【灰色探偵録】『灰色狼の少女と、咲きそびれた響奏花』
かげ
-1-
夜の静寂が、学院の議会場を支配していた。
一人の女性が机に向かい、ペンを走らせる。彼女の顔に疲れの色は見えない。ただ、やるべきことを淡々とこなしているだけだった。
議会場には、無数の燭台が並び、淡い光を放っている。
だが、その光が届く範囲は限られていた。壮麗な書架が壁一面を覆い尽くし、そびえ立つガラス窓の向こうには冷たい月が浮かぶ。吹き抜ける夜風に微かに揺れるカーテンが、影を落とし、部屋の一角をより深い闇へと沈めていた。
「今日は揉める議題もなくて助かった」
低く落ち着いた声が彼女の耳に届いた。
机の端で持たれかかっている一人の影。
軽く腕を組み、視線をゆったりと彼女に向けていた。指先は机の木肌をかすかになぞっている。その仕草には、くつろいでいるような、しかし何かを待っているような奇妙な余裕があった。
「そうですね。珍しく」
答えながら、ペン先を紙から離す。わずかにインクのしずくが垂れそうになり、静かにそれを振るい落とした。
天井から吊るされた大きな燭台が、彼女たちの影をぼんやりと伸ばしていた。静かな炎が揺らぎ、揺れた影が不安定に動く。
長く整然と並ぶ書棚。その柱の間にある小さな出窓。
彼女は無意識のうちに、その窓辺に視線を向け、僅かな違和感を覚えた。
何かが欠けている。見慣れたものが、そこにない。
いつもならそこには、彼女が世話をしている一輪挿しの花瓶が置かれているはずだった。
しかし今日は、ない。
椅子からそっと身を乗り出し、もう一度確かめる。やはり、そこにあるべきはずの花瓶が、見当たらない。
(……あれ?)
つい先日、いつものように水を換えたばかりだった。丁寧に拭き、向きを整え、青紫のつぼみが月明かりに映えるように置いていたはずだ。
その花の名は、響奏花(きょうそうか)。
音に敏感に反応し、ある一定以上の振動や声量があると、一斉に花を咲かせるという不思議な植物だった。
繊細な音にも反応するその性質から、学術的には『感音花』とも呼ばれることもあるが、この学院では古くから"響奏花"の名で親しまれてきた。
装飾用というよりも、議会場の静粛さを象徴する存在。
声を荒らげれば咲く、だからこそ咲かせてはならない。
そのつぼみが咲くとき、それはこの場にふさわしくない音が生まれた証なのだから。
(誰かが……動かした?)
月明かりが冷たく床を照らす。出窓の上、空白になった場所だけが妙に浮いて見えた。一瞬だけ眉をひそめる。
「もう一度聞くが……」
ふと、声がかけられる。その声色は穏やかだった。
親しげでもあり、どこか妙に抑揚がない。淡々としているのに、その言葉は一滴の毒を孕んでいた。
「告発を止めるつもりは?」
「……ありません」
ゆっくりと声の主へ顔を向ける。静かで、揺るぎない声だった。
「その告発が、みんなを犠牲にするとしても……?」
「私は、この場所の秩序を守るためにここにいるのです。それが私の役目です。見て見ぬふりなどできません」
「……わかった」
ただ一言。
それは、何の感情も帯びていない、あまりにも無機質な返答だった。
静寂が満ちていく。燭台の灯がふっと揺れた。
何か違和感を覚え、彼女は眉をひそめて視線を巡らせた。
その瞬間。
背後で一歩、影が揺れる。
ゆっくりと、一歩。気づかれぬように。
静かに、確実に。
そして彼女の背に、冷たい刃が沈もうとしていた。
--
午後の陽射しが、王都ヴェルガル学院のカフェテリアを柔らかく包んでいた。
この学院のカフェテリアは、木目の美しい家具と魔法の灯りに彩られた、落ち着いた空間だ。窓辺には彩りのある花や古い紋章のステンドグラスが飾られ、どこか品のある雰囲気を醸していた。
そんなカフェ空間のオープンテラスにて、ルーシア・ヴェルディアはカップを手に取り、ふわりと立ちのぼる紅茶の香りを静かに味わった。
肌を撫でる風も、話し声もすべてが控えめで、この場所の静けさと調和している。
「いい香りだ」
「ええ。喉元にやわらかな絹が触れるようで。癒しの一杯ですね」
向かいに座るカトレア・ミンツが、微笑みながら応じる。学院長の秘書を務める彼女は、知的な眼鏡の奥に冷静な視線を宿し、どんな場でも完璧な振る舞いを崩さない。
銀のティーポットから注がれた紅茶は、カップの中で揺れ、光を反射していた。
ルーシアはふと、テーブルの中央に飾られた響奏花に視線を移す。音に反応して花弁が開くこの花は、今は変わらず、閉じたままだ。
「響奏花はつぼみのままだな。さすが、名門のカフェテリア」
「光栄ですわ」
誰もが上品に会話するこの場所で、この花が咲くことは不名誉なことと言ってもよいのだろう。
カトレアは流れるような仕草でカップを口に運ぶ。
静かで、洗練された時間だった。
だが、その静寂に耐えられない者が一人。
「ねえルー、このティータイム、そろそろ本題に入らない?」
フィオナ・ブライトが頬杖をつきながら、じれったそうにスコーンを突いていた。
揺れるハーフアップのポニーテールと、波打つオレンジブラウンの髪が光を受けてふわりと揺れる。
明るく快活な印象の中に、どこか甘え上手な空気を纏った仕草だった。
焼きたてのスコーンは、こんがりとした焼き色を帯び、果実のジャムと、甘く発酵させたクリームが添えられている。
「さすがに焦らされすぎて、お腹が空いちゃった」
じっとスコーンを見つめ、食べるべきかどうかを悩んでいるようだ。
ルーシアは、一口紅茶を飲み、淡々と言った。
「状況からすれば……」
ルーシアは一拍、言葉を止め、カップの縁に視線を落とす。
「……犯人はエリザだよ」
「……え?」
その瞬間、カトレアが軽くまばたきをした。紅茶を飲みかけていた手がわずかに止まる。
フィオナもスコーンを指で突いたまま、固まった。
「えっ、ちょ、待って。今さらっと言ったよね?」
フィオナが椅子を揺らしながら、勢いよくルーシアを見つめる。
「まさかとは思うけど、それ、冗談じゃないよね?」
ルーシアは、カップを置き、静かに視線を上げた。
「冗談で、人を犯人にする趣味はない」
「……そ、そりゃそうだけど!」
フィオナは困惑しながらスコーンをがぶりと口に運んだ。
「フィオ……スコーンは手で割って食べるものだ」
「んぐんぐ……今はそんなこと言っている場合じゃないから」
ルーシアの指摘にフィオナはもぐもぐと口を動かしながら反論する。
そんな中、カトレアは目を伏せたまま、カップをテーブルに戻していた。
「つまり、あなたはすでに、事件の真相を解き明かしたということですね?」
「解き明かしたわけではない。ただ話を聞いて、現場を見て、疑わしい人物がエリザだった。ただそれだけだよ」
ルーシアは、あくまで淡々とした口調で答える。
フィオナは、口いっぱいのスコーンを飲み込むとポカンとした顔でルーシアを見つめていた。
「そんなあっさり? 普通解き明かす時って『この事件は実に巧妙な謎に包まれていて……』とか、ゆっくり説明していくもんじゃないの?」
「……今ここでそんな演出は必要ないだろう?」
ルーシアは涼しげに言い放つ。
「まあ……そうだけどさぁ……」
フィオナが二つ目のスコーンを手に取りながら微妙な顔をする。
そのやりとりを、カトレアは微笑を浮かべながら静かに聞いていた。
「では、お聞かせ願えますか?」
カトレアの声には、静かな緊張感があった。紅茶の湯気の向こうで、彼女の瞳が鋭く光る。その微笑は、冷たい沈黙をまとっていた。学院を支える秘書として、事件の真相を知ることは避けられないことだと悟っているのだろう。
ルーシアは、そんな視線を受け止めながら、再びティーカップを持ち上げる。
「あぁ。紅茶が冷めないうちにな」
カップの中の琥珀色の液体が揺れる。
ルーシアの口元に、わずかに冷えた微笑が浮かんでいた。
この時、すでに彼女の中ではおおよその「仮説」が形を成していた。
だがその核心に触れる前に、確認すべき事実があった。
そして、話は数日前へとさかのぼる。
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