第2話

 母国では平屋と呼ばれる家屋の前に立ち、霖雨は一枚の紙を見つめた。

 単純な道のりだったが、いざ目的地を目の前にすると、少しだけ躊躇いが生まれる。


 住所は確かに合っている。

 ここは、NY郊外に佇む静かな住宅地。喧騒とは無縁の空気が満ちている。

 そして、この家の住人は同い年の青年だった。

 広すぎる家を持て余して、維持と管理を兼ねて同居人を募集した。よほど面倒だったのか、家賃は破格だった。必要なのは、最低限の常識と相性だけ。まるで夢のような条件だった。


 だが、それは同時に都合が良すぎるという、微かな不信感をも呼び起こす。


 霖雨は、据え付けられた最新式のモニター付きインターホンを押した。


 ほどなくして、小さなスピーカーから声が響く。

 それは、夏の夜風のように清らかで、どこか非現実的だった。




「先日ご連絡いたしました、常盤霖雨と申します」




 滑らかな外国語で名乗れば、スピーカー越しに機械的な返答が戻る。

 抑揚の乏しい、感情を削ぎ落としたような声だった。


 続いて、今度は柔らかな母国語が響く。




「少々お待ちください」




 間もなくして、扉が音もなく開いた。

 両開きのドアの奥から陽炎のように揺らぎながら、輪郭だけが先に現れた。その気配は、何か人間以外のものを思わせた。


 その存在は、そこにあるのに、どこか現実味がない。

 やがて、それが一人の青年だと認識できたとき、霖雨は一瞬だけ息を呑んだ。


 ――まるで、夜の湖面に立つ幻のようだった。




「やあ、待っていたよ」




 青年はにこりと笑い、両腕をゆったりと広げる。

 胡散臭い、というより台本通りの笑顔だった。台詞も、演技も、心がない分、正確だ。


 霖雨は戸惑いながらも、促されるまま家の中へ足を踏み入れる。


 リビングは広く、十畳以上はあるだろうか。家具は必要最低限のみで、空間には余白が多い。

 対面式のキッチンには、換気扇の下に灰皿が置かれ、積まれた吸殻からはわずかに煙草の匂いが立ちのぼる。


 それが、この家の主がここに存在している唯一の証のように思えた。


 リビングには扉が五つあった。青年はそのうちの二つを開け、トイレとバスルームであると説明する。


 残りの三つの扉のうち、一つが青年の部屋。そしてもう一つが、今回霖雨が内見に訪れた空き部屋だった。


 鍵が開けられ、部屋の中へと案内される。

 床は木の温もりを感じるフローリング。壁はコンクリート打ちっぱなしで、どこか工房のような印象を与えるが、不思議と居心地が悪くない。掃除は行き届いており、塵一つ見当たらない。


 水回りやキッチンは共同使用。光熱費は折半、食事は自由。

 都心の喧騒に疲れた霖雨には、申し分のない環境だった。


 霖雨が黙ったまま青年を見つめていると、彼はようやく名乗った。




「言い遅れたね。俺は神木葵かみき あおい。君と同じ大学院生で、年齢も同じだよ」




 微笑みと共に差し出された手には、どこか胡散臭さが滲む。

 だが、敵意はなく、警戒心も感じられない。


 霖雨は静かにその手を握った。




「契約が成立したなら、書類にサインをお願い。大丈夫、急かしたりはしないよ」




 握手の余韻もないまま、彼は淡々と契約書を差し出した。

 霖雨は警戒しながらも、丁寧に書類へ目を通す。不備はない。内容も常識的。だが、それがかえって恐ろしい。完璧さほど、裏を疑わせるものはない。


 青年――葵は、虚ろな目をしていた。

 何かに取り憑かれたような静けさで、霖雨の動きをただ眺めている。


 朝の地下鉄で味わった無力感を思い出す。

 あの時と同じように、今、自分は選択を迫られている。


 ――もう、黙っているつもりはない。


 霖雨は、ペンを手に取り、サインした。

 母国語で記した名に、葵は特に反応を示さなかった。




「では、ようこそ。常盤霖雨君。解らないことがあったら、いつでも訊いて」

「ありがとう。こちらこそ、よろしく」




 形式的な握手を交わしながら、霖雨は思う。

 葵は同い年とは思えないほど、冷静で、博識で、礼儀正しかった。

 だが――、果たして、あの瞳の奥に喜怒哀楽があるのか。それとも、最初から何もないのか。まだ、解らなかった。

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