第4章:決壊

第11話 綻びる糸

 文化祭という、年に一度の祝祭が、まるで巨大な磁石のように生徒たちの心を惹きつけ、校内は日に日にその熱量を増していく。ペンキの匂い、木材を叩く音、リハーサルのために廊下に漏れ聞こえる拙い楽器の音色や、ぎこちない台詞の応酬。それらが混ざり合い、一種独特の、甘く危険な香りを伴った喧騒となって、私たちの日常を覆い尽くそうとしていた。けれど、その華やかな狂騒のただ中で、東雲晶という、ひときわ繊細で美しいガラス細工は、目に見えない無数のひび割れを増やし、今にも砕け散ってしまいそうな、危うい音を立てていた。それは、私にしか聞こえない、悲鳴のような旋律だった。


 彼女の夜は、浅い眠りと、どす黒い悪夢に支配されているようだった。授業中、ふと隣を見れば、白い頬は血の気を失い、目の下には青黒い影が、まるで幽霊のように棲みついていた。教科書を開いたまま、その視線は虚空を彷徨い、時折、小さく、ほとんど聞き取れないような呻き声とも溜息ともつかない音を漏らす。以前は、どんな難解な数式にも涼しい顔で取り組み、淀みない声で模範解答を口にしていた彼女が、今は簡単な問いかけにも、まるで言葉を見失ったかのように口ごもり、怯えたような目で私を見返すばかりだった。昼休み、弁当箱の蓋を開けるものの、箸はほとんど進まず、色鮮やかなおかずは、まるで彼女の失われた生気を象徴するかのように、虚しく残される。その痩せこけた指先は、微かに震え、時折、何もない空間を掴もうとするかのように彷徨った。完璧な優等生、東雲晶の姿は、そこにはもうなかった。代わりに存在するのは、嵐の中で道を見失い、ただ闇雲に救いを求める、傷ついた小鳥のような、痛々しい魂だけだった。


 生徒会長としての責務は、文化祭が近づくにつれて、雪だるま式に膨れ上がっていた。各クラスの進捗状況の確認、予算の管理、教師との折衝、そして山のような書類仕事。それに加えて、クラス演劇の主役代理という、予期せぬ重荷。彼女は、まるで何重もの見えない鎖に縛り付けられているかのようだった。その鎖の一つ一つが、じりじりと彼女の心身を締め上げ、呼吸すら困難にさせているのが、隣にいる私には痛いほど伝わってきた。それでも彼女は、弱音一つ吐かず、むしろ周囲の期待に応えようと、痛々しいまでに完璧な笑顔を顔に貼り付け、まるで操り人形のように動き続けていた。その姿は、健気というよりも、悲壮感に満ちていた。いつ、その張り詰めた糸がぷつりと切れてしまうのか、私には恐ろしくてたまらなかった。


 ある日の放課後、生徒会室での会議が長引き、ぐったりと疲弊しきった彼女が、ふらつく足取りで教室に戻ってきた。その顔は、まるで白い仮面のようだった。私が「大丈夫?」と声をかけると、彼女は一瞬、虚ろな目で私を見つめた後、突然、堰を切ったようにわっと泣き崩れた。

「もう……もう、無理かもしれない……。みんな、私に期待してる……でも、私は……私は、そんなに強くない……。怖い……何もかもが、怖い……!」

 しゃくりあげながら、言葉にならない叫びが彼女の口から迸る。私は、ただ黙って彼女の震える肩を抱きしめることしかできなかった。背中に感じる彼女の鼓動は、異常なほど速く、そして不規則だった。まるで、今にも張り裂けてしまいそうな小さな心臓が、必死に助けを求めて叫んでいるかのようだった。この腕の中に、彼女の全ての苦しみを吸い取ってしまえたなら。しかし、現実は残酷だ。私の無力な腕は、彼女を一時的に慰めることはできても、彼女を蝕む恐怖の根源を取り除くことはできない。その無力感が、鋭い棘のように私の胸に突き刺さり、じくじくと痛んだ。


 橘穂乃花の暗躍は、文化祭の喧騒に紛れるように、しかし確実に、その毒牙を剥き出しにしていた。彼女は、まるで蜘蛛が巣を張るように、巧妙に、そして執拗に、晶と私に関する悪意に満ちた噂を校内に広めていた。

「東雲会長、最近なんだかおかしいよね。水無月さんと二人で、いつもコソコソ何か話してるし……」

「旧音楽室で、何かあったらしいよ。詳しくは知らないけど、先生沙汰になったとか……」

「水無月さんって、ちょっと変わってるって言うか、暗いじゃない? 東雲会長、変な影響受けてるんじゃないの?」

 囁きは、風に乗って、教室から教室へと伝播していく。それは、最初はほんの些細な憶測だったものが、人の口伝えを経るうちに、尾ひれがつき、悪意という名の毒を塗られ、やがては否定しようのない「事実」として、人々の心に染み込んでいく。以前は、晶の周りに太陽を求める向日葵のように集まっていたクラスメイトたちが、今ではどこか腫れ物に触るように、遠巻きに彼女を見つめている。その視線には、好奇心と、ほんの少しの軽蔑、そして何よりも、自分たちとは違う「異質なもの」に対する、冷たい無関心が宿っていた。晶が、その視線の変化に気づいていないはずはなかった。彼女の孤立は、日に日に深まっていた。


 ある雨上がりの夕暮れ、私は美術室の窓から、中庭を横切る穂乃花の姿を目にした。彼女は、何か薄い冊子のようなものを数冊、大事そうに胸に抱え、周囲を警戒するようにきょろきょろと見回しながら、人気のない印刷室へと消えていった。私の胸に、冷たい予感が電流のように走った。あの冊子は、まさか……晶の、あの秘密のスケッチブックのページをコピーしたものではないだろうか。もしそうだとすれば、穂乃花は、文化祭当日、それを一体どのように使うつもりなのだろう。大勢の目の前で、晶の魂の叫びを、無慈悲に晒し者にするつもりなのだろうか。想像するだけで、全身の血が逆流するような怒りと、そしてどうしようもない恐怖が込み上げてきた。穂乃花の、あの獲物を狙うような執拗な目は、もはや単なる嫉妬や憧れの裏返しといった生易しいものではない。そこには、歪んだ独占欲と、自分が信奉していた完璧な偶像を自らの手で破壊し、その瓦礫の中から「本当の晶」を独り占めにしようとする、狂気に近い願望が渦巻いているように思えた。彼女は、愛と憎しみの狭間で、完全に道を見失っているのかもしれない。


 晶の精神状態は、破滅への坂道を転がり落ちるように、悪化の一途を辿った。ある夜更け、私のスマートフォンの画面が、不意に彼女からの着信を告げた。震える声で、彼女は支離滅裂な言葉を繰り返した。

「……眠れないの……目を閉じると、あの絵が……みんなが、私を指差して笑ってる……水無月さん……助けて……お願いだから……私を一人にしないで……」

 電話の向こうで、彼女は幼い子供のように泣きじゃくっていた。その声は、私の心の最も柔らかい部分を抉るように響いた。私は、受話器を握りしめ、ただひたすら彼女の名前を呼び続け、大丈夫、私がそばにいる、と繰り返すことしかできなかった。言葉は、あまりにも無力だった。旧音楽室での出来事が、鮮明に蘇る。あの時の、晶の絶望に満ちた瞳。そして、自分の無力さを噛み締めた、あの苦い記憶。私は、また同じ過ちを繰り返してしまうのだろうか。晶を守ると誓ったはずなのに、結局、何もできずに、ただ彼女が壊れていくのを見ているだけなのだろうか。焦燥感が、黒い煙のように胸の中に立ち込めていく。


 私は、晶から託されたパレットと絵筆を手に、狂ったように絵を描き続けた。キャンバスに叩きつける色彩は、私の内なる叫びであり、晶への祈りであり、そして穂乃花への、言葉にならない怒りだった。それは、美しさとは程遠い、荒々しく、混沌とした色彩の奔流だった。しかし、描けば描くほど、私の心は渇いていくようだった。この絵は、本当に晶を救えるのだろうか。それとも、ただの自己満足に過ぎないのだろうか。


 文化祭を数日後に控えた、どんよりと曇った日の放課後。私は、いつものように美術準備室の隅で、一人、重苦しい気持ちで筆を動かしていた。そこへ、ふらりと蓮見先生が現れた。先生は、私の描いている途中の、赤と黒が激しくぶつかり合うような抽象画を、しばらく黙って見つめていた。その気怠げな表情の奥に、いつものように全てを見透かすような鋭い光が宿っていた。

「……ずいぶんと、激しい色ね。まるで、嵐の前の海のようだわ」

 先生は、タバコに火をつけようとして、やめた。代わりに、窓の外の、鉛色の空に視線を移す。

「色は、嘘をつけないものよ。どんなに取り繕っても、魂の奥底にあるものは、そこに滲み出てしまう。それは、時に残酷なほどにね」

 その言葉は、まるで私の心臓を直接掴まれたかのように、どきりとさせた。先生は、私が晶の秘密を知っていること、そして、私たちが抱える危うい関係性に、どこまで気づいているのだろうか。

「真実を映し出す力……それは、芸術が持つ最も美しい特権であり、同時に、最も恐ろしい刃でもあるわ。水無月さん、あなたはその力を、どう使うつもりなのかしらね」

 先生は、再び私の絵に視線を戻した。その瞳は、まるで私の覚悟を試すかのように、深く、静かに私を見据えている。

「困難な状況ってのは、まぁ、人生にはつきものよ。そこで人がどうあるべきかなんて、高尚な説教をするつもりはないけれど……」

 そこで一度言葉を切り、先生は微かに、本当に微かに、口の端を歪めて笑ったように見えた。それは、諦念のようでもあり、あるいは、何かを懐かしむような、そんな複雑な表情だった。

「ただね……自分の魂が、心の底から本当に求めているものから、目を逸らしちゃいけない。どんなに醜くても、どんなに格好悪くても、それだけは、絶対に手放しちゃいけないものなのよ。たとえ、世界中の誰もがそれを否定したとしてもね。……昔、私も、そうやって描いていた時期があったわ」

 最後の言葉は、ほとんど独り言のように、微かに掠れていた。先生の過去に、一体何があったのだろうか。その言葉の奥に隠された、先生自身の痛みや葛藤が、ほんの一瞬だけ、垣間見えたような気がした。それは、私にとって、予想もしなかった、小さな衝撃だった。

 蓮見先生の言葉は、やはり直接的な答えを与えてはくれなかった。しかし、それはまるで、暗闇の中で差し伸べられた、細く、しかし確かな一本の糸のように、私の心に微かな光明を投げかけた。私の魂が求めるもの……それは、晶の笑顔。彼女の、あの暴力的なまでに純粋な色彩を、誰にも汚させずに守り抜くこと。そのためなら、私は、どんなことでもする覚悟がある。たとえ、それがどんな結末を迎えようとも。


 文化祭まで、あと二日。

 教室の隅に置かれた、クラス全員で作った演劇の巨大な背景画が、完成間近の姿を現していた。それは、おとぎ話に出てくるような、明るく華やかな城の絵だった。しかし、今の私の目には、その色彩が、どこか虚しく、嘘っぽく見えた。現実の世界は、こんなにも単純で、美しいものではない。もっと混沌としていて、もっと残酷で、そして、もっと……愛おしい。

 窓の外では、冷たい風が、木の葉を容赦なく地面に叩きつけていた。空は、まるで血を流しているかのように、不気味なほど赤い夕焼けに染まっている。その色は、これから起こるであろう出来事を暗示しているかのように、私の網膜に焼き付いて離れなかった。

 綻び始めた糸は、もはや誰の手にも修復不可能なほどに、複雑に絡み合い、そして、今にもぷつりと切れそうになっていた。破滅へのカウントダウンの針が、カチ、カチ、と、冷たく、そして無慈悲に、時を刻み続けている。その音は、まるで私の心臓の鼓動と重なり合い、息詰まるような緊張感を、否応なく高めていくのだった。

 私たちのうたかたの時間は、もう、残り僅かなのかもしれない。

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