眠らざる者 〜究極の愛の果てに〜

鳶城 秀次

プロローグ


薄曇りの空が、古びた三階建てアパートの外壁を鈍く照らしていた。


その通りに、赤と青の光が無機質に明滅している。パトカー、救急車、そして肩をすぼめたように立つ管理会社の担当者と、怪訝な顔の大家。この部屋の住人は、家賃を二ヶ月滞納していた。チャイムも電話も応答なし。


数時間前、様子を見に尋ねた管理会社の担当者が、ドアの前で立ち止まった。キッチン脇の換気扇から、共用通路にまで漂いだしていた異様な臭い――。


尿とカビ、腐敗した食べ物が混ざったような不快な空気に、何かがおかしいと直感した。それが、通報のきっかけだった。


302号室のドアは、警察官立ち会いのもとで開錠された。

開けた瞬間、押し出されるように濁った空気が流れ出し、大家が顔をしかめて一歩引いた。


寝室の奥。カーテンが閉められた薄暗い部屋。

そのベッドには、若い男女が寄り添うように横たわっていた。


男はなにやらゴーグルを装着し、腕には点滴チューブが刺さったまま。カーテンレールから吊るされた点滴バッグはすでに空。下半身には排泄の痕跡があり、シーツには何度も繰り返したであろう尿のシミ。


全身は干からびたようにやせ細り、唇は青く乾いていて、皮膚は鈍く冷たい色を帯びている。


だが――その口元には、無表情でありながらもどこか満ち足りたような、仮面のような静けさが残されていた。


女は、その隣でまるで『別の世界』の存在のように、骨ばって痩せ細ってはいるがそれでも美しく、その横の『物』とは違い、明らかに安らかな微笑みの表情で寄り添うように横たわっていた。


髪は乱れず、まるで眠っているように、今にもその純粋でその穢(けが)れの無い瞳を開きそうに感じさせた。


その体を包んでいるのは、男のものであろう、サイズの合っていないティシャツ。その裾からは、すらりと伸びた白い脚が覗いている。艶を失っていながらもどこか艶(なまめ)かしく、静けさの中でわずかに露出した肌が、生きていた頃のぬくもりや、愛の痕跡を物語っているようにも見えた。


その横の『物』の状況から推測すれば、こちらの『物』ももう手遅れであろうことは、誰の目にも明らかだった。


「……共倒れか……あるいは、看病の果てか……」


巡査長の佐原が眉間に皺を刻んで言った。若い巡査の片瀬が、男の装着しているゴーグルに目をとめる


「これ……たぶん最近、問題になってるやつっすね。仮想空間への没入が深すぎて、現実との境界が曖昧になるって……他人や散歩中の犬を攻撃したり、自分を傷つけたりする奴も増えてるらしいです」


片瀬の言葉と呼応するかのように、男のゴーグル前面のディスプレイが、ゆっくりと点滅している。


【ログイン中】――その文字が、まるで呼吸をしているかのように、静かに明滅していた。


「……なんだこれ……生きてるみたいに……」


佐原が訝しげに顔を近づけたその時、『物』だと思っていた男の胸がわずかに上下した。


「……っ!? おい、今、息したぞ!」


佐原が即座にゴーグルをずらし、顔をのぞき込む。男が微かに咳き込む。喉の奥から、乾いた、掠れた音。


「生きてる! 救急隊! 至急こっち! 点滴、酸素も!」


静まりかえっていた302号室に、再び騒然とした気配が流れ込んだ。

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