第6話 微熱
その朝の空気は、少し湿っていて重たかった。
玄関を開けた瞬間、目の前に立つ綾瀬の顔色が、やけに白く見えた。
「……おはよう。」
か細く、それでいてどこか張り詰めた声。
いつもなら控えめでも透き通って聞こえるその声が、今日は妙に空虚に感じた。
「……おい、どうしたんだよ。その顔。」
自分でも驚くほど低く出た声。
心配を隠す余裕もなかった。
綾瀬は小さく笑ってみせる。でもその口元はすぐに震えた。
「だいじょうぶ……だから。」
そう言った矢先に、綾瀬は小さくふらつき、俺の肩に寄りかかった。
(……やっぱり。大丈夫なんかじゃない。)
そっと体を支えると、その身体は驚くほど軽くて、触れた腕からは微かな熱が伝わってくる。
「ほら、いいから。今日は、休め。」
「……でも……学校……」
か細い声が聞こえたけれど、俺はそのまま彼女を自分の部屋へと連れて行った。
ベッドに寝かせると、綾瀬は最初こそ遠慮がちに身を起こそうとしたが、
「……頼むから。今は寝てろよ。」
そう小さく呟くと、諦めたように布団へ沈んだ。
少しだけ寂しそうに見えたその横顔に、胸の奥がじんと痛んだ。
掛け布団をそっと整え、髪を撫でてやる。
「……じゃあ、行ってくる。またすぐ戻るから。」
自分でも驚くほど小さな声だった。
ドアを閉める直前に見た綾瀬の表情は、少し苦しそうで、少し泣きそうだった。
冷たい風が吹き抜ける朝の道を、俺はただ無意識に歩いていた。
(あいつ、ちゃんと寝てるかな……)
無理やり布団に押し込んで、部屋を出てきた自分を何度責めただろう。
あの少し寂しそうに目を逸らした綾瀬の顔が、頭の奥で繰り返し浮かんでは消える。
学校へ着くと、いつものように教室はうるさかった。
田中がくだらないことを言って結月が大げさに笑い飛ばす。
別のグループの女子たちもキャーキャーと楽しそうに話している。
なのに。
その声はどれも、やけに薄っぺらく耳に届いた。
まるでビニール越しに聞いているみたいに軽くて、実体がなかった。
隣の席を見た。
そこには誰もいない。
机も椅子も静かにそこにあるだけで、何の気配もない。
胸の中がスカスカになった。
(俺のせいかもしれないのに……こんなとこで、何やってんだよ……)
昼休み。
田中が「おい湊ー、弁当食おうぜ」って声をかけてきた。
けれどその声すら、どこか紙みたいに薄くて、軽くて、頭の奥に届かない。
「あぁ……今いいや。」
口元だけで笑って見せると、田中はちょっと困ったように笑って「そっか」とだけ言った。
それすらも、遠くで起きてることみたいだった。
机に突っ伏しながら、何度も何度も視線だけ隣に向けた。
ノートも筆箱も置かれない、その机。
少しだけホコリが光に浮かんで、それがまたやけに白く冷たく見えた。
(音も、匂いも、色も……全部、薄っぺらいな。)
放課後。
教室を出るころには、胸の奥がずっと変なふうに空洞だった。
いつもの帰り道も、今日はやけに長く感じた。
沈んだ雲が遠くに垂れ込めていて、気温はじっとりと肌に張りつくように重たい。
そのくせ、胸の中は氷を詰め込まれたみたいに冷たかった。
(……なにやってんだ、俺。)
自分が選んだことなのに、ひどく後悔していた。
家に着いて、靴を脱ぎ、ドアを閉める音が部屋に反響する。
それだけで、やけに広く感じた。
(いつも通り、誰もいない家。なのに……今日は、やけに、)
寂しい。
その理由は分かっていた。
玄関の壁にかけてある、綾瀬からもらったあの傘。
それが視界に入った瞬間、胸がチクリと痛んだ。
(……俺が、あいつを無理させたんじゃないか。)
何かを誤魔化すように、リビングに置いた鞄を放り投げてソファに倒れ込む。
けれど頭の奥では、ずっと隣の部屋のことばかり考えていた。
(……ちゃんと寝てんのか。起きて、また熱出して苦しんでるんじゃ……)
どんなに視線を逸らしても、心は勝手に綾瀬のことを追いかける。
息を吐くたびに胸の奥がざわざわして、落ち着かない。
我慢しきれなくなって、体を起こした。
(……ちょっと様子を見るだけ。顔を、少し見るだけだから。)
自分に言い訳するように心の中で呟きながら、いつの間にかドアノブを握っていた。
そっとドアを開けると、部屋の空気は少し重たくて、湿っていた。
カーテン越しに落ちる柔らかな光の中、ベッドに横たわる綾瀬が小さく呼吸を繰り返している。
(ちゃんと……寝てるよな。)
そっと近づき、布団の上から額に手を当てる。
熱はまだ高い。けれど、さっき見たときよりは少しだけ落ち着いているように思えた。
ホッと胸を撫で下ろした瞬間――
「……いや、いやだ……やめて……」
小さく、苦しそうな寝言がこぼれた。
眉を寄せ、細い指先が寂しそうにシーツをぎゅっと掴んでいる。
「……いかないで……誰も……いなくならないで……」
その声を聞いた途端、胸が強く締めつけられた。
(俺……こんなにも、あいつに……)
昼間、学校で感じていた空っぽの声や色が、一気に押し寄せてきた。
全部、この部屋、このベッドの上に繋がっていたんだ。
そっと綾瀬の手を握る。
冷たい手が、かすかに動いて指を絡めてくる。
弱々しくても、それは確かにそこにある温もりだった。
「……いるよ。どこにも、いかないから。」
自分でも驚くほど小さく、でもはっきりと言葉が零れた。
綾瀬はそれに応えるように、少しだけ表情を和らげて、また静かな寝息に戻る。
(誰も……いなくならないでほしい。)
それは願いなのか、誓いなのか自分でもよくわからなかった。
ただ、今この瞬間だけは確かにここにいて、誰もいなくならないことを必死に祈るように思いながら、
俺はそっと、その手を離さずにいた。
僕たちは何度でも @Maz1ka
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