5. Kimi Ga Hoshii

 この日は外へ出るにはうってつけの快晴だからか、「偏西風」にも、珍しく島外から来たであろう観光客らしき若い男女が訪れた。

 二人はそれぞれアイス珈琲とアイスココアを飲んでいき、会計を済ませて店を後にした。

 テーブルの上に残されたコップが、日差しをきらきらと散らしていた。風が通り抜けて、木製のドアを微かに押して、ぎし、と静かに音を立てた。

 ドアの音の先には優ちゃんがいた。トレードマークともいえる黒のキャスケット、それにに白いTシャツといつものショートパンツという服装はもう見慣れたものだ。


「お~っす」


 どかっ、と、いつものように、いつもの中央のカウンター席に座る優ちゃん。

 昨日も優ちゃんを見たばかりだった気がするくらいだ。それぐらい優ちゃんはこの店を気に入っているようで、何度も来てくれる。


「ねえ白雪さん、あのお客さんたちに、どんな話したの?」

「お話はしてないわ。あの二人、テーブル席だったもの」

「……あ、そういうことね。私ら島民にとっちゃ当たり前だけど、外から来た人には分からないかもね」


 私の珈琲店に来る常連さんと私の間には、一つの共通認識がある。

 テーブル席に座ることは「私に干渉しないで」という静かな意思表示なのだ。だから私は、テーブル席のお客さんに物語は語らない。


 私が語るのは、カウンター席に座ったお客さんに対してだけだ。

 声をかけてほしいとまでは言わないけれど、こちらに背中を向けずにいてくれる人。


 その気配があれば、手が空いている限り、物語を一つ、そっと差し出す。

 寒い夜に、湯気の立つカップをそっと差し出すように。


 もう一つ言うと、仮にお客さんが多くて忙しくなりそうな時も、寓話は語らないと決めている。普通の珈琲店として、丁寧にもてなしたいからだ。


 寓話はあくまでついでに語るものだ。語らなかったら語らなかったで別にいい。だからお店の入り口にも特に寓話については書いていない。


 それが私とお客さんとの、静かに定まった適切な距離だと思っている。

 付かず離れずの惑星と衛星のような。

 言葉や物語が、密やかに引き寄せたり、放したりするような。

 

「こんにちはー」


 今日は珍しく、よくお客さんが来る。見慣れた黒のベリーショートと、私をゆうに超す長身、白の短パンに黒のTシャツという涼しげでラフな出で立ちですぐに分かった。優ちゃんが働く工場の同僚、早川稲生はやかわいのうくんだ。


「あら、早川くんもいらっしゃい」

「……うっす」


 早川くんは軽く会釈した。しかしそんな彼を見るなり、優ちゃんは苦い珈琲を飲んだような顔付きになった。


「げ、早川……。何でここに……」

「俺も今日休みだから」

「休みの時ぐらい一人にさせてよ~」

「別にいいじゃん」


 そう言って早川くんは優ちゃんの席の二つ右隣に座った。


「じゃあお二人さん、注文は何?」

「私、カフェオレ~」

「じゃあ俺はオレンジジュースで」

「子どもか!」

「お前に言われたくねえよ」


 そんな二人のやり取りを見て、本当に仲が良いんだ、と少し羨ましくも思う。


「カフェオレとオレンジジュースね、分かったわ。じゃあ今日のお話は……」


 ふと魔が差した、というか、私の中のいたずら心がうずいた。今日は珈琲の湯気が立ち上るような、少しだけ「熱い」話をしてみよう。


「『Kimi Ga Hoshiiきみがほしい』、っていうお話なんて、どう?」

「……まさか、恋愛もの?」

「たまには、いいじゃない」


 優ちゃんは一瞬、ぽかん、としていたが、無言のままやがてのけ反って両手で口を隠し、あからさまに動揺してゆく。

 対する早川くんはポーカーフェイスなのか、眉一つ動かさない。


「いいじゃん、それで。ってか、恋愛ものって決まったわけじゃないだろ」

「だ、だったらいいけど」


 二人の間に微妙な空気が流れたのをよそに、一つ呼吸をする。

 では、どうぞ――と寓話の世界へと誘う。




 ――お互いがただの高校生だった冬の日、それまで同じ小学校や中学校に通っていたように、何気なく一緒だったから何とも思わなかったけど、君が遠い所へ行くと知ってから、なぜだか風がより一層肌寒く感じた。後にそれが「寂しさ」だと知った。


 翌年の春、君と別れる日が来た。吹き荒ぶ春疾風が、ただの桜を猛吹雪のように激しく踊らせる。日差しは温かいはずだが、それを温かいと感じ取れず、私の体温は灼熱のようで極寒のようにも思えた。

 私は君に近付こうとして、躊躇って、結局は風に流されるまま、邪魔されて、遠ざかってしまった。それが「無力さ」だと知った。




 そのまま退屈な高校を卒業し、流れのまま大学生となった。ほぼ毎日乗る電車の窓には、冴えない自分の顔が映り続けた。時折訪れる男の誘いも全て断り、つまらない女だと噂されたこともあっただろう。そして無難な研究課題で卒業論文を書いて大学を卒業した。


 もう二十五歳になっていた。社会人三年目になって、まるでかつての青春全部を無為に浪費した気がした。いやそもそも、青春なんて存在しなかった。残業帰りの道に吹く空っ風は「虚しさ」だった。


「……あれ?」


 今日は運も良くない。家の鍵を失くしてしまった。思い切り上司に叱られてへこんでいた影響か、注意力が散漫になっていたようだ。

 辺りを探すが、暗い夜道では探しにくい。もしかしたら駅の方で落としたのかもしれないと、来た道を戻る。


 こんな日に限って夜風はなお寒く感じ、春という季節にいる意識を薄めてゆく。

 鍵は見つからない。そうなると明日までこのだだっ広い世界に閉じ込められる。


 いや、このだだっ広い世界も、あの会社という更に狭い世界も、私を閉じ込めるだけの箱だ。もし私が幽体離脱でもしたら、この世界の外――本当の世界を見れるのだろうか。


 そう考えたら、もう死ぬまで家に帰らないでいいとも思った。数日後、何らかの事件に巻き込まれたというようなニュースを空の上で見ていよう。


「あの、何かお探しですか?」


 恐らく挙動不審に思われたのだろう。親切心からだろうけど、その声は男性のものだったので少し怖く感じた。


「い、いえ、何も……いえ」


 言葉まで挙動不審になりつつも、ここは何とか言葉を絞り出して、正直に話すことにした。


「いえ、家の鍵を……探して、ます」


 するとその男性から、思いも寄らないことを言われた。


「……もしかして、高校の時一緒だった、若田遥わかたはるかさん?」

「え、木戸君? 木戸義晴きどよしはる君……何で?」

「ええ、こんなところで……偶然ですね」


 あまりに出来過ぎた偶然の、陳腐極まりない三流ドラマだ。こんな場所で七年ぶりに君と出会うなんて。

 その顔に面影を感じると同時に、安堵が少しだけ浮かんでくる。


「なんか、信じられない」

「そうだね。高校以来、かな」


 しばらく二人は沈黙した。そして何か言おうとしたら、言うに事欠いて、自分でも驚くようなことを口走ってしまった。


「こんなところで言うのもなんだけど、私、木戸君のことが、好きだったの」


 まるで嘘のようにも聞こえるその言葉は、寒さの中にふわっと熱を持って漂って、すぐ風にかき消えた。

 だけど、ようやく吐き出せた気がした。あの日から止まっていた時計の針が、ゆっくりと動き出した気がした。


 木戸君は一瞬驚いて、すぐ平静を装うも、その顔は動揺を隠しきれていない。

 彼はどの言葉なら私を傷付けずに済むかで悩んでいるようだ。そう、木戸君はそういう気遣いができる人だ。その沈黙の長さに、彼も私と同じ時間をずっと抱えていたのだと知った。


 だけどここで何もせず立ち去ったら、これから先の時間もまた変わらず退屈になるだろう。それならせめてこの言葉を投げつけてやろうと思った。


「今夜、家に帰れないの」


 木戸君は少し戸惑ったのか、何も言うことはなく、悩んでいるみたいだ。

 だけどそんな沈黙を甘んじて受け入れるほど、私は大人ではなかった。私はこの言葉を、彼を狡猾に追い込むナイフとして手に取った。ここまで来るともう引っ込みはつかない。


「木戸君の家って、どこ?」

「え? どうして……」

「今日は、いいでしょう……?」


 少し風が動いた。逃げ場のない夜気の中で、私はようやく自分の孤独に形を与えた。

 木戸君と別れたあの日と同じ春だというのに、彼の吐く息が白くなっているように見えて、それは沈黙の中に混ざって消えた。




 木戸君はとうとう諦めたのか、私を家へと招いてくれた。

 そして彼のマンションに上がり込み、部屋に入るなり私はソファに腰を下ろす。

 木戸君が用意してくれた温かいミルクの湯気は、二人の沈黙を埋め合わせるように部屋に漂い、曖昧な距離を溶かしていく。


 湯気の向こうで木戸君は少し微笑んだ。その笑みを見た瞬間、私の胸の奥で何かがほどけていった。

 正しさも間違いも、どちらでもいい。ただ、この時間だけは確かに存在する。


 木戸君はまた何かを言おうとして、やめた。その沈黙の中に彼の時計があって、その時計の針もまた、秒針を一つずつ刻む――そんな音が聴こえるみたいだった。そして私たちは無言で、その秒針の音に寄り添っていた。

 

「ねえ、相手してくれる?」

「……無理だよ」


 私は立ち上がって木戸君に近付き、座ったままの彼に切実に懇願した。


「一生のお願いだから」

「一生のお願いなんて、そう簡単に使うものじゃないよ」

「でも本当に、一生だから……明日死んでも構わないもの」


 木戸君は躊躇っていたが、やがて立ち上がって、観念したように私の腰辺りにそっと手を伸ばす。


「じゃあ僕も、一生のお願いだ」


 壊れ物を抱き抱えるように、優しく。木戸君のその絹を撫でるような優しさは普遍的で、言い換えれば当たり障りがなく、誰のことも特別扱いはしない。それは「愛の前では誰もが平等」という、嘘くさくも真理を突いた哲学を体現していた。そう、私はそんな哲学に抱かれたいと思っていたのだ。


 そしてそのままそよ風に押されるように、ゆるりとシングルベッドの上へと倒れ込んだ。


 ああ神様、今宵は世界の命運を私に委ねてほしい。

 桜の「純潔」という花言葉を盛大に裏切らせてほしい。

 まるで獲物を狙う猛禽のように愛したい。

 そして何より、君が欲しい。




 ――ここで物語はお終い。潮の香りや、焙煎豆の香りといった現実の空気が流れ込んでくる。


「……ま、まあ、人によっては恋愛ものにも聞こえるかもね」

「がっつり恋愛ものだったじゃん」

「何よ」


 ささっ、と優ちゃんは早川君から距離をとって、一つ左隣の席に腰を下ろした。

 そんな微笑ましいやり取りが見たかった。私の目には、この二人はまだまだ無邪気に見えてしまう。


「別に、お前は求めてないけど」

「うっさいわね、どっかの香水みたいなこと言って」


 ふふ、思惑通り。たまにはこんな遊び心があったっていいじゃない、と思う。

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