ハッピー・バースデイ、あるいは母の日おめでとう

和田島イサキ

賢者は経験には学ばなくてもよい

 賢者とは、一を聞いて十を知るものだ。


「そんなことないよ。ひめくんにも弱いとこはあるよ」


 完全無欠の優等生、姫路くんには知られざる弱点がある。そう聞いた時点で答えは出た。

 乳首だ。もちろん根拠もある、彼女によればそれは「突いても特に面白くないから突かないけど」とのこと。やはり乳首である。突かれて弱く、面白いとか面白くないとか言っていられない箇所。これが乳首でないならば、この世界の乳首なんてもう全部嘘だって思う。


 私の完璧な論証に、この件の言い出しっぺたる彼女——づるは猛然と首を振る。ブンブンと、ご自慢のメガネがかっ飛んでいきそうな勢いだ。親友たる彼女がそこまで言うなら信じるほかないが、そうなると答えはもはやひとつ。


「ってことは、消去法でおしりの穴ですよね。はいQ.E.D.」


 そのとき千鶴の見せたその顔を、私は生涯忘れることはないと思う。驚愕と呆れ、そこにひとつまみの諦観を加えて、仕上げに憤怒を振りかけたようなような表情。あらやだかわいい——そう見惚れる間にその顔がみるみる遅効性の羞恥に染まって、やがて繰り出された恥ずかしまぎれの拳。

 女子学生同士のよくある戯れ。それもお嬢様育ちの千鶴らしい、全然腰の入っていないテレフォンパンチだ。私は笑う。笑いながら軽く片手で受けて、次の瞬間には冷たいタイルの床に沈む。


 ——やられた。

 賢者は一を聞いて十を知る。ならもし最初のその〝一〟が、こちらの計算を狂わせる〝毒入りのリンゴ〟だったら?

 初撃のへなちょこパンチは迷彩で、本命は左のショートアッパーだ。死角から、寸分の狂いなく、最短距離で私の顎先を撃ち抜く、千鶴必殺の蜂のひと刺しスティンガー


 〝図書室の精密機械〟の異名をほしいままにする彼女、鯖江千鶴のさまざまな伝説については、実のところあんまり関係ない。


 それよりも、目下の問題は姫路くんだ。

 完全無欠の委員長。私が賢者キャラとしてやっていくうえで、文字通り目の上のたんこぶでしかない男。

 その知られざる弱点、「実はお尻が弱い」という重要機密に、私は内心で小躍りした。本来なら。放課後の図書室、脳を揺らされ床で寝てないければそうしていた。目覚めたときにはもう千鶴の姿はなく、差し込む西日はもう閉校前のそれだ。

 敗北の味を噛み締めがなら帰宅し、だからそれを実行に移したのはあくる日のこと。




 朝、登校してすぐ、部室に立ち寄るところから私の〝作戦〟は始まる。


 ——エクスカリバー、あるいは、男のおしりをこじるのにちょうどいい感じの棒。


 正式な名称は知らない。ただ、私たちはそう呼んでいた。

 きっとどこの高校も同じようなものだと思うのだけれど、私の所属する文芸部には、代々受け継がれる「創作七つ道具」なるものがある。

 そのうちのひとつがこの棒だ。程よく太く、程よく重量感と弾力があり、程よく凶悪な凹凸のついた棒。本来何のための道具なのか、そしていつ誰が何を思ってこれをこの部の備品としたのか、その他諸々一切が不明の神器。


 これを手にするたびに私は思う。

 道具とは、使われるためにあるものである。

 抑止力とは、ときに実際に行使されるからこそ抑止力たりうるのである。

 なのでそのようにした。実に明瞭な話だと思う。


 作戦の詳細は次の通りだ。

 まず、乳首を突く。これは牽制である。相手の意識を正面の防御に集中させ、確実に背後を取るための〝毒リンゴ〟。

 よって、これは私の役目ではない。実行役はたにがわちゃんが務める。朝食ゼリー三食分で買収したクラスメイトの女子は、温厚かつ従順そうな小型犬みたいな相貌に似合わず、実は「乳首当てバッファローゲーム無敗の女」という稀有な肩書きを持つ。

 なぜ無敗か? 踏んできた場数の違いか、それとも単純に野生の勘か、彼女は必ず初撃で相手を沈めるからだ。谷川ちゃんの前に被服は煙幕としての用を成さず、彼女の眼から乳首を隠しおおせたものは誰もない。


 けしかけた猟犬。その両人差し指が姫路くんの両乳首を串刺しにした瞬間、背後から男尻抉丁度良棒エクスカリバーによる肛門への同時攻撃を行う。

 性感帯と尊厳の同時破壊。これをお昼休みの教室で敢行することで、秀才キャラとしての面目を木っ端微塵にする。白昼堂々、公衆の面前で女子から乳首とおしりを開発された男が、この先どの面さげて知的ぶれるというのか。


 ただ一点、誤解を招くのは嫌なので断っておきたい。

 男のおしりに、結構な太さの棒を突き込む、という行為。それは相手の肉体に重篤な怪我を負わせる可能性のある行為なのだと、そんな自覚はもちろん、そのときの私にはない。

 だって、よくあることだ。いや私自身が手を下したことは一度もないが、男は仲の良い男のおしりをすぐ攻撃する。見たこともある。世に言う「カンチョー」という文化は、なんと誰から習うでもなく男子各自が自然と身につけるものだと——そしてその行為によって互いに親交を深め合うのが男であると——それは誰しも見聞きしたことがある自然の摂理だ。


 だから、別段どうということはない。

 小学生の時点でもう指二本いけるんだ。

 だったら、高校生にもなればこんな、せいぜい太鼓のバチくらいの太さしかない棒。


 根拠もある。でないと、男子同士で〝そういうこと〟に臨む際、どこに何をどうするのか、その辺の辻褄が合わなくなっちゃうから——。


 賢者は一を聞いて十を知る。断片的な情報から、全体像を推しはかるのが人間ヒトの知性だ。

 例えば、男性はしばしば同姓同士で性的な行為に及ぶ例があること。その際に用いられる身体的な部位には、どうやらそれなりの太さと硬さがあるらしい、ということ。そこからの演繹だ。なにより、そのときの私には、先達が「男のおしりをこじるにはこれくらいのものがちょうどいい」と保証してくれている、という検算プルーフもある。


 ——今でも思う。確信を持って堂々宣言できる。

 私は、何も間違っていない。

 我が行いに一点の曇りなし、と。


 間違っていたのは情報だ。私の理論の礎となっていた前提知識。これらの情報のうちの一体どれが、その先の論理構築を狂わせた〝毒リンゴ〟だったか、今となっては殊更知る意味もない。


 遅すぎた。遂行された賢者キャラ奪還計画、通称『ウサギ狩り作戦オペレーション・サイコバニー』の、その結果はどうあろうともう覆らないのだから。


 五月のとある、それはそれは暑い一日。

 お昼休みの教室に、委員長の悲鳴が響き渡った。


 そうなればよかった。いや、結果として「そうなった」こと自体はまあ事実ではあるから、言うなれば「それだけで済めばよかった」か。


 絶叫はこの際いい。いやよくはないけど、でも当然のことだ。冷静に考えて、突然おしりにあんな凶悪な物体をブッ刺されて、悲鳴をあげない人間はいない。盲点だった。いや最初から我が身に置き換えて想像してみれば、そんなの「いや無理、痔になるわ」ってわかりそうなものだけれど。仕方ない。だって現にわかんなかったんだから。男の子ならこれが普通だって、きっと私だけでなく文芸部の先輩OGたちだって思ってたんだから。


 閑話休題。

 問題は破壊された肛門とその瞬間の断末魔ではなく——いやそれはそれで大問題なんだけど死んだ子の歳を数えるなみたいな話で——つまり私にとって衝撃だったのは、あくまでその直前の出来事。


 谷川ちゃんによる揺動の一撃。


「ハイッ! いいんちょ、バッファローゲーム!」


「えっなに? やだ谷川さん、やめアッ」


 の、特に最後の「アッ」の部分だ。


 それは悲鳴というにはあまりに小さすぎた。

 弱く、か細く、それでいてどこまでも艶かしい、濡れ鴉の羽根みたいに色づいた喘ぎ。


 ——あンっ……♡


 と、そう記述した方が正確だったかしれない。あの堅物の、真面目で朴念仁で頭でっかちの、ザ・委員長としか言いようのない男の声帯から出ていい声では、決してない。


 何事か——そんなの、考えるまでもない。

 乳首だ。谷川ちゃんの両人差し指が、彼の両乳首をピンポイントで突いた。まったく事前の計画通りで、何も驚く必要がなかったはずが、でも私は面食らった。正直、完全に想定外だったと言っていい。


 ——姫路くんの知られざる弱点。

 それはおしりである、と——私は、いつからそういた?


 そう、乳首だ。最初は乳首って話だった。それがおしりにすり替わったのは、他でもない情報源が彼女だったから。千鶴。いつも私を翻弄する女。大事なことをなかなか言わない親友の、その毎度お得意のやり口。

 最初の〝一〟に誤情報フェイントを混ぜて、私を撹乱してからの、本命の二撃目。


 そう思っていた。

 いつものそれに慣らされ過ぎて、まったく想像だにしなかった。

 最初に場に切り出された〝一〟が、まさかそのまま本命、だなんて。


 曰く、突いても特に面白くない弱点。いやむしろ面白すぎるでしょこの声、なんて、そう思えるのは後々思い出として振り返ればこそだ。

 笑えない。男が男の前でこんな声を出したら、その先が笑い事で済むはずがない。火がつく。ついた。別に男子ではない私でさえだ。私の中の、何か空想上のイマジナリーオスの本能みたいなものが——平たく言えば心のちんこが——彼をメスと見做してバリバリいきり勃つ感覚がした。


 きっとクラスの男子全員、同じ気持ちだったんじゃないかって思う。

 突然の嬌声。ほぼ全員が姫路くんの方を振り返って、そのとき彼らの目に映った光景は何か。

 笑顔で両手を突き出す谷川ちゃん。その両人差し指に乳首を貫かれ、身をのけぞらせ喘ぐ姫路くん。そして、その背後——息を殺し、手に聖剣エクスカリバーを構えて、屈んだままの私。


 すべては一瞬の出来事だ。長々考え込むような時間はもちろんなくて、それでもこれだけは理解できた。

 目的は、既に果たされた。突くべき弱点、揺動の方が本命という番狂わせはあれど、どうあれ突いたことには変わりない。目的達成。だから私のこれは、今これから行うはずだった作戦の続きは、もはや遂行されるべき理由がない。真昼間っからあんな「——あンっ……♡」を披露してしまった男が、この先これまで通りの委員長ヅラができるはずもないのだから。


 私の勝ちだ。

 想定といくらか異なるところはあれど、目的は問題なく果たされた。

 千鶴の情報はそのまま本当で、川谷ちゃんの狙撃能力は噂通り本物で、そして姫路くんは意外な一面を暴露された。


 それで、終わり。

 すべてが綺麗に噛み合い、計画通り完璧に機能して、そして——。


 そこに、〝私〟の介在する余地はない。


 賢者は一を聞いて十を知る。同じく賢者は、経験ではなく歴史に学ぶ、とも。

 だがこの歴史に、この物語に、私の足跡は〝一〟つもない。ただの背景。いてもいなくても一緒のその他大勢。構えた聖剣はすんでのところで実戦投入を免れ、このウサギ狩り作戦は平和裏に幕を閉じる。私も、「急に委員長の尻に棒を突っ込んだ女」との誹りを受けずに済む。


 世はなべて事もなし。

 千鶴、川谷ちゃん、姫路くんそしてクラスの男子たち。

 みんなの青春のひとコマは、いつも通り、私を抜きにして、成り立つ。


 ——そんなの。

 そんな、中途半端。


 そのままにして、いいわけ、ないじゃんか。


「姫路くん……ごめーんっ!」


 私は示す。

 この手で、この手で受け継いだこの聖剣で——。

 私はここにいるよ、と。

 生きてるよ、と。

 許されるなら、みんなと一緒に、私はここで生きていきたいんだ、と。


 知っていた。

 いくら気づかないふりをしても、賢者は一を聞けば十を知ってしまう。なんとなくクラスに馴染めていない気がするのも、そのために自分で考えた賢者キャラが上滑りしているのも——もちろんそれが姫路くんのせいじゃないことも含めて——誰かに指摘されるまでもなく気づいていた。


 何をやってもうまくいかない。他人が怖い。仲良くなりたいのに、失敗するのが怖くて踏み出せない。そんな情けない毎日の繰り返しを、放課後の図書室で千鶴とだけ会話するばかりの学校生活を、でも私は姫路くんのせいにして、そのおしりを滅茶苦茶にすることで誤魔化そうとした。

 情けない。

 卑怯で、弱虫で——そしてそれ以上に、あり得ない。


 クラスメイトの男子のおしりを、そんな後ろ向きな理由で壊しちゃいけない。

 男の子のおしりは。

 もっと、前向きで。

 明るくて、幸せで。

 そして。

 未来を歩んでいくための、大事な最初の一歩として、壊すんだ。


「みんなーーーーッ!」


 咆哮。腹の底からの、生き残りたいという本能そのままの、野獣の叫び。

 私は刻む。歴史に、姫路くんの肛門に、私は確かにここにいたのだ、という爪痕を。

 この瞬間、このクラスの一員としての私は、今ここに初めて産声を上げたのだ。


 受け入れてほしい。こんなデコボコな、石頭の捻くれ者の私だけれど、でもみんなの器はそんな狭くない。きっと、私が心の中で一方的に、「どうせ私のことなんてみんな」と決めつけていたほどには。

 勇気を持って踏み込めば、それは意外と、思いのほか優しく温かく、ニュルッズボボボッとその奥深くまで受け入れて——。


「アアーーーーーーlッ!?」


 絶叫。つい一瞬前の艶かしい「——あンっ……♡」が嘘のような、人として大事な何かを脅かされた瞬間の悲鳴。何かとは? 尊厳か、男としての矜持か、それとも単純に身体の健康か。


 彼の奥深くに埋もれた聖剣。その柄越しに、私の手のひらに伝わる確かな感触。

 届いた——人理の奥のそのまた奥、決して届いてはいけない真理の扉。それを無理矢理こじ開ける、その手応えを私はこの手に感じた。


「みんな……大好き……」


 不意に頬をつたう涙。それはやり遂げた達成感からか、それともみんなと分かり合えた嬉しさからか。

 いずれにせよそれは勘違いだったようで、そのあと私はえらい目にあった。具体的にはクラスのみんなに頬を引っ叩かれるとか取り押さえられるとかして、そのまま職員室にしょっ引かれた。各方面からものすごい勢いで怒られて、あの小型犬みたいな谷川ちゃんさえ、

「こんな計画と知ってたらうちは手伝いませんでした」

 とか真顔で私を捨てる始末で、どうやら私は本当にドン引きされるレベルのテロをやらかしてしまったらしい——と、そう理解するのに十どころか二十三十の説明と説教を要した。


 ——アチャー、やっちった。テヘッ☆


 と、そう思うことにした。

 だって、過ぎたことをいくら悔いても仕方ないから——と、そんな自分本位な考えができる自分に私は驚く。考えられない。少し前までの私なら、いつまでもウジウジ悔やみ続けていたはずだ。


 ——ああ。

 どうしてだろう? 軽い。体が、心が、人の命が。未だかつて、こんな軽やかな気持ちで、学校の廊下を歩いたことがあっただろうか?

 もう何も怖くない。人間、いっぺんやるだけやっちまえばもう怖いものなんて、なんにも無くなるんだって心の底から思った。


 ずっと、一方的に逆恨みしていた姫路くん。申し訳ない。彼には胸いっぱいの謝罪の念と、その何百何千倍もの感謝がある。彼のおしりから聖剣が吐き出されたのと一緒に、私は本当に生まれたのだ。つまり姫路くんは私の母になってくれた男だ。感謝しかない。彼のことを女に、そしてママにまでしてしまった責任は、一応私に可能な範囲でなら取るつもりでいる。


 賢者は一を聞いて十を知る。経験よりも歴史に学び、そして悟りの時間を穏やかに過ごす。


 図書室の窓、そこから見上げる五月の空。

 どこまでも果てなく続く青に、私は澄み切った心で思う。


 みんな。

 産んでくれて、愛してくれて、ありがとう。


 ——ハッピーバースデイ、私。




〈ハッピー・バースデイ、あるいは母の日おめでとう 了〉




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハッピー・バースデイ、あるいは母の日おめでとう 和田島イサキ @wdzm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ