あかいくつ

朝永 優

第1話 赤いランドセル

 デパートのランドセル売り場はそれなりに混雑していた。子供を連れた両親とおぼしき家族も、祖父母に連れられた孫とおぼしき数組も棚の前で品定めをしている。棚の上の方には本革の立派な高級品が並び、下の方には合成皮革のお手頃な品物が並んでいる。ランドセルというものをはじめて近くで見たわけだが、こんなに大きくてかさばるものだというのは正直今まで考えてみたこともなかった。特に黒い色のランドセルにはほとんど威圧感のようなものすら感じる。「幼稚」という名前を冠する施設から出て、「学校」という区分の施設に入るということのある種の重み。棚の上の黒いランドセルは一種の威厳というか、厳かさのようなものを漂わせているように見えたのだ。


 母はそんなランドセルの棚の下の段の普及品の中から一つを手に取って、留め金や中の仕切りの具合、縫い目がどうなっているのかを吟味しはじめた。ぼくの意見など初めから聞くつもりもなく、聞く価値もぜんぜんないと考えているようだった。母が別のランドセルをチェックしはじめて、ぼくは少し退屈になってその棚の前をぶらぶらと歩いてみることにした。


 「買ってやる」ということで連れてこられて、実際小学校の入学に必要なものだというのは理解しているのだが、特に自分から進んで「欲しい」と望んだものでもない。だから特に興味だってなかった。機械的に棚の前を行ったり来たりしていて、ふと上段に置かれているあるランドセルが目に入った。深いルビーのような少し紫が入った赤い色のランドセルがぴかぴかと光っていた。それは以前食卓で突然鼻血を出したとき、目の前の白い皿にぽたぽたと零れ落ちてきたあの色だった。びっくりするほど美しかった。ぼくは魅入られたようにその前に立ちすくんだ。


 そこへ、ようやくおめがねと予算にかなうランドセルを選んだ母親がやってきた。「これ、ちょっと背負ってみて」と言いながら、母はぼくの視線を追った。


「こんなのはダメよ。」と母は言った。

「どうして?こんなにきれいなのに。」とぼくは言った。

「だって赤じゃない。赤のランドセルなんてあんたが持ってたらおかしいし、学校で笑われるわよ。」

「きれいなものを持っていて、なんで笑われるの?」と僕は聞いた。

「赤はね、女の子の色なの。あんたは男の子でしょ。だから赤はダメ。」

「そんなの誰が決めたの?」

「誰が決めたもなにも…… 昔からそう決まってるの!そう決まってるから決まってるの!」

「決まってるから決まってるって、ぜんぜんわかんない。ぼく、これがいいな。」

「とにかく、これは絶対ダメ。この黒いのにしなさい。いいわね。」

 ぼくは「はあい。」と不満そうな様子を口調に出すことしかできなかった。


 家に帰って母が夕食の支度をしていると、そこへ父も帰ってきた。

「お、ランドセル買ったのか。」と父が聞いた。

「うん」

 ちょっと背負って見せてくれよ、という父の言葉で、ぼくは部屋の隅に置いてあった新品のランドセルを背負い、父の前に立った。

「ちゃんと背中のほうも見せてくれ」というので、その場でぐるりと回った。

 父はぼくのなんとなく不服そうな表情に気が付いた。

「おい、どうしたんだそのふくれっつらは?」

「ぼく、黒じゃないほうがよかったな。」

「わがままを言うんじゃない。じゃあ何色がよかったんだ。」

「この子、赤いランドセルの前から離れなかったのよ。」と母が言った。

「……」

 ぼくは沈黙した。

「赤はね、怖い色なんだ。」と父が話しだした。

「一つ、お話をしてやろう。」


「昔、あるところに貧乏な一家がいました。お母さんと女の子が二人で暮らしていました。女の子は外に出るときに履いていく靴がぼろぼろで、いつも恥ずかしく思っていました。


 ある時、女の子が道を歩いていると道端にぴかぴかの赤い靴がそろって置いてありました。まるでだれかが履いてくれるのを待っているかのようでしたので、女の子はそっと自分の足を靴に入れてみました。するとどうでしょう。まるであつらえたようにぴったりなのです。女の子はうれしくなって、どこにいくのにもその赤い靴を履いていくようになりました。


 でもある日、無理がたたったのかお母さんが重い病気になり、亡くなってしまいました。女の子は近所の親切なおばあさんに引き取られましたが、お母さんのお葬式にどうしても赤い靴を履いていくといってきかないのです。お葬式で神父様がお祈りを唱えていると、女の子の足が勝手に踊りだしました。赤い靴が女の子を躍らせていたのです。そして踊りながら女の子はどんどん暗い道に迷い込んでいき、どうしても足を止めることができないのでした。道が暗い森の奥に入っていくと、あちらから木こりがやってきました。女の子は『お願い、私の足をその斧で切り落として』と頼んで足を切り落としてもらうと、両方の足だけが靴を履いたまま踊り続けてやがて森の奥へ消えていってしまいました。」


 ぼくはその話の恐ろしさにぞっとして、泣き出してしまった。


「わかるかい。赤い色は人間を惑わす怖い色なんだ。それはいろんなところでお前を待ち構えていて、とりこにしようとしているんだよ。」と父が言った。「そしてとりこになってしまったら、もう斧で足を切り落とすぐらいのことをしないと元には戻れないんだ。」


 ぼくはべそをかきながら頷くしかなかった。

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