ヒントは情熱の丘

誰かの何かだったもの

おかえりの声がする

 丘の風は、どこか他の場所と違うにおいがする。湿った土と、鉄のような、すこし甘い何かの匂い。それを私は「情熱のにおい」と呼んでいた。


 丘には名がなかった。地元の地図にも載っていなかったし、誰かがそこへ行く話も聞いたことがなかった。ただ、あの人だけがそこを好きだった。

 「この丘、私だけの秘密基地にする」

 そう言って、笑っていた。真夏の陽射しの中で。真っ赤な野バラの中で。


 私は彼女に恋をしていた。

 誰よりも深く、狂おしいほどに、彼女だけを想っていた。けれど、彼女はそのことに気づかなかった。あるいは、気づいていながら知らないふりをしていたのかもしれない。

 優しい人だった。誰にでも、分け隔てなく接するような。だから、私だけが特別ではなかった。それが、少しずつ私を蝕んでいった。


 ——その年の夏、彼女は別の男と付き合い始めた。

 何も言わなかった。何も知らないふりをして、笑顔のままで私の隣にいた。私は、狂いそうだった。いや、もうその時には狂っていたのかもしれない。


 彼女を殺したのは、事故だった。

 丘の上で、二人きり。告白した。断られた。突き飛ばされた。バランスを崩した。倒れた。石に頭を打った。動かなくなった。


 ……私は、そこで選択をした。

 助けを呼ぶ? 否。彼女は私のものだった。これからも、永遠に。

 私は、彼女を丘に埋めた。丘の真ん中、いちばん風通しの良い場所。彼女の好きだった野バラのそばに。

 そして、こう思った。「これで、ずっと一緒にいられる」と。


 けれど、翌年の春。丘には妙な変化が現れた。

 野バラが異常に繁殖し、赤い花が丘一面を覆ったのだ。まるで、誰かの血が地面から滲み出しているようだった。


 近所では噂が立った。

 「あの丘には何かがいる」

 「夜になると、女の泣き声が聞こえる」

 「花が喋った」——馬鹿らしいと笑う人もいたが、私は知っていた。


 彼女はまだ、そこにいる。

 私のことを許していない。

 毎晩、夢に現れてはこう言う。「約束、守ってくれた?」

 彼女が生前言っていた。「私が死んだら、あなたも一緒に来てくれる?」と。


 私は、答えを先延ばしにしていた。


 けれど、もう限界だった。

 今年も、花は咲いた。昨年よりも赤く、そして濃く。


 私は丘に登った。彼女が眠るあの場所へ。

 スコップを持って。ナイフを忍ばせて。彼女の好きだった花を手に。


「ただいま」


 そう呟いて、足元の土を撫でる。

 風が吹く。髪を揺らし、頬を優しく撫でる。あの時と同じ風だ。彼女の声が、耳元で囁いたような気がした。


「会いに来たよ」


 私は服の裾をまくり、脇腹にナイフの刃を当てる。

 彼女の隣に行くための鍵。これがなければ、永遠に閉じたドアは開かない。


 一瞬の痛み。血が花のように咲く。赤い花に、赤い血。よく似合う。


 倒れた私の視界に、野バラが映る。

 その花の中に、彼女がいた。血のように赤い唇で、こう呟いた。


「おかえり」


 私は笑った。風が止んだ。世界が暗くなる。やっと、彼女の声がはっきりと聞こえた。


「約束、守ってくれてありがとう」

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ヒントは情熱の丘 誰かの何かだったもの @kotamushi

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