第3話 すれ違いの予感

カーテンの隙間から差し込む朝日が、頬に柔らかく触れる。

まぶしさに目を細めながら、俺はようやく意識を浮上させた。

夢を見ていたような気がする。誰かの声がして、誰かの笑い声がして ーーけれど、目が覚めた瞬間、それは霧のように薄れていった。


 「……もう朝か。」


小さくつぶやいて立ち上がる。軽く伸びをしながら時計を見ると時計はいつも通り:を示していた。変わらない毎日。繰り返されるだけの時間。

でも、胸の奥がほんの少しざわつくのは、きっと——

玄関の壁にたてかけているこの傘のせいだろう。

彼女が差し出したこの傘の温もりが僕の心の何かに触れた気がした。

ぼんやりとしたその感覚を振り払うように制服の裾に腕を通す。

そして鞄を手に取り、いつも通り誰もいない家に向かって ひとこと。


「いってきます」


扉を閉め、鍵をかけ、学校へと歩き出した。

道はいつも通り静かだった。

空は少しかすんだような青で、昨夜の雨の名残がアスファルトに薄く滲んでいる。

気温は低くないけれど、どこか肌にひんやりとした風が当たる旅、季節が確かに移ろっていることを実感させられた。

交差点で信号を待っていると、ランドセルを背負った小学生の男女が手をつないで通り過ぎて行った。

楽しそうに笑い合う声が、どこか遠くの出来事のように響く。

 自分も昔は、ああして誰かと歩いていたのだろうか。……そんな記憶は曖昧だ。

 校門をくぐると、校舎から流れてくるざわめきに包まれる。

 いつもの景色。いつもの空気。

 だけど――今日の空気は、少しだけ違って感じられた。

 教室の扉を開ける。

 視線は自然と、教室の奥、窓際の席へと向かう。

 彼女がいた。

 教科書を開きながら、前髪の先に視線を落としている。耳にはイヤホン。小さく首を揺らしていて、きっと何か音楽を聴いているのだろう。

 ……その姿が、妙に目を引いた。


 「おはよう」


 意識せず、言葉がこぼれた。

 彼女がこちらに顔を向け、イヤホンを外す。目が合った。

 その一瞬だけ、ほんの一瞬だけ――心臓が跳ねた。

 

「……おはよう、ございます」


 少しだけ早口でそう言うと、彼女は視線をすぐに逸らして、頬をかすかに赤らめた。


 「おー、なんだなんだ。急接近でもしたか?」


 隣の席の友人がニヤニヤと肘でつついてくる。

 「あー……いや、別に」と適当に笑って返すけど、心の中では全然“別に”なんかじゃなかった。

 机の上の教科書を開く指先が、少しだけ震えていたのは、きっと気のせいじゃない。

授業が始まっても、どうも集中できなかった。

 黒板に書かれる文字が、まるで遠い国の言葉みたいに感じられる。ノートを取ろうとしても、ペン先が妙にぎこちない。隣の彼女が静かにシャーペンを走らせる音だけが、やけに耳についた。

 ――あの傘のこと、言わなきゃな。

 それに、ちゃんとお礼も。

 でも、話しかけるタイミングがわからない。休み時間になれば彼女はすぐに席を立ってしまうし、授業中はもちろん無理だ。結局、何も言えないまま、時間だけが過ぎていく。

 昼休み。

 いつものように机を並べて昼食を取っていると、友人が唐突に俺の顔を覗き込んできた。


 「おいおい、最近ちょっとニヤけてんじゃねぇの?」


 「は? してねぇよ」


 「いや〜、なんか“気になる子がいる男の顔”って感じするぜ。なあ?」


 もう一人の友人もうんうんと頷いて、無遠慮に肘で突いてくる。

 いつもなら適当に流せるのに、今日ばかりはやけに心がざわついてしまった。

 ……バレてないよな。あの傘のこととか。

 っていうか、俺、そんな顔してたか?


 「ほら、またニヤけた」


 「うるせぇよ……」


 その場をなんとかごまかしながらも、気づけばまた視線は窓際の席へ向かっていた。

 彼女は、相変わらず真面目にノートを取っていた。時折、眉をひそめる仕草すらも、どこか目が離せなかった。


 チャイムが鳴ったあと空はオレンジがかり始め、校舎の窓に夕焼けがにじみはじめていた。教室の空気はどこか気だるく、生徒たちは次々と荷物をまとめて帰っていく。

俺はまだ、机に突っ伏していた。

目の前のカバンの中、玄関から持ってきた傘の柄がちらりと見える。

(……結局、今日も渡せなかったな)

傘を返す機会は、何度かあったはずだった。

でも、綾瀬夕陽の姿を見るたびに、なんだか胸の奥がざわついて、うまく言葉が出てこなかった。

タイミングを失ったまま、傘はずっと俺の手元にあった。


「……ん?」


ふと廊下の窓から外を見ると、掲示板の前で綾瀬が何かしているのが見えた。

プリントを数枚持って、壁に貼り付けようとしている。けれど、なかなか上手くいかないようで、手間取っている様子だった。

気がつけば、俺は教室を出ていた。


「おーい、綾瀬」


「え……月島くん?」


彼女が驚いたようにこちらを向く。夕焼けに染まるその頬は、ほんの少し赤く見えた。


「何してるんだ? それ、先生に頼まれたやつ?」


「うん……今日の放課後に掲示しといてって言われて。椅子取ってくるのも面倒で……ちょっと背伸びしてがんばってた」


「なら、手伝うよ。俺、身長だけはあるからな」


冗談めかしてそう言うと、綾瀬は一瞬ぽかんとしたあと、くすっと笑った。


「……じゃあ、お願いしてもいい?」


「任せとけって」


プリントを受け取って、手早くテープで貼り付けていく。彼女が足元で微調整を伝えてくれる。

しばらくそんな時間が続いたあと、全て貼り終えたタイミングで彼女が小さくつぶやいた。


「……ありがとう、月島くん。助かった」


「どういたしまして」


肩をすくめて笑うと、彼女もふっと微笑んだ。

その横顔は、夕日に照らされて、なんとなく儚く見えた。


「あ、そうだ」


と、俺が口を開いた。


「傘……実はまだ、返せてなくてさ。タイミング逃してるうちに、なんか今さらみたいな感じになってた」


「ふふ、それなら――」


彼女は少し迷って、でも意を決したように言った。


「うち、マンションの●階。よかったら、今から返してくれてもいいよ?」


「え、それって……」


俺が目を見開くと、彼女はふいっと顔を背けた。


「べ、別に、そういう意味じゃなくて。家にいるってだけ。変な意味じゃないよ?」


「わ、わかってるって」


返事をしながら、胸の奥で何かがちり、と小さく鳴った。

それは、たぶん……傘の温もりとは、また別の感情だった。


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