第1章:秘密の音色

第1話 交錯する視線

 あの暴力的な色彩の奔流を目にしてから一夜が明けても、脳裏に焼き付いた赤と群青の残像は、まるで網膜に染み付いたように消えなかった。瞼を閉じれば、激しくぶつかり合う原色の渦が鮮やかに蘇り、私の意識を掴んで離さない。それは、私が長年慣れ親しんできた、単調で予測可能な灰色の世界に、不意に投じられた異物だった。否応なく意識の大部分を占拠し、平静を装う日常の裏側で、静かに、しかし確実に私を揺さぶり続けていた。朝、目覚まし時計の無機質な音で現実へと引き戻された瞬間から、胸の奥底に奇妙な疼きが巣食っているのを感じていた。


 翌日の教室は、昨日と何も変わらない、まるで時が止まったかのような退屈な空気に満ちていた。

 窓の外には、雨上がりの薄日が力なく差し込んでいる。埃っぽいカーテンの隙間から漏れる光は、机の上に淡い長方形を描き出し、その中で小さな塵がゆるやかに舞っていた。古典の教師の低い声は、まるで古びた蓄音機から流れる単調な旋律のように鼓膜の表面を滑っていくだけで、その内容は霧のように掴みどころがない。私は頬杖をつき、ぼんやりと黒板に書かれた達筆すぎる文字の連なりを見つめているふりをしながら、実際には、昨日旧音楽室で見た光景を、何度も、何度も、繰り返し反芻していた。

 東雲晶――あの完璧なまでに磨き上げられた優等生が、あんなにも激しい、制御されていない感情を内に秘めているなんて。

 そして、その感情の一端に、ほんの偶然とはいえ触れてしまった私。

 彼女のスケッチブックを無断で見てしまったことへの微かな罪悪感。それは、人の秘密の引き出しを勝手に開けてしまったような、後ろめたい感覚だった。だが、それ以上に強いのは、未知の感情に対する戸惑いと、そして、ほんの少しの……興奮、とでも言うべきもの。それが複雑に混ざり合って、胸のあたりが奇妙にざわついていた。それはまるで、静かな水面に小石を投げ込まれた時のような、予期せぬ波紋だった。


 不意に、視線を感じた。

 それは、特別鋭いものではなかったけれど、私の意識の隅に、小さな棘のように引っかかる感覚。教室の斜め前方の席からだった。

 東雲晶。

 彼女は、熱心に教師の話を聞いているように見せかけながら、その切れ長の涼やかな瞳を、ほんの一瞬、私の方へ流した。黒曜石のような瞳が、確かに私を捉えた。すぐに何事もなかったかのように正面を向き、再び完璧な生徒の表情に戻ったけれど、その一瞬の交錯は、私には明確な意味を持って感じられた。それは、ただの偶然ではない、意図を持った何か。

 ――見られている。

 あるいは、私の視線を、彼女もまた意識している。

 そう思った途端、心臓が、まるで捕らえられた小鳥のように不規則に跳ねた。背筋に冷たいものが走り、手のひらにじっとりと汗が滲む。昨日、物陰から彼女の姿を盗み見たことがバレているのだろうか。それとも、私が彼女のスケッチブックを手にしたことに気づいている……? いや、そんなはずはない。私は細心の注意を払って元に戻したはずだ。

 思考が、出口のない迷路のようにぐるぐると空回りする。普段なら、他人の視線など気にも留めない。教室という閉鎖された空間において、他者のまなざしは常に交錯しているものであり、いちいちそれに反応していてはきりがないからだ。けれど、東雲晶という存在が、昨日を境に、私の中で無視できない、特別な意味を持つものへと変わりつつあるのを、認めざるを得なかった。まるで、灰色のキャンバスに、一点だけ強烈な原色が置かれたかのように。


 その後の授業中、私は何度か無意識のうちに彼女の背中を目で追っていた。

 丁寧にブラッシングされたであろう、艶やかな黒髪。校則通りに結ばれたリボン。白いブラウスの襟は、非の打ち所がないほど清潔で、その下に隠された細い首筋を想像させる。背筋を凛と伸ばした、模範的な生徒の姿勢。そのどこにも、昨日の旧音楽室で見たような、魂の叫びを叩きつけたかのような激しさのかけらも見当たらない。まるで、あれは私の見た悪夢か、あるいは白昼夢だったのではないかと錯覚しそうになるほど、彼女の佇まいは完璧に洗練されていた。彼女を取り巻く空気は、いつも清澄で、淀みがない。

 けれど、あの色彩の奔流は、確かに、私の目の前に存在したのだ。

 あの絵は、彼女の内側で渦巻いている、名付けようのない激情の、ほんの一端に過ぎないのかもしれない。そう考えると、彼女の完璧な仮面の下に隠された素顔が、恐ろしいほど知りたくなった。それは、まるで禁断の果実を求めるような、危険な好奇心だと分かっていたけれど、一度芽生えた探求心は、簡単には消えそうになかった。人間とは、隠されたものほど見たくなる、厄介な生き物なのかもしれない。


 休み時間になるたび、彼女の周りには自然と人が集まっていた。男子も女子も、クラスの人気者である彼女と言葉を交わそうと、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように近づいてくる。誰に対しても分け隔てなく、穏やかで、少しだけはにかんだような笑顔で接している。その姿は、まさに学園のアイドルと呼ぶに相応しい、非の打ちどころのないものだった。彼女の一挙手一投足が、周囲の空気を華やかに彩っているかのようだ。

 私は、そんな輪から遠く離れた、教室の隅の席で、スケッチブックに視線を落とすふりをしながら、その様子を横目で盗み見ていた。彼女の声は、賑やかな喧騒の中でも不思議と私の耳に届いた。少し高めで、鈴を転がすような、心地よいテノール。その声が、クラスメイトたちの笑いを誘っている。けれど、その明るい声でさえも、今の私にはどこか空々しく、計算された響きに聞こえてしまう。あの旧音楽室で聞いた、押し殺した嗚咽とのギャップがあまりにも大きすぎるのだ。

 きっと、彼女は誰にも本当の自分を見せていないのだ。いや、見せられないのかもしれない。

 あの旧音楽室での嗚咽も、暴力的な絵も、全てを完璧な笑顔の裏に、固く固く封じ込めて。

 そう思うと、胸が微かに痛んだ。それは同情とは少し違う、もっと複雑な感情だった。自分もまた、言葉にならない感情を押し殺し、灰色の壁の内側に閉じこもって生きているという点では、彼女と同じなのかもしれない、と。ただ、私の場合、隠すべき「完璧な仮面」など持ち合わせていないだけであり、最初から世界に対して心を閉ざしているに過ぎない。彼女のように、周囲の期待に応え続ける重圧など、想像もできなかった。


 昼休み。いつものように一人で屋上へ続く階段の踊り場で弁当を広げようとした時だった。そこは、埃っぽくて少し薄暗いが、滅多に人が来ない、私にとっては貴重な避難場所だった。

「水無月さん」

 不意に背後から、静かで、しかし芯のある声がかけられ、肩がびくりと震えた。心臓が喉元までせり上がってくるような感覚。恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは、やはり東雲晶だった。手には、彼女の母親が毎朝心を込めて作るのであろう、栄養バランスの整った、彩り豊かな弁当箱が握られている。まるで、彼女自身の完璧さを象徴しているかのように。

「……東雲さん」

 声が、自分でも驚くほど掠れていた。まるで、長い間声を出していなかったかのように。

 彼女は、いつもと変わらない、春の陽だまりのような柔らかな笑みを浮かべていた。けれど、その瞳の奥には、昨日私が垣間見た暗い影が、やはり微かに、そして確実に揺らめいているように見えた。それは、穏やかな湖面の底に潜む、深い淵のようだった。

「少し、いいかな。ここで、一緒に食べても」

 断る理由など、思いつかなかった。いや、心のどこかで、断りたくないと感じていたのかもしれない。この偶然を、手放したくないと。

 私は黙って頷き、少しだけ壁際に寄ってスペースを空けた。彼女が私の隣に、品良く腰を下ろすのを見守る。こんなふうに二人きりで、しかもこんなに近くで言葉を交わすのは、初めてのことだった。緊張で、指先がじっとりと汗ばみ、呼吸が浅くなっているのを感じる。彼女の制服から漂う、清潔な洗剤の香りと、彼女自身の微かな甘い体温が、私の感覚を刺激した。


「ここ、静かでいい場所だね。なんだか、秘密基地みたい」

 彼女が、辺りを見回しながら、独り言のように呟いた。その声は、先ほど教室で聞いた明るいトーンとは少し違い、落ち着いた、より素に近い響きに感じられた。

「……うん」

 私は、それ以上、何を話せばいいのか分からなかった。彼女の真意が読めず、ただ無言で自分の弁当の蓋を開ける。卵焼き、ミニトマト、ほうれん草の胡麻和え。いつもと変わらない、私の母が作る、色のない私にとっては少しだけ眩しく感じられるおかずたち。

「水無月さんって、いつもここで一人で食べてるの?」

「……まぁ、大体」

 人付き合いが苦手な私にとって、この場所は唯一安心して昼食をとれるサンクチュアリだった。

 彼女は、自分の弁当にはまだ手を付けようとせず、じっと私の顔を見つめている。その探るような視線が、私を居心地悪くさせた。何かを値踏みされているような、あるいは、心の奥底まで見透かされようとしているような。

「絵、好きなんだね。やっぱり」

 唐突な言葉に、私は思わず顔を上げた。視線が、真正面からぶつかる。

「え……?」

「美術室で、いつも熱心に描いてるから。蓮見先生も、水無月さんのこと、才能あるって感心してたよ」

 まさか、彼女が私のことを見ているなんて、考えたこともなかった。私はその他大勢の生徒たちと同じ、ただの背景のはずなのに。ましてや、蓮見先生が私のことをそんなふうに話しているとは。

「別に、そんな……たいしたことじゃない。ただの、暇つぶしみたいなものだから」

 早口に否定する。自分の絵を、ましてやその才能などという大袈裟な言葉で評価されるのは、裸を見られるよりもずっと恥ずかしく、耐え難いことだった。

「謙遜しないで。すごく……個性的だと思う。なんていうか、力強くて、目を惹きつけられるものがる」

 彼女はそう言って、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。その言葉が本心なのか、それとも彼女特有の、相手を気遣う社交辞令なのか、今の私には判断がつかなかった。ただ、彼女の口から「個性的」そして「目を惹きつけられる」という言葉が出たことに、胸の奥が小さく、しかし確かに疼いた。それは、私がずっと誰かに認めて欲しかった、私の存在証明そのものなのかもしれない。

「……東雲さんこそ、ピアノ、すごく上手なんだね」

 昨日旧音楽室から漏れ聞こえてきた、あの澄んだ、美しい旋律を思い出し、私は反射的にそう口にした。言ってしまってから、少し後悔した。まるで、彼女の秘密の領域に、無遠慮に踏み込むような発言だったかもしれない。彼女の表情を窺うと、やはり、ほんの僅かに強張ったように見えた。

「……聞こえてたんだ。あの、拙い演奏が」

「あ、いや……その、たまたま、通りかかったら……」

 慌てて言い訳をしようとする私を、彼女は静かに、しかしどこか寂しげな微笑みで制した。

「いいの。少しだけ、気分転換に弾いてただけだから。誰かに聞かせるようなものじゃないし」

 そう言うと、彼女は再び沈黙した。まるで、重い鉛がゆっくりと沈んでいくような、苦しい空気が、狭い踊り場に漂う。

 何かを言わなければ。この息苦しい沈黙を破る言葉を見つけなければ。けれど、焦れば焦るほど、言葉は喉の奥でつかえて出てこない。

 彼女は、ゆっくりと、深く息を吸い込み、そして、まるで何か大きな決心をしたかのように、私の名を呼んだ。

「水無月さん……」

 その声は、いつもの彼女よりも少し低く、真剣な響きを帯びていた。その響きに、私は全身の神経を集中させる。

 私は唾を飲み込み、彼女の次の言葉を、固唾を飲んで待った。灰色の世界に、決定的な亀裂が入るような、そんな不吉で、それでいて甘美な予感がした。この瞬間が、何かを変えてしまう、と。


 放課後。

 私はいつものように美術室へ向かった。窓際の、日当たりの良い席が私の指定席だ。けれど、今日はスケッチブックを開く気には到底なれず、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。昼休みの彼女との会話が、まるで壊れたレコードのように、ずっと頭の中でリフレインしている。彼女は結局、核心に触れるようなことは何も言わなかった。旧音楽室でのこと、あの絵のこと、彼女が抱える本当の感情のこと。それらは全て、分厚いヴェールの向こうに隠されたままだった。ただ、他愛のない会話を少しだけ交わし、そして「またね」と、いつもと変わらぬ完璧な微笑みを浮かべて去っていっただけ。それなのに、私の心は、まるで嵐の前の海のように、千々に乱れていた。


 夕暮れのチャイムが鳴り、他の生徒たちが騒がしく部活動へと向かう中、美術室に差し込む光がオレンジ色から深い茜色へと変わり始めた頃、がらりと古びた引き戸が開く音がした。蓮見先生が、煙草の代わりに禁煙パイポを咥えながら入ってくるのかと思ったけれど、そこに立っていたのは、東雲晶だった。制服の着こなしは完璧で、放課後だというのに少しも乱れがない。

 彼女は美術室の中をゆっくりと、まるで何かを探すように見回し、そして、窓際に座る私の姿を見つけると、ためらうことなく、まっすぐにこちらへ歩いてきた。その足音は、古い木の床に静かに響いた。その表情は、昼休みに見せた柔和なものとは違い、どこか硬く、真剣みを帯びている。まるで、これから何か重要な交渉に臨むかのような、そんな緊張感が漂っていた。

 心臓が、また大きく、強く音を立て始めた。それは、期待なのか、それとも恐怖なのか、自分でもよく分からない感情だった。

 彼女は私の机の前で立ち止まると、じっと私の目を見つめた。その強い、射抜くような視線から、私はもう逃れることができない。まるで、透明なガラスの壁越しに見つめ合っているかのような、奇妙な感覚。

 長い、長い沈黙。窓の外からは、運動部の掛け声や、吹奏楽部が奏でるどこか間の抜けたメロディが遠くに聞こえてくる。それらが、まるで別世界の出来事のように感じられた。

 やがて、彼女は静かに、しかし芯のある、はっきりとした口調で、私に問いかけた。それは、まるで宣告のようだった。


「昨日……旧音楽室で、水無月さんは、何か、見たの?」


 その言葉は、研ぎ澄まされたガラスの破片のように、私の胸の最も柔らかい部分に突き刺さった。

 私の知る、灰色の世界が、大きな音を立てて、砕け始めるような気がした。そして、その破片の向こう側から、今まで見たこともない、鮮烈な色が溢れ出してくるような、そんな鮮烈な予感に襲われた。

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