第9話:思い出せない人

──ぱん、ぱん。

遠くで太鼓の音が鳴っていた。


提灯の明かりが揺れる夜の神社。

郁桜は屋台の金魚に夢中になるあまり、繋いでいたはずの手が離れてしまっていた。


「……おかあさん? ……りお?」


不安が胸を締めつける。

母がそばにいないだけじゃない。いつも一緒にいる“片割れ”の気配が…どこにもない。


周りには笑いさざめく人々の影。

郁桜はきょろきょろと辺りを見回しながら、人混みの中をふらふらと歩いていた。どれくらい、経っただろうか。

気づけば人の気配がない、ひっそりとした参道に迷い込んでいた。


「……ここ、どこ……?」

祭囃子もざわめきも、いつの間にか聞こえなくなっている。

蛙の声さえ、今はもうない。まるで音そのものが消えてしまったようだった。


「うぅ……おかあさ……りお……どこ……」

胸の奥に広がるのは、言葉にできない怖さ。

それでも、郁桜は小さな足で、母と片割れを探し続けた。


──そのとき。


「……だめ、こっちに来ちゃ……」


不意に声がした。

振り向くと、少し年上のお兄ちゃんが立っていた。優しそうな顔をしていたけれど、どこか苦しげにゆがんでいる。


「お兄ちゃん……どこか、いたいの?」


郁桜は涙を忘れて、心配そうに尋ねた。

すると彼は額の汗をぬぐい、首を横に振って微笑んだ。


「大丈夫だよ。お兄ちゃんはケガしてない。──でも、ここは危ない場所なんだ。だからここにいちゃいけない。……後ろ、見てごらん。」


郁桜は言われた通りに後ろを向いた。

遠くに、ほんの少しだけ光が差している。


「あの光が見える?」

「うん、見えるよ!」

「よかった。その光の先に、君の家族がいる。そこまで走れる?」

「走れるよ! でも……お兄ちゃんは?」

郁桜が不安そうに見上げると、お兄ちゃんは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにやわらかく微笑んだ。


「大丈夫。用事が終わったら、ちゃんと帰るから」

その言葉に安心した郁桜は、うん、と頷き、くるりと踵を返して走り出そうとした。


──その瞬間。


ぞわり、と背中に悪寒が走った。


『……やっと見つけた。かぐやの魂……』

それは声というより、頭に直接響くような、禍々しい“音”だった。

黒い“手”のようなものが、どこからともなく郁桜へ伸びてくる。


──怖い。声が出ない。足が動かない。


「危ない!」

鋭い声が飛んだ、次の瞬間。


何かが郁桜を抱きしめた。

ぐいっと強く、けれどあたたかく。胸元に顔をうずめるようにして、その腕の中にすっぽりと包まれる。


「っ……うぅ!」

頭の上で、痛みに耐えるような低いうめき声。

郁桜がそろりと目を開けると、そこには顔をしかめたお兄ちゃんの姿があった。


背中に黒い影がまとわりついている。

けれど彼は、郁桜を胸にしっかりと抱きしめたまま、微笑んで言った。


「ぐっ……だ、大丈夫だから。怖くないよ。だから、目を閉じてて。」


震える声。けれど確かに優しい声。


郁桜はこくりと頷き、再び目を閉じた。

腕の中のぬくもりを頼りに、ただ祈るように、静かに身をゆだねた。

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