Life♡HACKED

りどかいん

退役

契約終了のサインをして、最後の報酬の振込を確認し、残っていた装備品を返却した。

それで、終わりだった。

兵士としての日々は、肩を叩かれるような軽さで背後に過ぎ去った。


荷物は意外なほど少なかった。

かつてはどこかにあったはずの“生活の痕跡”──たとえば器とか、ちょっとした飾りのような─

そういうものは、いつの間にか失われていた。

残ったのは、使い込まれたブーツ、最低限の着替え、メンテ済みのナイフ、ガジェット類。MOLESKINEと愛読書…

バックパックひとつにすべてが収まる。


放浪者だな、俺。


空港で行き先を選ぶとき、ほんの少しだけ迷った。ドイツに戻るという選択肢も、当然あった。

けれど、自由に行けるなら──と、ふと思った。

あえて、生まれた場所に行ってみよう、と。


日本。


記憶にはない。

幼い頃にいたというが、写真すら手元に残っていなかった。

到着した空港は、見事に洗練されていた。滑らかな床、静かな人波、英語も問題なく通じる案内。

未来、という語がふと浮かぶ。


だが、街に出てみて──その印象は裏切られた。高層ビル群が、かすんだ空の向こうに浮いている。

どこかCGのような、ホログラムのような不自然さ。

そしてそれを一歩外れれば、妙に古びた看板、雑然とした路地、錆びた手すり、通り過ぎる配送バイク。


なんだ、この極端な混在は。


中央部だけが極端に進化し、その周囲は何十年も変わっていないような前時代の雑踏。

サイバーとポンコツのちゃんぽん。


……調子が狂う。



それでも、なぜか──こっちのほうが落ち着く気がした。


(あの無機質な高層街には入りたくない)

(入ったら、きっと職質される側だ、俺は)



人目を避けるようにして、古びた駅で切符を買い、住宅地の匂いがする方へと歩いた。

どこへ向かっているわけでもない。

ただ、この国の「呼吸」を確かめるように、スニーカーの靴底でアスファルトを踏んだ。



通信はない。


警報もない。


バリケードも、砲撃音も、ない。



静かだな。



──そんなふうに、ディーターは「マコト・クロカワ」として、知らない国に降り立った。



最初に借りた部屋は、鉄骨三階建てのうちの一室だった。


駅からは歩いて十分ほど。築年数の割に綺麗に保たれていたが、どこか所在なさげな建物だった。

名前は──何だったか。覚えていない。けれど、そのくらいでちょうどよかった。



契約時、書類を渡された。そこに必要だったのは、「黒川マコト」という署名だけだった。


ああ、そうか──と思った。



「Dieter Makoto Kurokawa」ではない。


この国では、ミドルネームは使わない。名前がひとつ消えるだけで、驚くほど、気配が薄くなる。

まるで、ステルス迷彩でも掛けられたような感覚だった。


Zug Vでは、「Dieterのとこ」と呼ばれていた。

軍歴、部隊歴、出自──あらゆる情報がそこに乗っていたし、名を呼ばれるだけで背中が熱くなるような、戦場の緊張が蘇った。



だが今、「マコト・クロカワ」には、何の背景もない。ただの、書類上の居住者。

生まれた国にいて、完全に異邦人だった。部屋に入って最初にしたことは、窓の確認。

次に、非常口の確認。最後に、周囲の見取り。……癖だ。

契約を済ませ、鍵を受け取り、鉄の階段を上がった。

新しい部屋のドアは軽く、施錠の音が頼りなかった。

バックパックを床に置く音が、妙に乾いて聞こえた。

少しして、近くのジムとコンビニを探し、手続きの済んだ部屋に身体を投げた。


──さて、ここで、何をすればいい?


答えはなかった。



……三階も空いてますよ、と管理人は言った。

だが俺は、二階にした。

理由は訊かれなかったが、もし問われても答えようがない。

ただ「三階から飛ぶことになる気がした」──そんなのは、笑い話にもならない。



それでも──誰も撃ってこない部屋というのは、悪くなかった。

ミドルネームは消えた。そして、戦地の階数感覚も、ひとまず手放すことにした。



ベッドは固め。窓は小さく、隣家の壁が見えた。

それでも、ここは日本で、今日の空には爆音もなかった。


一度深呼吸をして、ジャケットを脱いだ。荷物はもう背中にはない。

それだけで、少しだけ眠くなった。

荷ほどきと呼べるほどの荷もなかった。支給品と替えの服が数枚、ポーチに小物、あとは書類──それだけ。


ベッドの隅に並べて、ひとつ息を吐く。

窓の外は、暮れかけていた。

静かだった。

銃声も、無線の雑音も、怒鳴り声もない。



──あいつら、今頃、俺が居なくなったことに気づいたかな。



フリッツはきっと「また女か」とか言って笑ってる。

ヤンは、無言で顔をしかめてコーヒーを飲む。

シュタイナーは──気づかないかもしれないな、鈍いから。


……でも、たぶん全員、気づいてる。


「ディーター、どこ行った?」

誰かが訊いて、誰かが答える。「さあな。黙って消えた」

そういうやつだった、俺は。


最後の任務を終えて、報告を終えて、ただ静かに帰っただけ。死ななかったが、生き残ったとも言いきれない。

ミドルネームも階級も、もう必要ない。この部屋では、誰も俺を「ディーター」とは呼ばない。

ただの「黒川誠」として、ようやく降り立ったこの国で、

まずは眠ることにする。



何故やめたのか、と訊かれたら、うまく答えられない。

いや──本当に、ふと、やめたんだ。

それまでの疲れが溜まっていたとか、信念が揺らいだとか、そういう綺麗な話じゃない。

ただ、ある任務のあと、靴の泥を払って、次のブリーフィングに向かう足が止まった。そのまま、二度と歩き出さなかっただけだ。


戦場では判断に理由が要る。命令に、報告に、撃つにも、逃げるにも。

でも、そのときの“やめる”には、何の理由もなかった。だからこそ、本当だったのかもしれない。俺の意思として。


「燃え尽きた」というより、「火を見たくなくなった」に近い。焼け焦げる臭いも、無線の沈黙も、

仲間の名前を確認する手順も──全部。


それだけのことだった。



最後の任務は、撤退戦だった。

この時も俺は殿(しんがり)に立った。

味方の輸送路は断たれ、支援は途絶え、敵の動きは異様に早かった。


「誰かが殿(しんがり)をつとめなきゃならん」


「俺が行く」


殿(しんがり)──それは、最も危険で、最も孤独な位置。しかし、一度も迷わなかった。

先に行け、と肩を叩き、背を押し、味方を走らせる。自分の背後には誰もいないことを確認して、ようやく身を翻す。

そして、敵を迎える準備をした。遮蔽を探し、射線を読み、次の交差点までの距離を測る。


──一度も躊躇わず、ただ「味方を帰す」ためにだけ、そこにいた。


撃って、走って、助けて、また撃って──

敵が壁を越えたとき、俺が一人だけ残っていた。

足を引きずる仲間が最後の装甲車に滑り込むのを見届けてから、手榴弾を放って遮蔽を作り、

そのまま、照準もなしに敵の前線を圧するように走った。

戦場にあったのは、俺の足音だけだった。


肩口をかすめた弾丸の熱が、現実感を引き戻してくる。


“死ぬのは、たぶん今日じゃない”。その確信だけで足が動いた。



撤退完了の確認をとったとき、隊の無線には誰もいなかった。

全員が生きてるかどうかもわからない。

でも、生きてた。そして俺も、まだ生きていた。


そこで、ふと──もういいか、と思った。


振り返らなかった。銃を手放したわけでもなかった。ただその日から、予定されていた次の作戦には出なかった。

名簿から消えたのは、それだけの理由だ。俺の戦争は、そこで終わった。




スニーカーを履く。パーカーを羽織る。誰も見ていない舗道を、ただ走る。

走っている間だけ、考えずにいられる。

知らない道、見慣れぬ看板。見上げれば、鈍色の空。

心拍は早すぎるわけでもない。ただ、生きてるって感覚だけが、やたらとはっきりしていた。


思えば、何かを“する”ことでしか、生き延びてきていなかった。

その習慣が、まだどこにも行ってないのだ。走って、走って、息を吐いて。


ようやく、夜は少しだけ眠れるようになった。何も起きない夜に、少しずつ身体が慣れてきたのだろう。



そのうち、地形や道筋、街並みも把握しはじめた。コンビニの位置。スーパーの営業時間。静かな公園。

使える施設と、使えない道――舗装の甘い箇所。酔っぱらいの出没地域。


傭兵癖は、簡単には抜けない。買い物にも、なんとか慣れた。

だが、どうしてこの国は、こうも意味のわからない商品名が多いのか。


「しあわせのパン」「とろける深み」「おとなのカレー」。


いちいち抽象的だ。味を示すでも、成分を明示するでもない。売り場で数分悩み、成分表を凝視する羽目になる。

たかが飯を食うだけで、選択肢が過剰だ。

うまいかまずいかの二択ではないのか。


──そう思う一方で、それが“生きている”ということかもしれない、


という考えが、時折、脳裏をよぎる。“選べる”という贅沢。

誰にも撃たれず、誰も死なず、誰の無線も飛ばない朝に、あたたかいスープを選ぶ自由があるという、それだけのことが。


まだ、慣れきれはしない。だが、奇妙なことに、その違和も悪くはなかった。

そして、悩んだ末に選んだのは、ただ一つ明快だった『カレー』。


理由:読めるから。味が想像できるから。カレーに裏切られたことがないから。


どうしても日本語の表記は「意図とルール」が混在する。それが、言語としての混線であり、日常という名の戦場だった。


「……ミリ飯の方がわかりやすかったな」


──誰にも届かない呟き。かつての自分は、


「Menu 5: Chicken with Rice」だけでやっていけた。


・敵の配置は予測できた。


・進路も、想定範囲だった。


・だがこの棚は……予測不能の伏兵しかいない。



黒川は最初、ドイツ時代に使っていたようなクレカ連携の汎用型ICで乗り切ろうとした。


が──


・券売機:「当カード、非対応」

・コンビニ:「アプリ専用コードが必要です」

・屋台:「あ、PayNipponだけっス」

・飲食店:「現金?え、現金?あー…両替機、壊れてて…」


アプリはそれぞれ独自仕様、連携も断絶、使える店も偏在。

QR決済は3種、ICは4種、ポイント還元は各陣営で泥仕合。


「あのな……統一しろ、どこか一箇所でいい、俺を殺す気か」


と、心の中で呻きながら結局、全種対応”の物理カード入れを購入した。

詰まったカードが財布を分厚くし、軍隊時代より重く感じる。

極めつけは医療機関の支払い:


「現金のみです」

「…………ッッ」


未来に進化した中枢エリアが視界の彼方で光を放つ横で、この男は未だに財布の小銭と格闘していた。


「キャッシュレスとは、どこへ行った」



こうして黒川誠は学んだ。この国の“未来”は、あくまで局所進化であり、全体最適化とは無縁だ。

かといってあの、煌びやかで胡散臭い中央部に、憧れは抱かなかった

むしろ、本能的に「関わるな」と思った。


中央部。


視界の隅に見えるあの異様に発光した都市核。

高層の建物が空に刺さり、ドローンが舞い、ホログラム広告が空間を占拠する。

それを指して「未来だ」と言う者もいる。


だが、黒川誠の目には──


「あれは機能でなく、演出だ。戦場と同じ匂いがする。目立たせて、釣って、囲って、仕留める」


そんなふうにしか映らなかった。実際、中央部に向かう通路には無数のセキュリティ・チェック。

電子署名の連携、顔認証、行動記録のスキャン。


「安全です、快適です、幸福です」


──誰がそう決めた?



結局、彼が腰を落ち着けたのは、古びた建物の二階。

古いが静かで、窓から電線が見え、屋上に干された洗濯物が揺れている。


「生活」があった。


「……あっちの“最適化”より、こっちの“ままならなさ”のほうが、まだマシだ」



煌びやかで胡散臭い未来より、曇ったガラス越しに見る、生活音のある現在。

その方が、まだ信じられた。


──未来を謳う都市のすぐそばで、


傾いた街灯の下、配達ドローンが段差でひっくり返って、中身をぶちまけている。

誰も驚かない。通りすがりの子どもが「がんばれー」と声をかけていく。

黒川はそれを見て、小さく笑った。


「……戦場より、よっぽど混沌としてるな」


誰も最適化されていない。効率なんかより、とりあえず生きてる。

このポンコツ都市のほうが、妙に落ち着く。


中央部のように、完璧に整った嘘じゃない。ここでは、不完全であることが日常だ。


彼にとって、それはむしろ、人間の証明に見えた。



ジムのカウンター



受付嬢が渡してきたタブレット端末。フォームの項目に、漢字で「黒川誠」と入力するのに一瞬迷い、

ふとした癖で“Dieter”まで書きかけて、慌てて消す。


「あ、えーと、ミドルネームは不要で大丈夫です」


受付の女の子はにこやかに言ったが、黒川は内心で小さくうなずいた。


「……そうか、ここじゃ、もう“ディーター”じゃないんだな」


(不要で……大丈夫、か)


その一言が、じわりと胸に残った。誰にも否定されていないのに、

まるで「今のおまえに“それ”は要らない」と告げられたようで。

黒川は端末をそっと返し、無言で会員証を受け取る。

画面に表示された“マコト・クロカワ”。

カタカナで出る会員証に、どこか自分じゃないような感覚がある。


けれど、それでいい。ここではそれが普通なのだ。


それに──

「今さら、“Dieter”を名乗る理由もない」


もう、傭兵じゃない。生き延びるだけの場所じゃない。

少なくとも、今のところは。カードには「クロカワ マコト」


それだけ。


(こんなにも軽くなるのか、名前って)

戦場で名前は、所属であり、役割であり、時に死体の札だった。

でもここでは、ただの名札。


ジムの床は妙に明るく、清潔で、無機質な香りが漂っていた。


(……もう、ディーターじゃない)

(それで、いいんだろ)


そう繰り返しながら、黒川はストレッチマットの上に静かに座った。

深く、ゆっくりと息を吐く。


ああ、静かだ──通信も、砲声も、指令もない。



──そして、己の中にも。




彼はノートの端に何度か書いてみた。


黒川 誠

黒川 誠

黒川…誠…



止めやはねが妙に慎重になる。バランスを取ろうとして、かえって不格好になる。

(下手かどうかを気にしてる時点で、俺はもうただの民間人か)


「誠」という字は、どこか眩しすぎて、嘘っぽく見えた。


しかし、これが「本名」だ。契約書にも、IDにも、保険証にも使われる。

これが、自分。

(こっちでは“Makoto”でいいんだ。ミドルネームは、沈黙したままで)

Zug V──“ディーター”と呼ばれた日々が、すでに遠い。

遠いはずなのに、指の動きに染みついていたのは、



まだ「Dieter M. Kurokawa」の筆運びだった。



(慣れろ。これが俺の、新しい生き方だ)


最後にもう一度、「黒川 誠」と書いて、彼はペンを置いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る