするだろ」


 そんな甘いもんじゃない、と思いはしたが兄は俺にとって絶対的な存在だった。情けないが俺は兄に逆らえなかった。そんな兄が俺に放った決定打は。

「笑いってな。人を幸せにするんだぜ。辛いことや考えたくない事をいっときにせよ忘れさせてくれる。すげえだろ」

 それを聞いて俺は母を失った時の自分を思い出し、施設や病院から出られない人たちの事を思った。そんな人たちに笑いを届けられたら。


 そして俺はうっかり兄の提案を受け入れてしまった。新しい相方が見つかるまでと条件付きで。俺にそんな役目が務まるはずもないって事に、兄貴もすぐに気付くだろうと思っていた。

 だが兄が新しい相方を迎える気配はなく、俺たちの兄弟共同作業はその後も数年続いた。俺も自分でコントや漫才のネタを書くようになり、お客達を笑わせる事に喜びを感じるようになっていった。 


 俺たちのコンビ仕事がちょっとだけ軌道に乗ってきた?と思えてきたある日。

 兄はとあるフィリピンパブ嬢に惚れこんでしまい、彼女が不法滞在で強制送還されたと聞くと、後を追って彼の地へと飛び立ってしまった。

 そしてそれっきり音信不通となる。兄の行方を探そうともしない俺を薄情だと言う兄のファンも居るにはいたが、それは俺の奇妙な思い込みが理由でもあった。

 あの兄は何があってもどこにいても逞しくしぶとく生きのびるはずだと、根拠もなく俺は信じていた。だが兄からはなんの連絡もないまま五年が過ぎようとしていた。

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