紐くじ屋の景品
跡部佐知
紐くじ屋の景品
いつも静寂に包まれている神社は、祭りの活気に満ちていてやけに騒がしかった。
その夜、姉と私は二人で神社の祭りに来ていた。
「なんだか騒がしいね」
今年の祭りは、例年以上にざわざわしている。空気の揺れの違いが肌を撫でる。
「そうだね。でも賑やかだよ」
私より五歳も上のお姉ちゃんは、むしろその騒がしさを楽しんでいるようだ。
境内の長い参道を挟むようにして、夜店がずらりと並んでいた。りんご飴、わたあめ、金魚すくい、くじ引きと、何でも揃っていた。
私は浴衣の裾をひらひら揺らめかせながら、一生懸命に姉の後をついて行った。人ごみには女性が多かった。色とりどりの浴衣が提灯の灯りに照らされて、夜に眩しく艶っぽかった。
境内の奥の方にさしかかると、どよめきの種類が変わったのがわかった。境内の外れには、夜店が一つ立っていた。その夜店に群がっているのは男の人ばかりだった。
「お姉ちゃん、どうしてあそこは男の人ばっかりいるの?」
まだ漢字が完全には読めなかった私は、夜店に掲げられた上りの文字も、看板の文字も読むことができなかった。
「あれは、紐くじ屋さんかな。でもなんでこんなに男の人が多いんだろう。見てみようか」
姉が私の手を握った。紐くじ屋の景品が見えやすい位置に移った。
「ここなら見えるかも」
姉がそう言った途端、表情を曇らせた。視線をさっと下向きに逸らし、私の手を握る力がほんの少しだけ強まった。
「何が見えたの?」
私は無邪気に尋ねた。
「女の、人」
ぽつり、ぽつりと、降り始めの雨のように淡々とした口調だった。私はそこから姉がショックを受けたことを察するのは難くなかった。
思いっきり背伸びをすると、一人の女性が見えた。その女性の両隣を、おもちゃやらお菓子やらが囲んでいる。幾千もの紐が太巻きの束になり、正座する女性の前に造作なく転がっていた。男たちはその女性を狙って紐くじ屋に集っているのだと子供ながらに飲み込んだ。
女性は、こなれた絣の野良着を着ていた。着物はところどころ煤けていて、どこか遠いところから来たような出で立ちだった。
その野良着の胸元には、「特賞」と書かれた白い布が縫い付けられていた。布と野良着の隙間から、赤い糸が一本、束に向かって垂れていた。
女性は十五歳の姉よりも年上に見えた。
黒い髪はばさつき、毛先がぴょんと跳ねていた。俯いていて表情は見えないはずなのに、哀愁を帯びた切なさが感じ取れた。
この人は今、涙が出ないほど苦しんでいるのだと私は思った。
「今宵の目玉は東北の娘だよ。くじ一回五百円。ささ、みんな寄っといで」
紐くじ屋の店主が大声で呼びかけを行っている。それに呼応して多くの男性が紐を引こうと列を成している。
「戻ろう」
姉に手を引かれ、私は踵を返した。
来た道を戻るだけなのに、姉の背中がやけに大きく見えたのを覚えている。
参道に立ち並ぶ夜店を抜ければ、父と母の後ろ姿が見えた。私たちは安堵の息を一つついて、父と母のところへ歩み寄った。
「夜店はどうだった?」
母が私たちに聞く。
私も、お姉ちゃんも何も言うことができなかった。その様子を見て、何かを察したようだった。
父と母は二人で目配せした。
「神社の奥の方に行ったのか」
私たちがしぶしぶ頷くと、父はバツの悪そうな顔をした。
「ああいうのはね、世の中に出たらよくあるもんだけど、子供だけで近づくもんじゃないよ」
口調は優しかったけれど、咎められているのがわかった。
「わかったよ。気をつける」
姉が口を開いた。両親もさして深刻に考えているわけではないようだ。あくまでも、社会の汚い部分を今はまだ見せたくないという一つの配慮であると同時に、子供の成長と自由を奪いたくなかったのだと思う。
「りんご飴、買いに行かない?」
姉が私に言った。私たちはせっかく祭りに来ているのに、まだ何も食べていなかった。それに気づくと急にお腹が空いてきた。
「私、焼きそばも食べたい」
私たちは、焼きそばを食べた後にりんご飴を買いに行くことに決まった。
「お母さんたちは鳥居の近くで待ってるからね」
母は笑顔で私たちを送り出した。
道中、二人の話題はご飯のことよりも、あの紐くじ屋の景品にされていた女性についてだった。
「やっぱり気になるよね」
「うん、気になる。あの人どうなっちゃうんだろう」
私はとても心配だった。
「まず焼きそば食べよっか」
お姉ちゃんはまた私の手を取って、慣れた様子で人ごみを抜ける。
使い捨ての皿に分けられた焼きそばを、割り箸で食べた。夜中に外で食べるご飯は特別においしかった。
「祭りの焼きそばはおいしいね」
お姉ちゃんが笑顔で言った。
「そうだね」
私はほっとした。
それから、私たちはりんご飴の夜店方へ歩いた。りんご飴の夜店は参道を進んだところにあり、あの紐くじ屋の近くに行かなくてはならなかった。
「大丈夫そう?」
お姉ちゃんが私のことを案じた。
「うん、平気。むしろ気になる」
「だよね、私も」
不謹慎だが、心配と同時に興味があった。事の顛末を知りたかった。
りんご飴を買ってから紐くじ屋の方を見て、そのあとで両親のところに戻ろうということになった。
右手にりんご飴を持ちながら、おそるおそる紐くじ屋の方に歩み寄る。私のことではないのに強くドキドキした。
「あ、景品少なくなってる」
背の高い姉は、私よりも先に紐くじ屋の状況を把握したらしい。
「ほんと?」
私も背伸びをした。
おもちゃはぐっと少なくなり、お菓子もほとんどなくなっていた。なのに紐の束はまだ巻き寿司のように太かった。
不満を漏らす男の野太い声がいくつか聞こえる。
店主は当たります、の一点張りで強気な姿勢だ。
「特賞の女の人、当たったらどうなるんだろうね」
「お姉ちゃんもわからないけど、貰えるんじゃない。景品と同じで」
「でも人間だよ」
「昔は、米の不作に悩む農家が娘を売ったりしてたらしいし」
「私も売られちゃう?」
「そんなことないよ。うちは農家じゃないから。それにもう昔の話だからね」
私と同じ日本に住む、私と違う場所で生きた人が、売られてしまうのが恐かった。
心細くなり、私は姉を見上げた。
「もう帰ろう」
姉はしばらく黙っていた。
「そうだね。なかなか当たらないし」
そのとき、りんりんりんと鐘が鳴った。
「特賞です。当たりました。特賞です。おめでとうございます」
後ろの方に並んでいた人は散り散りになっていった。行く末を見届けたい者だけが残っていた。
「なんだ、ちゃんと当たるんだ。見せかけだけで当たらないのかと思ってた」
お姉ちゃんはあっけらかんとしていた。
私は女性の身が心配だった。
「お姉ちゃん、誰が当てたのか見える?」
「えーっとね、うん。おじさんが当てたみたい」
おじさんは、すぐに女性を連れて集団の中からでてきた。
祭りは少しだけ静かになった。
おじさんは、女性についている特賞と書かれた布も、紐もそのままに歩いていた。紐を持ちながら、自分の後ろにいる女性を見せびらかすようにして歩かせていた。
女性の足はおぼつかないようで、ふらふらとしていた。力の抜けた足取りだった。
紐くじ屋の前の集団を抜けて出てくるとき、初めてその女性の表情が見えた。
想像していた通り、無気力で虚ろな表情だった。
おじさんのほうは満足気で、いきいきとしていた。私たちの前を通るときに、ひどく酒臭いにおいがした。
私はやるせない気持ちと、悲しさが込み上げてきて仕方なかった。
私たちはお互いを確かめ合うようにして手を握り、無言で父と母の待つところまで歩いた。
鳥居で父と母と合流したあと、四人で人気のない帰路についていた。
「ねぇ、お父さん、紐くじ屋の女の人って、当たったあとはどうなるの」
人の売り買いに初めて直面した私は、その後のことが気になって仕方がなかった。
「どうなるってそりゃ・・・」
「まだ早いでしょう」
父が言いかけた言葉を制止するように、母が口止めをした。
「私、助けたい」
姉が言った。
二人は困惑していた。
「でもなあ、できることなんてないんじゃないか。それに、ああいう商売は別にここだけに限った話じゃないんだぞ」
父が姉を宥めるように諭した。
「そうよ。お父さんの言うとおりだし、紐くじを売る方も、それを買う方も危ない人なの。だからやめときな」
母と父に諭された姉を横目で見ると、不満気で納得のいかないのがよくわかった。
「私、行ってくる」
それだけ言い残して、姉は一人神社の方へと駆けて行った。
父と私は慌てて追いかけたが、姉の早足には誰も追いつけなかった。夜道の暗がりも相まって、姉をすっかり見失ってしまった。
咄嗟に追いかけることができたのは父と私だけで、母ともはぐれてしまった。
姉一人で女性を見つけたところで、一体どうするというのだろう。
第一、あのおじさんから女性を奪い返すとしても、子供一人の力では無理だ。父はものすごく焦っていて落ち着きがなかった。
境内に近づき、鳥居が見えてきたころ、紐くじ屋で特賞を引き当てたおじさんが女性と共に立っていた。
「あれ、女の人を当てたおじさんだ」
「そうか」
父はただ一言発しただけだった。
「近くから見てれば、お姉ちゃんも見つかるかもね」
「あんまり近づくと怪しまれるから、ここでじっとしておけ」
私は無言で頷いた。
階段から姉が下りてきている。
「お姉ちゃん、階段の上にいる」
身を乗り出すようにして鳥居の上の階段に目をやった。
父は急いで体勢を変えた。
「待って」
私は父の服の裾をつまんだ。
姉は、階段を急いで駆け下り、女性の方に一直線で向かっていた。その衝動をまとった空気に、まだ当たりくじを引いたおじさんは気づいていないようだった。
私は、大きな声でお姉ちゃんを呼んだ。
「お姉ちゃーん」
私の声に気づいたようだ。
父も、姉に手を振った。お姉ちゃんは仕方がないという諦観めいた表情で私たちの方に足を急いだ。
姉は、すれ違いざまに、女の人のほうをじっと見ていた。
「危ないことをしようとするんじゃない」
お父さんが𠮟責をぶつけた。
「ごめんなさい、でも、助けたくて」
お父さんは何も言わなかった。
「お姉ちゃんは悪くないよ。あのおじさんと紐くじ屋が悪いんだよ」
私がそう言うと、緊張の糸が緩み、一気に父と姉がくすくす笑った。
「それもそうだな。でも今回は無事だったからいいけど、一人で行ってもしょうがないぞ」
すっかりしおらしくなったお姉ちゃんは、しょげているようにも、反省しているようにも見えた。
私にとっては頼れる人なのに、まだまだ子供に見えるところもあるのが姉だ。
鳥居で母も合流し、そろそろ帰ろうか、という空気が流れ始めたとき、女性が一人になるのが見えた。おそらく、おじさんが一旦席を外したのだろう。
父に状況を話し、助けに行きたいと提案したところで、おそらく制止される。もし助けるなら今しかないと思った私は、お姉ちゃんにこっそりと耳打ちをした。
父と母は、私たちよりも少し先の方を歩いていて、気づかれることはなさそうだった。
「お姉ちゃん、助けるなら多分今しかないと思う」
「え?」
「後ろ見て」
姉が振り返ると、女性は鳥居の前で一人突っ立っていた。
「行くしかないね」
姉が走り出した。私も走った。
林の向こうで立小便をしているおじさんがうっすら見えたが、私たちの駆ける音は子供の戯れのようにしか思われていないのか、振り向くことさえしなかった。
お姉ちゃんが女性の手を握った。
「帰りましょう。一緒に」
女性は困っていた。手を引いても動かなかった。私も空いていた右手を握った。
「私たちと行こう。早く」
女性は当惑し、答えを出せない様子だった。
「もう、どうなるかわかってるんでしょ。急ぎなよ!」
姉が声を荒らげながら手を引っ張って走り出した。ぐいっと、私まで引っ張られそうなくらいだった。
私たちは三人で駆け抜けた。少し経った後、おじさんの怒鳴り声が私たちの背に刺さった。
心臓を揺さぶる恐怖心に怯えつつ、路地を気丈に走り抜けて、入り組んだ道を縫うように走った。
家に着いた頃には、三人はすっかり方で息をしていた。
「もう、大丈夫だね」
すっかり疲れ込んだ様子の姉が言った。
「お母さんたち、まだかなあ」
家の鍵は父と母が持っていたため、私たちは二人を待たざるを得なかった。しばらくの間、気まずい沈黙が続いた。
十五分もしないうちに、父と母が帰ってきた。
勝手にいなくなった私たちを怒るよりも先に、紐くじ屋の女性がいることにぎょっとしていた。怒りはどこかへ飛んで行ったらしい。
「ちょっと、色々あって」
姉が言った。
女性は相変わらず虚ろだった。
「犬や猫ならまだしも、人ってのはね」
しびれを切らした母が呟いた。
「わかってる、でも」
姉は食い下がった。
「とりあえず、家で話をしよう」
父が玄関の扉に手をかけた。
私は東北で生まれた。米が全く取れなかったある年、男四人、女三人の七人兄弟である家から、誰か出さなくてはとの話になった。
四人の男は米作の働き手として重宝した。上の姉には縁談があった。下の妹は末っ子としてかわいがられていた。私には何もなかった。結果的に、次女である私が家を出された。
両親にはそれまで何不自由のない生活を送らせてもらったが、米の不作一つで私が切り捨てられたことが堪えていた。
鉄道を乗り継いで、関東の街まで出てきたが職にありつくことはできなかった。路銀が底をつきたころ、仕事を斡旋するという怪しい男の口車に乗せられた。既にお腹も空いていて、孤独感も酷かった私は、甘言を飲み込んだ。
それからのことはよく思い出せない。
気づけば紐くじの景品になっていた。奇異な眼差しでじろじろと顔や体を観られるのは不快だった。素っ頓狂な調子の声は耳障りだったし、自分が景品になっているのも情けなかった。
故郷に帰りたいと強く思っていた。もう戻ることなんてできないのに。
当たりませんようにと強く願っていたが、酒臭い男が私の紐を引き当てた。
野良着と縫い付けられた白い布との間に、一本の細い赤い糸がするすると揺れる感覚が伝わり思わず顔を上げれば、にたにたした表情が見えて吐き気を催した。
男が用を足そうと一度私を放ったが、私にはもう逃げ出す気力は残っていなかった。ただそこに立ちすくんでいた。ろくな食べ物を口にしていない私は、逃げてもきっと追いつかれるだろうし、逃げたところでまた、身寄りのない私は誰かの物にされるだけだと無気力に考えた。
けれど、二人の女の子が私の手を引いてくれた。一人はまだ小学生くらいに見えたが、もう一人は私とさほど年齢も変わらないだろう。
帰りましょう、と言われたときは嬉しかった。でも、帰っていいのかがわからなかった。私はあの男と帰らなくてはならないと思っていた。
握られた手の温もりに惹かれて、足に力を込めて走ったとき、涙が出た。助けてくれる人がいたことが信じられず、走っているときに胸に想いが込み上げてきた。
たかが米作の不況で私が家族の輪っかから切り捨てられたこと、東北から鉄道を乗り継いで必死に関東までやってきたこと、男に仕事を斡旋されたと思ったら、紐くじの景品にされたこと、自分の価値に値札がつけられて、それを目的に好奇の眼差しを向けられたこと、ひどく切なく、寂しかったこと。
お父さんが来客用の椅子を用意して、女性を座らせた。
私の隣には姉が座り、真向かいには父と母が座っていた。女性は私たち家族を見渡せるように座らされていた。
「君は、どうしてくじの景品になったんだ」
「ちょっと、それはいきなり踏み込み過ぎよ」
父は母に注意されていた。
女性は何も答えることはなく、卓上に気まずさが滞留していた。
「事情は様々だと思う。無理に話すことはないわ」
母が出した助け舟に、女性から落ち着いた雰囲気がした。
「そうだよ。困っている人に理由も何もないよ」
姉が言った。
女性は俯いていたけれど、紐くじ屋で見たときよりも、私たちと駆け抜けたときよりも、ずっと落ち着いているようだった。
「お父さん、この人とみんなで暮らしちゃだめ?」
私は我慢できずに軽口をたたいた。女性は顔を上げて私を見つめた。幼い私にはまだ事の大きさがわからなかった。
「生い立ちも出身も知らないんだぞ」
父が呆れ口で言った。
「私は東北の生まれです。身売りにあって今に至ります」
ずっと喋っていなかった女性が急に話し始めたものだから、みんなが驚いていた。
「あんた、名前は?」
父が聞くと、女性はしばし黙っていた。
それだけで父と母は何かを察したようだった。
「しばらく住まわせてやってもいいけれど、いかんせん情報が少なすぎる。話せるようになったらでいいから、少しずつ話してくれ。それからのことは、あんた次第だ」
父がぶっきらぼうに言った。
「お前ら、それでいいか」
「お父さんがそう言うなら、私は問題ないわ。おしゃべり相手も増えるし」
母が優しい口調で言った。
その言葉に反応した女性は、ぱっと目を輝かせていた。根明なのかもしれないと思った。
「私も一緒に暮らしたい。そのために助けたんだし」
姉ははっきり言った。
「みんなと一緒で、私も一緒に暮らしたい」
「じゃあ、決まりだな」
父が席を立ってしばらくすると、女性は泣き出した。声を上げて泣いていた。大人の女性が泣くのを見るのはそれが初めてだった。
「そんなに泣かなくても、お風呂沸かしてありますよ」
母が女性をお風呂に誘った。背中をさする母は優しい目で女性を見つめていた。
「ほら、二人は夕ご飯の支度して」
姉は台所の火で味噌汁を温め、私はお米を炊く準備をした。干物を取り出そうとしたお姉ちゃんが母に尋ねた。
「お母さん、今日って魚は五人分?」
「当たり前でしょ、何言ってんの」
「だよね、五人分用意するよ」
姉と私はことこと笑った。母も、女性の背中をさすりながら微笑んでいた。
女性はいっそう強く泣くばかりだった。
紐くじ屋の景品 跡部佐知 @atobesachi
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