第2話:いまだその名は知らない
夜明け前の空は、墨を薄めたような蒼に染まっていた。
白く霞む息を吐きながら、ヴィクトールは回廊を歩いていく。揺れる灯火の下、衛兵たちの姿もなく、時を止めたように静まり返っていた。
足音は吸い込まれるように石の床に消え、誰もいないはずの空間に、彼の思考だけが満ちていた。
少年が目を覚ましたという報せを受けたのは、ほんの数分前だった。彼の状態を己の目で確認する為に与えた部屋へ向かわなければならない。侍従に任せれば事足りると言えばそうなのだが、ヴィぅトールにとって義務のようなものだと考えていた。
だが、今の彼の足取りは、迷っている者のそれに近い。
思い返せば、手の中で熱を持ったあの小さな掌の感触が、未だに離れない。貴族の令嬢のように柔らかな、剣など一度も握ったことの無かろう掌。それが驚くほどの熱を持っていた。そして刻まれていた、あの印。
──聖痕。
それが意味することを、ヴィクトールは誰よりもよく知っていた。
招かれるべき『聖女』。その字が示すように、百年に一度帝国に栄をもたらしてきたのは、麗しき乙女たちであった。彼女たちはほぼ漏れなく時の皇帝の妃となっている。直近の百年前――先代と呼ばれる者もまた、いとけない少女であったという。彼女も後の皇帝となった皇子の妃となった。ヴィクトールたちの曾祖母にあたる存在であり、現在の帝室は数代に一度『聖女』を血統に取り込むことでその神性を証明してみせてきた。しかし当代――現れた者は。
「……少年、だった」
我知らず声が漏れる。
線は細く、黒目がちの瞳は大きい。けれど間違えようもなく、招かれたその人は少女などではなかった。
「だが、あれは……聖痕で間違いない」
それは、選ばれし者の証だ。性別も、年齢も、国も越えて。
選ばれて、しまった。
あの場で言葉を飲み込んだ者は少なくなかった。
そして、彼自身もまた。
けれど、彼が『聖女』と呼ばれるには、あまりにも……。
立ち止まり、夜明け前の空を見上げる。
どこか遠くで鳥が鳴いた。世界が目を覚ます音だった。
「……名を、訊いていなかったな」
その事実が、なぜか胸にわだかまりとなって残る。あの状況でそれは難しいという考えはなかった。怯えと戸惑いが滲む瞳が、自分を見上げていたことを思い出す。
刻まれた花の名すら恐らく知らないまま眠り続ける少年。刻まれた花の名で、彼は呼ばれるのだろうか。ルクシア(暁の花)と。
すでにこの事実は宮廷内に広がりつつある。人の口に戸は建てられない。そこに身分や立場は関係ない。もとより、聖女召喚は国の大事。注目が集まるのは致し方ない。まして、第一皇子を喪ったばかりの今の状況を鑑みれば。
そして一部の人間からは、彼を彼女として扱うべきではないかとの意見が出始めている。挿げ替えようとする者たちよりも、それの方がまだ人道的だということがヴィクトールの足を鈍らせる。
「ルクシア」
仮初の名で彼を呼ぶ。
彼の名を知らなかったことが、今さらながらに胸が痛んだ。
***
呼ばれた気がした。
誰にだなんて知らないけれど。
「…………」
重い瞼を持ち上げる。何かひどい夢を見ていた気がする。ぼんやりと腕を伸ばすと、冷たいシーツの感触がする。妙にベットが広い。違和感に、香澄は知らず知らず顔を顰めた。寝起きの、というだけでは説明がつかないひどい倦怠感。
「う……」
思わず呻いた香澄の耳に、陶器が割れる派手な音が聞こえた。
「せッ、聖女様!?」
悲鳴のような叫び声。『聖女』という単語に香澄の意識は半ば無理やり覚醒する。ひどい夢だと思った光景。掌に走った痛み。跳ね起きた途端、眩暈に襲われて、香澄は膝に顔を埋めた。
「大丈夫ですか!?急に起き上がられてはなりません!」
軽い足音と共に駆け寄ってきた声の主が、香澄へ手を伸ばす。びくりと肩を揺らして、咄嗟にぺちんと手を叩き落として、香澄は身体を引いた。
「も、申し訳ございません。ルクシアの君……」
「あ、あの、俺……」
慌てて手を引っ込めたのは、香澄より少し年下と思われる少女だった。その顔は青ざめ、すっかり眉が下がっている。負けず劣らず青い顔をしていたが、そんなことに気付いていない香澄は力の入らないままの身体でベットからはい出した。
「申し訳ございません!」
今にもひれ伏さんばかりの勢いで、少女は頭を下げる。
「え、ちょ……顔を上げてください!」
香澄も慌てて少女に近付く。
「謝らないで。君は悪くないんだから」
「勿体ないお言葉です。ルクシアの君」
「その、ルクシアの君って俺のこと?」
戸惑いを滲ませる香澄に、少女は勢いよく頷いた。
「暁の聖女様の文様は、ルクシアの花だと伺いましたから!」
「ルクシア……」
文様という言葉に思い当たるものはひとつ。香澄は右手をそっと開いた。
「それってこれのこと?」
「せ、聖痕をわたくしになど見せてはなりませんよ!」
「これ、そんなにすごいものなの?」
「はい!」と少女が頷く。それが当然だと言わんばかりだ。
「それこそ、御君が聖女様であられる証でございます」
「聖女……」
幾度となく聞いた単語だ。しかし。
「あのさ、それって何かの間違いじゃないのかな。聖女っていうからには女の人なんじゃない?俺は男だし」
少女は首を振る。
「とんでもございません。聖女様は天界よりおいでになり、御身のいずれかに聖痕が現れる――この国の民なら誰もが知ることです」
「絶対に間違いじゃ……」
「間違いではございません。聖女様は皇帝となられるお方のお妃様となり、この国を導いてくださるお方なのですもの」
「お妃……って……は!?」
衝撃的なその言葉によろめく香澄に、少女は慌てて椅子を運んだ。
「お妃って、その、奥さんってことだよね?」
自分でも間抜けなことを尋ねている気はしている。けれど聞かずにはいられない。
香澄の知識は現代日本のそれで、プリンスプリンセスなど幼い頃に読み聞かせてもらった絵本の中の住人でしかない。しかし知識としては当然知っているわけで。
「俺、男なんだけど!?」
悲鳴のような香澄の声に、けれど少女はにこにこと笑った。そばかすの散った頬が可愛らしかった。
「それでも聖女様です」
信じて疑わない、まっすぐな視線が、自分に向けられている。逃げられない状況であると悟るまでに時間は掛からなかった。
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