オルト=エメルの泡沫
I
『饌は
饌は
神よ
贄は口より溢れ出でたり
饌は
饌は
神よ
贄は胃の腑に収まれり
饌は
饌は
神よ
贄はもはや血肉と穢土に』
〜《オルト=エメル創世神話》より〜
セイラス・ヴァル=セラドレル三世の親政は、正教会の解体及び国民の改宗と、数多ある多神教神殿の閉鎖から始まった。
意志と偶然を支配する神託神ヴェリド=リーヴァ。
秩序と逸脱を支配する契約神エン=アルマス。
豊穣と飢餓を支配する大地母神ソール=ネレイア。
知と忘却を支配する学問神ラーク=ゼヴェン。
守護と放逐を支配する旅の巡礼神ミア=トーラス。
生と死を支配する冥王神アイヴ=カルマ。
これらは全て根源神オルト=エメルの分化神格であり、無秩序なオルト=エメルの多様な一側面に過ぎない、というのが真教の教え説くところであった。
殊に商売の神でもあったエン=アルマス神殿は閉鎖では済まされず、全て打ち壊された。神の意志を貨幣価値に転ずるとは神意の誤謬も甚だしい、というのが真教会の言い分である。
次いで大商人と連座の粛清、解体が始まった。真教は個人の財産の私有を禁じており、全ては真教会が統制している。利に働いて神の意志を歪めるなかれ。
世界の全てが神の恵みであり、信仰がそれを平等に配分する。神への帰依は奉仕によってその信仰を証明し、恵みを得るのである。右から左へ移すだけで対価を得る様な商行為は、人の善意に付け込む悪行と目されていた。
商人や神官の多い庶民の抵抗は一通りでは無かったが、セイラスと真教会は一片たりとも妥協する事はなかった。武装し抵抗するものも戒律騎士団は跡形もなく押し潰した。
多くの庶民がロ=イゼレ国内の鉱山労働送りとされた。事実上の強制労務刑であり、単純かつ効果的な見せしめである。職人としての能力の無い庶民の多くが商売替えを余儀なくされた。
人口比で九割を超える隷民にとっては、さほど生活が変わる訳ではない。元々、エラフィアであっても隷民は人種が職能を固定化しており、これはセファ=ノア大陸のどの国家でも同じことである。
隷民は差別ではなく、厳密な生物学的区別であった。見た目は全く変わりないが、貴人、庶民、隷民は交雑不和合性を有しており、合いの子がその子を得ることは出来ない。
寒冷地の狩猟や鉱山労働に従事するグラキエ種、草原地の狩猟や交易、傭兵などに従事するザール種、農民や建築、比較的重労働に従事するネアン種、漁労や水路管理に従事するマリク種、鍛冶や鉱山労働のアルネ種、などなど。
共通する労働といえば、多くの国家は徴兵によって軍事力を支えており、兵力の殆どを隷民が担う。中には傭兵家業で戦場を渡り歩く者も少なくなかった。
肉体労働の多くは隷民によって支えられている。であるからか、生物種としての限界なのかは判らないが、隷民の多くは寿命は平均して五十年を超えることは稀である。知的労働に従事する庶民でも六十〜八十程度。
一方で、神因を有する神人、貴人は百年を楽に超える。神人初代の中には三〜四百年を超えることも珍しくない。第二世代以降で百五十〜二百年、第三世代以降で神因が薄まると急激に寿命は短くなり、長生きの庶民程度にまで下がる。
数万年に及ぶセファ=ノア大陸の支配構造というのは、寿命を左右する神因が支えるとも言えた。記憶と継承に多くの資源を注ぎ込める優位性が、貴人にはある。オルト=エメルへの信仰を法と秩序へと書き換えられるのだ。
隷民の多くは、仕える主人が庶民から神官にすげ変わっただけのことである。エラフィアの社会構造は激変したが、九割を超える国民はむしろ労働の対価を真っ当に評価され、生活に余裕が生じた。商人たちが肥やし続けていた私腹が再配分されることになったのだ。
セイラスは千年の歴史を誇るエラフィア聖王国の刷新を目論んだのである。妹のイリアにも「武断派」と評されていたが、セイラスは文治にも案外な才を発揮してみせていた。声と抵抗の大きな庶民に対して、隷民は静かながらも真教支配を受け入れていた。
神など必要ない。
いなければ借りてくれば良いだけの事だ。それで何が困る?貴人が王たるべきは、血の濃さばかりが証明するのではない。
王は、王であらんと欲する故に王なのだ。
その権能は自ら切り取るのが王たる証明なのだ。
商人や正教会神官にとっては猖獗を極めたが、エラフィア聖王国はロ=イゼレ王国の宗教的付庸として落ち着きつつあった。ロ=イゼレとエラフィアとで互いに人員を融通し合うことで、農作物の収穫も鉱山の採掘量も増え、安定するだろう。庶民たち商人は邪魔でしかない。
セイラスを魔王と呪い、頑強に抵抗した元商人や元正教神官勢力にとっては不幸な事に、オルト=エメルの神威は微塵も顕れず半年が過ぎた。神は新しいエラフィアを祝福もしなかったが、神罰も下さなかった。
「オルト=エメルよご照覧あれ!!」
犠牲者たちの呪詛の言葉は神には届かなかったようだ。
ロ=イゼレの姫君、エスニーリア・ネル=イゼレとの婚儀は両国の伝統と格式を、同盟強化と神胤の維持という現実的かつ典型的な政略で鈍色に彩り、二人は挙式の日に初めてまともに顔を合わせる、という程だった。
ロ=イゼレとエラフィアの両者共に結婚という事実が必要なだけで、顔を合わせる必要さえあるとは思っていなかったのである。ロ=イゼレは巨大で肥沃な国土を、エラフィアは神胤の血統を統治の機能の為に望んだのだ。
セイラスの王権に残る
一つは、本来この婚礼に用意された影の供物たるヴェルン。その行方はふっつりと途切れ杳として知れない。第四遊撃隊諸共、ロ=イゼレの森林の奥に消えたままであった。
もう一つは、妹のイリアであった。王都市街の雑踏に紛れたのを最後に、姿を見せていない。共にセファ=ノアの表舞台から忽然と消え失せ、半年が過ぎようとしている。
とはいえ別にもはやセイラスは二人を脅威と考えていなかった。エラフィア正統の王位を望むならば、二人共に手を取り蜂起するだろう、と期待してきたが、とんと音沙汰がない。セルドラル正統の王位継承者と名乗りを上げて挑んでくるなら受けて立つ腹積もりが、現在に至るも肩透かしを食らったままだ。
ロ=イゼレの夢審官に行方を探らせたが、ヴェルンの神因は北西の
二人は蜂起すべき機を逸した。
白鏡騎士団解体前なら、或いは可能性はあったかもしれない。ヴェルンには一定の人望もあり、イリアがいれば正統性も強調できたであろう。宮廷式理士のアストリッドによれば、二人は最後の時を親密に過ごしたという。
二人を焚き付けたのは掛けであった。
あれはセイラス自身にも正直理由がつかない。兄として家族に出来る最後の配慮であったのかもしれない。イリアが婚儀を先延ばしせずにいたら、セイラスも決意を固めるまでには至らなかったかもしれないのだ。イリアは時間を掛けすぎた。
そして、現在。周囲が期待するような屈託も鬱懐もセイラスには無かった。
簒奪者と呼ばれていることに、何の感慨も沸かぬ。言う通りだが、それが何だというのか。
エラフィアの建国に、血が一滴も流れなかったとでも言うつもりか。その前は?何もなかった所に突然初代セルドラルは国を興したとでも言うつもりか。
初代セルドラルは神因の聖鏡を預言者セ=ミラより賜ったと歴史は伝える。神因の聖鏡が初代セルドラルを映し、聖王として認めた、と。
エラフィア聖王国に今も伝える伝説の神器である。ネオロアイトの塊を磨き上げた小さな丸い鏡だ。今も宝物殿に鎮座し、戴冠の儀で恭しく取り扱われる。大司教マルティオンは「簒奪を正教会が正当化することはない」と頑なに拘ったが、セイラスが無操作に取り出した神因の鏡は
鏡面仕上げにした比較的大きな黒いネオロアイト結晶である。誰の姿でも映る。
実は初代セルドラルは預言者セ=ミラから、殺して奪った。珍しいネオロアイトの結晶塊である。神人初代のセルドラルは、覇権の途上で邪魔する者、利用できぬ者は何の躊躇いもなく始末していた。
王位に正統などという幻想を抱いたところで、所詮はこんなものだ。神はいる。それは間違いない。今もオルト=エメルは世界に息衝いている。しかし正教会神官も真教会神官もあれやこれやと御託を述べてオルト=エメルの神意を伝えているが、憶測の域を出ないではないか。神は人の正義に興味はない。
人に神意など理解出来ぬのだ。そして神は人の社会の有り様になど容喙しない。
エラフィアの血塗られた裏面史は王家封印記錄官が口伝として今に伝えている。エラフィア聖王家の玉座は、もともと数多の流血の上にポツンと浮かんでいるのだ。そこに一人分増えただけのことだ。
セイラスは産まれたときから、王たるべく君主たるべく宰相ガノルを始めとした教育係に諭されてきた。しかし倫理的問題となったところで、聡いセイラスには大きな疑問が生じた。
エラフィア家は建国当時のみならず、領土を拡張していく課程で幾度も周辺国を戦乱の渦に巻き込み、何万、何十万もの血を流してきた。
セイラス自身も騎士団として王家に剣の誓いを立て、戦場で殺した者は千人を下らない。
彼らに何の罪咎があったというのか。彼らもまた誰かの父であり、誰かの息子であり、無辜の民では無かったか。ただエラフィア王家の覇道の邪魔をした、というだけだ。
エラフィア聖王家が何ほどのものか。
そこに、ヴェルンは突如顕れ、その聖王家に組み入れられた。神人、というだけのことで。
イリアと子を持てばその子が次の王だ、と。
今度は何もしらぬ無垢なる赤子が血塗られた歴史を継ぐのだ。
セイラスは戸惑い、そして何もかもが急に滑稽になった。
実のところ、それほど王位に未練があるのではない。かくあるべしと教育されてきたから、素直に従ってきたに過ぎない。
しかし、こんなやり方で正統性を担保する世界が、神意が、オルト=エメルの無秩序な狂気が、突然、愚かしくも莫迦らしくなったのだ。
そうではないか。人を愚弄するにも程がある。
であるなら。
獲ってみよ、とセイラスは思った。
正統性を嵩に着て、我が手から王権を奪えば良い。俺は俺で俺なりの手段でエラフィアを我が手に入れようではないか。
ちょうどその頃、神因式理士アストリッドがロ=イゼレと通じているのではないか、という諫言が王室特務官より報告された。魔道連座を通じ、ロ=イゼレの夢審官との交際が疑われていた。
「その件は私に預けよ」
王室特務官にそれ以上の探索を打ち切らせ、セイラスはアストリッドに近付いた。
聖王家簒奪の計画は、セイラス自らの意志で動き出したのだった。
「陛下」
「エスニーリアか。何か?」
物思いに沈んでいたセイラスに王妃エスニーリアが声を掛けた。
「御心はお決まりかや?」
「いきなり何を言う」
「陛下の存念は承知しておる。次はロ=イゼレであろう?エラフィア一つで陛下の剣は止まるはずがあるまい」
この王妃も怖い。
元々は、ヴェルンとの交換でエスニーリアの輿入れが決まった。ロ=イゼレは新たな神胤と、エラフィアをも取り込み、セイラスはロ=イゼレの付庸たるを条件に神胤を手に入れる。
無論、そのまま放って置く
ヴェルンの逃亡で一旦頓挫するかに見えたエスニーリアとの婚姻は、しかしエスニーリア側からの強い申し入れにより、そのまま恙無く執り行われる事となった。
ラオメス十三世は口を挟まなかった。ヴェルンを取り逃がしてから、どこか天命王には歯切れの悪い瞬間が多かった。そしてエスニーリアの輿入れ後、程なくしてラオメス十三世は崩御し、真教会高信評議の神因承認を経て十四世が跡を襲った。十四世は十三世との血の繋がりは無く、高濃度神因を持つ養子である。
「妾が陛下と結縁を望んだのは、国を出るための方便であったのだが、陛下の妃としてエラフィアに来て、確信した。陛下はいずれロ=イゼレも併呑するものと見込んだ。このまま大人しく真教会高信評議の操り人形となるようでは、嫁いだ甲斐もない。大望の無い男に一国の王が務まろうか」
セイラスはさすがに警戒した。内に秘めた野心の正鵠を射られ、しかもけしかけられてさえいる。
「陛下。妾はな、ロ=イゼレでも殊に何も無いような北の果ての地方領主の妾腹で、産まれた時に口減らしに縊り殺されるところを、神胤であることで救われたのだ。ご存知あるまいが、妾は豚二頭と引き換えに喜んで差し出されたそうな。それでもロ=イゼレでは高い取引なのだ」
ロ=イゼレでは人身売買が暗然と行われている。人でさえも神の『賜り物』とされ、
「王宮でも十把一絡げの神因の一人に過ぎぬ。妾は女だからな。真教会高信評議も持て余し、いずれは後宮に収まるのが落ちだ。王と子を為せば幸運といったところか。こんな巡り合わせでも無ければ、あのままロ=イゼレで朽ち果てていようぞ」
「そんな事はあるまい。その輝くような美しさは、多くの男を虜にしよう」
「心にもないことをよく言う。輿入れするまで、そして今も妾の麗しき顔など興味も無いであろうに」
エスニーリアは呵々と笑った。
セイラスは改めて王妃を見る。透き通るような銀髪と混じり気の無い新雪のような白い肌、薄い灰青色の瞳。殆ど粧う事はないのだが、ただ唇だけは薄く紅を刷いている。エスニーリアは
それだけでは生気の薄い人形の様だが、エスニーリアが人形であるなら、エラフィアに次ぐ千年の歴史で、ロ=イゼレ王家が掻き集めた神因と夢審官の魔道が彫琢した芸術品と紛う結晶に見えた。
ところが、婚礼の日。エスニーリアは言った。
「陛下。妾は田舎領主の妾腹に過ぎぬ。ぞんざいな所作や物言いなど、礼儀作法の至らぬ所はどうかご寛恕を」
不敵な笑みで、初対面の挨拶とした。
「お陰様で、この容貌なればこそ男共を手玉に取るのは実に容易かった。それは真教会高信評議のご歴々でも同じこと。よぼよぼの爺共は手を握らせるだけでも有頂天に随喜の涙を流しておるし、ラオメスに至っては顔を踏み付けにされて涎を垂らして悦んでおったわ」
生国の権力機構を相手取り不敬極まりない告白にも関わらずエスニーリアは、顔色を変えるでなく淡々と語る。
「陛下は驚かぬな。それなりの覚悟を以て告白したのじゃが」
「何、いずれの国も権力の集中は腐敗を招くもの。我が国とて事情に違いは無き故、正教会は解体せざるを得なんだ」
「これは異なこと。エラフィアなら少しはマシかと期待しておったのに」
エスニーリアは言うが、それほど落胆しては見えない。大司教のみならず、神官と商人の癒着はセイラスには度を越して見えていた。ましてやそれがセラドレル家の王権の為に濫用されていた、とさえ言えた。
「ともあれ、これぞ神胤の神通力やもしれぬな。しかしロ=イゼレにはこれぞと見込める男はおらなんだ。オルト=エメルに飼い慣らされた哀れな子羊共が群れよ。魑魅魍魎の数ばかり多くて、上から下まで碌でもない。そんな子羊共を誑かしていても埒が明かぬわ。ロ=イゼレ同様に妾も病み倦んで、腐れ果てる」
ここにもイリアの眷属がいた。しかもイリア以上に闇が深い。エスニーリアはロ=イゼレの暗部が凝結し滴る澱であった。
「陛下、どうぞ遠慮めさるな。この身に宿る神因など、存分にお使いくださればよろしい。ロ=イゼレであれ、タレンであれ、陛下の御心のままに切り取ってしまわれよ。妾の力など、陛下の御大望の前には取るに足らぬもの」
「ロ=イゼレに未練は無いと申すか?」
「千年も国なぞ構えておれば、もう飽いたであろうよ」
エスニーリアは満足げに微笑むと、セイラスに傅いて衷心を示して見せた。
と。
《泡沫共がその無知、我が意に叶わぬ放埒は嘆かわしきことよ》
世界が暗転した。セイラスの視界は暗黒に包まれ、体温が急激に下がるのを感じた。如何に無双を誇った元聖騎士団総長といえど、五感の全てをいきなり奪われては、身動きのしようがない。
緊張に強く握られた拳を温かな手がそっと包んだ。
「陛下、御心を強く保たれよ」
何も見えないのだが、エスニーリアの存在が感じられた。やがて視界の闇が薄れ、セイラスの手を取るエスニーリアがすぐ脇で淡い光に包まれ、正面を見据えているのが見えた。
セイラスがエスニーリアの視線を追うと、そこには周囲の光を全て喰らい尽くす玄き存在の中心に碧い二つの虹彩が光っていた。
クロウ=ルグル!虚無の神獣。セイラスの全身を悪寒が奔る。腰の長剣を探ったが、騎士時代の習慣であり、今は佩いていない。
《我が拵えし機を無にし、神因を散ずとはな。泡沫共の儘ならぬことよ》
「何のことだ?」
《貴様如き泡沫に用は無い。神胤よ、何故ヴェルンを手に入れなんだ?》
「あの様な子供。妾には必要無い」
エスニーリアは玄狼に臆すること無くきっぱりと言い放った。
《神胤たちは何故課された業を忘れ、己が命数を無意味に散ずるか。意に沿わぬ事甚だし》
「課された業とは?妾に思い当たる節も無し」
《この世に出し時に命じておろう。神滅の業を》
「笑止なりクロウ=ルグル。乳飲み子に何を命ず」
エスニーリアは嘲笑った。
「消えよ玄狼!陛下の御心に障る!」
セイラスはクロウ=ルグルの瘴気に当てられ、希死念慮に囚われ、言葉を発することも出来なくなっていた。
クロウ=ルグルは人の心を飲み込む。虚無感と虚脱感に囚えられ、セイラスは立っているのもやっとの状態であった。
睨み合いを続けたクロウ=ルグルとエスニーリアであったが、やがて闇が溶けて消え失せた。
「神滅?オルト=エメルを?神獣が何を世迷言を」
セイラスは神因薄き人としては堪えた方だが、その場で意識を失った。
II
『神のひろがり
世を覆う
その偏りは
斑を描く
我に死を!
我に
浮かんでは消え
浮かんでは消え
神のゆがみ』
〜《オルト=エメル創世神話》より〜
ヴェルンたち、元第四遊撃隊はヴァルカ=ナール山脈の東麓に広がる霧深き樹海、広大な
人の未踏破部は全体の六割を超え、ロ=イゼレとヴァルカ=ナール山岳諸侯連合を結ぶ一本の街道を外れて森へ一歩足を踏み入れれば、濃密な緑が地表を覆い天蓋を覆う。昼なお暗く、中でも目を引くのは樹高は平均で二十リ=ソール(約二百二十メートル)、幹周が五リ=ソール(約五十五メートル)を超えるヒノキの一種
アカマツやトウヒ、モミ、カラマツといった針葉樹やカバノキ、ハコヤナギといった広葉樹の優占高木の足元にハンノキやベリーなどの林床、クマザサやシャクナゲ、スズランなどの草木が足元を覆い、コケ類が地表を緑に染める。
亜寒帯の北方林ではあるが、活火山を含むヴァルカ=ナール山地からの高温の地下水流が地熱として働くため、森の大地は凍土とはならず肥沃である。植物相はその地熱を利用する様に独自進化を遂げるものもおり、その緑の密度は思った以上に濃い。更に豊富な雪解け水が地表の分厚い腐葉土に染み込み、地下深くまで根を伸ばした高木が樹海を形成した。
この樹海には、ザイ=タル族が暮らす。
かつてロ=イゼレ北部に定住していたが真教の避妊戒律・胎律統制・略奪強制への反抗から半ば追われるように国を出た祀ろわぬ民の末裔である。オルト=エメル信仰を捨て、独自の産土神を
ロ=イゼレはザイ=タルを人として認めず、公式には森に住むサルの一種として捨て置かれた。そこには森への潜在的な恐怖がある。夢審官でさえ関わることを忌避したのだ。
その神威の森の冬は既に始まっていた。厳冬期が始まろうとしている。寒風に雪が混じって舞い始めていた。
ヴェルンたちは街道をそのまま進むというわけにはいかなかった。ロ=イゼレの街道を警備する戒律騎士団が要所要所で待ち構えている。それを打ち破る事は可能だが、徒に足跡を残すことになるのを避けたかった。
それはザイ=タル族が原因でも、野盗が原因でもなかった。鬱蒼と茂る森は常に霧が立ち込め、気温も低い。更に森の中は異形の植物相と動物相が独自の生物圏を形成していて、生態系が人を圧倒していた。
そこには、オルト=エメルによる三世生殖の試行とも言える、無秩序の狂気が渦巻く。
例えば
他にもロ=イゼレの夢審官が呪法に使う黒香の原料となる
無論、植物ばかりではない。
そうした異形種のみならず、
そして、全長が一リ=ソール(約十一メートル)、翼開長が三リ=ソール(約三十三メートル)にもなる、空の王者
更に狂愛の獣、神獣エラ=ティルノ。
大きさは単体で馬の二〜三倍、体高は八〜十三ナブ(約二・五〜四メートル)、枝角は発光して分岐多数の虹鹿の群体である。常に十数体以上の群れで行動し、体毛が虹彩の様に輝く。
人は虚無の獣・クロウ=ルグルと遭遇すると心を奪われるが、エラ=ティルノは狂愛を呼び、周囲を巻き込み無差別に三性生殖を引き起こす。その神囲は人に限るものではない。
街道を外れて森の中を進んでいた第四遊撃隊は、敵意を剥き出しにする
騎士たちは自分たちが森に栄養として狙われている事をすぐに悟った。緑の地獄は露骨な弱肉強食の世界である。何万年にも及ぶ果てしない三性の試行は、この場所で極相を呈していた。ましてや冬。殊に獲物に乏しい季節である。森は手段を選ばなかった。
野営をするにも交代で歩哨を立てていなければ、いつ何時、何物に襲われるか判らない。
這い寄る、
ロ=イゼレの追手も森の中までは踏み込まないし、煙は霧に紛れる。寒さを凌ぐためにも、野営地で火を起こすのは避けられない。野ウサギや
探り探りで少しずつ森の奥地へと進みながら、約半月。満足に寝ることも出来ず、疲労の色を濃くしたヴェルンたち第四遊撃隊は、客が訪ねてくるのを待っていた。
空に
「あれがそうか?」
「恐らく。ザイ=タルの物見でしょう。我々はようやく発見してもらえたようです」
「皆、決して抵抗はするな。何としてでも、彼らの助けが必要なのだ」
「我らが領土に無遠慮に踏み込む愚か者は誰ぞ」
北部訛りの強い
一斉に剣に手を掛けた第四遊撃隊の面々をヴェルンとゼイランは制した。狙い通りであるなら、ザイ=タル族の斥候である。
「我々は、エラフィア聖王国の白鏡騎士団に属する、第四遊撃隊である。俺は隊長のヴェルン。そしてこちらは副官のゼイラン。話を聞いて貰いたい。我々に敵意は無い!」
ヴェルンは鞘ごと剣と鉄杖を投げ捨てた。
「エラフィアはロ=イゼレに併合された属国と成り果てたろう。貴様らは脱走兵か」
「結果としてはそうなる。我々は敵対する気はない。一時の保護を求めたい」
ヴェルンたちは王都の騒乱の実際を知らぬ。この半月でエラフィアがどうなっているのか、自分たちの身分はどうなっているのか。
「我が名はユルハ=ノク。ザイ=タル族の者だ」
武装を解除したヴェルンたちの前に、浅黒い肌の全身に
「ザイ=タルのユルハ=ノク。我々の願いを聞き入れて貰いたい。我々はこの森の道案内を必要としている。我々はこの森を抜け、ヴァルカ=ナール山岳諸侯連合を目指している」
「それで我々にどの様な得がある?」
「ロ=イゼレを真教から解放し、ザイ=タルの故郷を」
「ほっ!・・・ははっ!」
大仰に、ユルハ=ノクは驚いてみせた。
「大きく出たものだな。たかだかその人数でロ=イゼレを征服してみせると言うか?」
「無理は百も承知だ。しかしいずれエラフィアの簒奪者セイラスの暴虐は誰かが止めねばならぬ。後ろで糸を引いていたロ=イゼレも同様。故国の奪還は互いに悲願であろう。協力できるものと信じる。族長と話がしたい」
「故国ね。ふん、・・・まぁよかろう。案内しよう」
それが合図であったようだ。
第四遊撃隊はザイ=タルの者たちに音もなく取り囲まれていた。周囲から数十の武装した男たちが現れると、気配も気付かなかった騎士たちは動揺した。
「拘束させてもらう」
「抵抗するな!」
思わず武器を取りかけた騎士たちにヴェルンは命じた。ここはザイ=タルの庭である。正確に短弓で狙いを付けられており、多少の抵抗では勝ち目はない。
ユルハ=ノクも荒立てる気は無いようだった。
ヴェルンたちは後ろ手に拘束され、目隠しをされると、引き立てられ連行された。ユルハ=ノクは一行の先頭に立ち、ザイ=タル族の冬の棲家へと案内する、と歩き出した。
「冬の棲家?」
「我々は春から秋までの間は家族単位で思い思いの場所で過ごす。冬の間の四ヶ月間だけ、冬の棲家で過ごすのだ」
「そうなのか」
「ヴァルカ=ナールへ行くのも冬の間は諦めたが良かろう。歩いて
「他に何か?」
「ロ=イゼレへ戻りたい、などと言う者はもはやザイ=タルにおらぬ。精々が無意味に長生きしてボケた神人や、一部の貴人のご老体くらいのもの。既に森に生きて千年を閲している。我々は疾うに平地で生きる法は忘れている」
「そうなのか・・・?」
事実だった。
長命の貴人階級の中にはロ=イゼレで暮らした記憶を引き継ぐ者もいたが、決して戻りたいなどとは言わぬ。齢三百年を超える神人でさえ、産まれたのは
「着いたぞ。目隠しを取ってやれ」
そこには一際巨大な
「ザイ=タルを束ねるタズマ・コズンだ」
紹介された貴人と思しき精悍な男が、これもザイ=タル族特有の全身に彫られた
「招かれざる客人よ。何ゆえ神域を犯す」
「ザイ=タルが王よ。我々はロ=イゼレ、そして故国エラフィアに追われ、今はヴァルカ=ナールを目指している。俺は簒奪者セイラスを制し、エラフィアを取り戻したい。我々に協力を願えないだろうか」
タズマは皮肉っぽく笑った。
「ザイ=タルはロ=イゼレの神官にサルの類として捨て置かれておる。もはや人外の住人。人の世の揉め事に口出しする謂れもなし。今更サルに頼るか?」
毅然としながらも悠揚迫らぬ態度で、タズマ・コズンは裁定を下した。
「助力は断る。ただし我々がサルより少しはましな証として歓待はしよう。見れば、寝ることもままならなかった様子。まずは身体を休ませるがいい。春まではここで過ごし、その後は好きにせよ」
ヴェルンはその言葉に抗う事が出来なかった。
クロウ=ルグルの言う使命が何なのか未だに判らないが、セイラスを討つというのは神意ではないのか、と肩を落とす。
少なくとも、自分にはザイ=タル族を動かす力は無かった。この体たらくで闇雲にヴァルカ=ナールを目指した所で、果たしてエラフィアを取り戻すなどという大業が自分に可能なのか。イリアの行方どころか生死でさえも判らず、第四遊撃隊の騎士たちの命も危うくさせ、今は寄る辺もない。
ヴェルンは使命とは何なのか、未だに見出だせていない。
「試みに問おう、ヴェルン」
「なんなりと。俺の知る範囲で」
ザイ=タルの冬の棲家、
この冬の棲家では上下の区別無く、車座で語らい、食事をし、雑魚寝することもある。それはザイ=タル族の族長であるタズマ・コズンも同じであった。
ある日、タズマはヴェルンと酌み交わしながら語り合っていた。
「神は祝福か災禍か?」
「両方だ。神意は常に二つの側面を持つ」
神威災害でさえそうだ。血の雨は土地を腐らせ飢餓を呼んだが、翌年は空前の大豊作となった。一意的にオルト=エメルの神意を理解することは出来ない。生と死、意志と偶然、秩序と逸脱、豊穣と飢餓、知と忘却。
オルト=エメル神像は両性具有であり、双面を持ち、若く老いている。それが多様な解釈を生み、オ=リマ解釈戦争のような宗教戦争さえも引き起こす。
緩やかな信仰で多神教と化した正教会があるかと思えば、厳格な唯一絶対神とする真教会のような存在もあるが、セファ=ノア大陸に於いては一般にオルト=エメルは双面の神として信じられていた。
「我々はロ=イゼレを棄てると同時にオルト=エメルも棄てた。しかしこの
「そうだろうか・・・」
「押し付ける訳では無い。我々はそう考えた、ということだ。お前は神獣に“使命を果たせ”と言われたそうだな」
「クロウ=ルグルだ。奴は俺に何事かをさせようとしている」
「神獣の言葉などに耳を貸すな。この
ヴェルンには答えられなかった。
クロウ=ルグルは虚無の獣と呼ばれ、魅入られた者は自ら死を選ぶように虚脱し、心を失う。エラ=ティルノは狂愛の獣と呼ばれる。
ザイ=タルが全身に
「家族は大切だ」
タズマは膝に幼子をあやしながら続ける。
「お前はイリアを探せ。エラフィアは棄ててセイラスの事など忘れる事だな。国を取り戻す事はお前が本当にしたいことか?お前の居場所は本当にエラフィアなのか?」
「イリアを・・・」
決して忘れてはいないが、ヴェルンはこれまで正面から考えてくるのを避けてきていた。
無事であろうか。
あの才女がセイラスの策謀にただ流される筈がないという確信はある。しかし今のヴェルンにはその消息を掴むことも適わなかった。
厳冬期の
たとえばザイ=タルは冬の間、ただ安穏と暮らす訳では無い。身体を鈍らせる訳にはいかないので頻繁に
「相手の動きに合わせるんだ。相手の力を利用しろ」
「しかし、どうやって
「神因の流れを見る。次にどう動くかは頭で考えているのではない。神因が流れる」
「そんな事が可能なのか?」
「これだ」
ユルハ=ノクが額に刻まれた
「ただの装飾じゃない。この印が神因式理を発動する」
その理屈を聞いた遊撃隊の武装式理士であるルーミナは
ヴェルンたちはザイ=タルの冬の生活に馴染んでいった。
「ゆっくりとだ。決して急に動いて脅かすなよ。喰われるぞ」
ユルハ=ノクに案内され、ヴェルンは
凄まじい強風に横殴りの雪が混じり、目を開けているのも辛い。そんな
「お前の
「卵を抱える母親だぞ?そうでなくとも気が立っている。今もお前が何者か警戒している」
ヴェルンは
「貴人なら可能なのか?」
「全てではない。彼らに選ばれない者もいる。ザイ=タルであっても、だ」
ヴェルンはその共縁を結ぶ
「こいつの初めての卵だ。ヴェルンに慣れて貰い、卵が孵る時に一緒にいられる様になっていないと、共縁は結べない」
「上手くいくだろうか」
「恐らく無理だ。神胤であってもこればかりは。
にべもない。とはいえ諦めたくは無かった。今のヴェルンには何の力も無い。
ヴェルンは足繁く樹冠へと通い、
III
『人型の依代を以て
狂瀾に淫し
獣型の依り代を以て
正気を疑う』
〜《オルト=エメル創世神話》より〜
風除けの革の外套をを纏い、御者台に座るセラ=オルヴェリンは隊商を指揮していた。間もなくタレン公海連邦の港湾都市、ミラ=ポルである。湖岸都市のリュ=オルマと異なり、湿った風には潮の香りが乗って運ばれてきていた。
ミラ=ポルには香辛料、絹、毛織物、木材、塩から鉄鋼や石炭なども集まり、交易船による遠隔地貿易の拠点として繁栄が著しい。こうした港湾都市はそれぞれが自治権を持ち、タレンの連邦制を支えている。
各地から集まる商人はリュ=オルマ同様に
取引は大陸基軸通貨となるエラフィア正教会が鋳造するリス=マル金貨が中心となるが、他にエセル銀貨、タレンのセリア貨、僅かながらロ=イゼレのデゼル貨なども用いられた。しかしロ=イゼレは元々物々交換が基本であり、デゼル貨は補助的に差分を埋める程度の微々たる流通量である。
各国の特産物が集まり、漁業も盛んであるため、ミラ=ポルには山海の珍味が集まり、香辛料も豊富なため、街のあちこちに食事処や屋台が立ち並ぶ。適当に選んだ店に入ったとしても、遠来の客は必ず満足できた。
今日は何を喰うかな、とセラは考えていた。
ラグナに「足手まとい」と喝破されたイリアは、酷い悪阻のため、荷駄に設えたベッドに籠もって起き上がる事も辛く、ただただ揺られ続ける足手まとい以下の荷物と化していた。
「母になる、というのは」
半ば譫言の如き言葉も、途切れ途切れである。
「よもやこれほどまでに、辛い事だとは。私は、馬車で酔ったことなど無かった、のに・・・ううっ」
傍らのミュリアはただ一言「お労しい」と述べたが手助けするでもない。未婚で未知の領域なのだ。
幸いイリアに食欲はあるのだが、食べても戻すことが多い。何くれと世話するサリスやラグナの存在がなければ、イリアは生き延びる事さえも難しかったであろう。
そこへ、セラが乗り込んできた。
「お待たせしたね、お客人方。ミラ=ポルだ。ようやくタレン連邦だ」
「セラ・・・感謝を。もう少し揺れなければ、そなたの献身に勲章も授けて、も、お、・・・お」
イリアは言葉の途中で口を噤むと、見る見る青くなりそのまま荷駄の外に顔を突き出して、胃の中身をぶちまけた。
セラは苦笑すると、ラグナに顔を寄せた。
「俺の妹もここまで酷くはなかったぜ?」
「まぁ、姫様には馬車の荷駄に乗って旅するなんて経験は無いもの」
王室の豪華な馬車と違い、隊商の荷駄の車輪に板発条の仕掛けなど無い。
アルマス商会のアルマス=オルヴェリンが息子、セラ=オルヴェリンは行商で身を立てている。旅から旅への毎日で、エラフィア国内は勿論、タレン公海連邦から、ザルマ大乾原遊牧連盟、カレド連宗市国群、トレフス=ユーン断崖帯、ヴァルカ=ナール山岳諸侯連合といった、セファ=ノア大陸を縦横に隅々まで旅して回り、若いながらも隊商を率いる。腕っぷしも度胸も備えた、剽悍な男であった。
街道筋を回る旅人は、野盗などの被害も多い。セファ=ノア大陸を旅する行商人は、殊に狙われやすいので、武装するのが常である。それなりに腕に覚えがなければ成り立たない。セラは幾度かの修羅場を潜り抜けており、若いながらも経験は豊富であった。
ラグナの言った心当たりとは、セラの事であった。
セイラスの親政でエラフィア王都から大商人が駆逐され、セラもほどなくリュ=オルマのアルマス商会へと逃げるように帰ってきていた。セファ=ノアの中原に位置するエラフィアでの商売が見通し立たず、一旦身の振り方を考えねばならなかったのだ。
エラフィアでの商いを終えて、次の商品の荷積みを終えた所で、神胤ヴェルンの災難の話が流れてきた。みるみる暗く沈むエラフィア国内の空気を感じ、荷積みを終えるとそそくさと国境に向かった。数日足らずでヘリド六世崩御の報せが追い掛けてきた。
国が乱れれば治安も乱れる。大事な商品が山積みのセラは拠点のリュ=オルマへと急いだ。案の定、エラフィア国内が大騒ぎとなり、今も多くの商人仲間と連絡が取れない。
次の取引の当てが無くなってしまった。エラフィアが落ち着くまでは、暫く中原は商売に使えなかった。
しかも、ロ=イゼレから司教としてエラフィア派遣されてきた夢審官レトゥス=ヴァランは、解体された元正教会/現真教会にてまず行ったのが、貨幣鋳造の完全停止という暴挙であった。
生真面目な真教徒にとって、貨幣経済というのは忌むべき悪習でしかない。教徒を束ねる真教会高信評議の面々が懐に唸るほどリス=マル金貨を溜め込んでいる事など、レトゥスは知りもしなかった。
貨幣の鋳造は、君主たる聖王にその権利があるが、聖王は正教神殿の総大司教を兼ねる。よって正教会がその代行としてリス=マル金貨とエセル銀貨の造幣を行ってきた。
レトゥスはこれを必要なし、としたのである。
影響はまず周辺国に静かに現われた。基軸通貨であった支払うべきリス=マルがどんどんと少なくなっていく。物価が徐々に下がりつつあった。通貨収縮が始まっていたのである。改鋳や減金といった現物を見れば判るものではなく物価上昇ではなく、新規鋳造停止によりリス=マルの価値が上昇していき、売る物がだぶつき値崩れを起こしてきた。
改鋳されるのではと噂もされているが、これは期待半分の商人たちの無責任な噂に過ぎない。真教会はそもそも貨幣経済を神の教えに反する、としていて貨幣鋳造には熱心ではない。
今のところ、セイラスは沈黙している。
セファ=ノア大陸の貨幣経済圏が萎縮しつつあった。基軸通貨が停止したのだから、当然である。
穀倉地帯で地力のあるエラフィアの事であるから、当座の所は強気でいられるが、やがて財布事情は逼迫するだろう。それはロ=イゼレであっても同じことである。人は小麦だけで生きていくことは出来ない。
通商連座は座視してはいられなくなった。タレン公海連邦の五大商家やエルドレーン三世を含む評議会も、まさかリス=マル金貨が流通しなくなるとは、思わなかったのだ。
ロ=イゼレとエラフィアを迂回しての取引を強化し、二国を取り囲むように経済的封鎖網が形作られつつあった。タレンを中心としたセリス貨を取引の基軸通貨とする密約が取り決められたのである。日に日に度合いを増す通貨収縮への、緊急手当てであり、エラフィアへ経済的掣肘を加える意図があった。かといって今日明日にセリス貨を大量に鋳造出来るものではない。主な金の産地はロ=イゼレなのである。新しい金鉱脈探しから始めねばならなかった。
セラとミュリアはタレンの評議会支所へと顔を出した。ミラ=ポルはタレン公海連邦の重要な自治商都であり、多くの商館や大使館が立ち並ぶ。
「あんまり分の良い勝負とは言えねぇと思うがなぁ」
「承知しております。とはいえセラ様や騎士のナイだけで姫様をお守りするのは限界があります」
「タレンの連中は抜け目が無い。真っ当正直なエラフィア商人の俺も何度か煮え湯を飲まされてるんだ」
「それも、重々承知しておりますとも」
セラが真っ当かどうかは議論の余地があるが、生き馬の目を抜くタレンの商圏内で儲けを出すのは並大抵ではない。タレン商人は親への舌、役人への舌、商売相手への舌の三枚の舌を持つと言われる。
ミュリアにしても、イリアの婚姻協議では十三も年下の第八王子を充てがわれたのだ。交渉に立ち会ったミュリアは当時の憤懣やるかたない屈辱を今も鮮明に覚えている。
当時、イリアは溜息を吐いて宣った。
「十歳?タレンはままごとの相手を探しておるのか?」
ミュリアは評議会を通じてタレン王家への顔繋ぎを考えていた。イリアの、そしてそのお腹の子の存在は、現在のエラフィア王統への強烈な打撃となりうる。
イリア一行は、旅の間に今後の行動について何日も話し合った。
ヴェルンの行方は未だ不明のままであった。そもそもエラフィアにしてもロ=イゼレにしても、情報が殆ど漏れてこない。ラグナの父、ミル=オルヴェスが無事なのかさえも、確かめられなかった。セラの情報網も、エラフィア内部となると途端に雲を掴むような有り様である。
行商人の情報網には限界がある、タレンの外交網からエラフィア内部を探る以外にない。
秘密裏にエルドレーン三世との会合が用意された。イリアたち一行は、ミラ=ポルでゆっくりすることもなく、タレン自治区を目指すことになった。
セイラスは側近のほぼ全てを刷新したが、そこには真教会神官が深く国政に食い込む事はなかった。セイラスは政教分離の意志が固かった。
正教会は総て真教神官が掌握し、それで満足するしかなかった。
聖騎士団は解散し、改めて真教の戒律騎士団として再編された。これまではエラフィア国軍として軍事を支えた一般兵士も全てが戒律騎士団に組み込まれ、セイラスが変わらず全指揮権を掌握する。
経済政策には無頓着なのに、軍備の再編だけは妙に熱心のようだった。
クロウ=ルグルとの邂逅で心を奪われたセイラスは魂を喪い昏倒、まる一昼夜経っても目覚める様子がなく、エスニーリアはとある夢審官をロ=イゼレより至急、と呼び寄せた。
いかなる魔術を駆使したか、呼び出された第零審官ナクシス=イル=ファレンは、翌日にはエスニーリアの前に姿を表した。
「そなたがナクシスか」
「王妃様のご尊顔を拝し奉り、卑しきいち夢審官の如きは恐懼するばかりに御座います」
「止せ大鴉。心にも無い修辞は時間の無駄だ」
「ご用命が御座りますれば、何なりと」
「クロウ=ルグルは存じておろう。彼奴に陛下の魂は奪われた。取り戻せ。出来ぬとは言わせぬ」
「クロウ=ルグルはオルト=エメルが念慮に御座います。その思し召しを覆すのはいかな夢審官にも叶わぬ事」
「嘘を申せ。ラオメス十三世が復活はそちが呪法であろうが。他の者なら如何にでも誤魔化せようが、妾には貴様が時の神クロノ=セリオスが禁呪を犯したと
第零審官ナクシス=イル=ファレンは黙り込んだ。その眼は白く濁り、見えているのかいないのか。
「貴様が何を企むかは知らぬ。一万年を超えて生きる貴様の正体が神獣であり、神人の振りをして人の世に紛れ込む意図も、妾には興味が無い。ただ、妾には
「ふむ。良かろう、小娘。それでお前の気が済むのなら、セイラスの魂を取り戻してやろう」
いきなり、ナクシスと呼ばれていた老人の輪郭がぼやけると、一羽の大鴉へと変貌した。ぬめりとした濡れ羽色が暗く沈む。ナクシスの正体は道外の獣ホウム=ロクシュであった。
エスニーリアは驚きもしない。
「宮廷に大鴉がウロウロして誰も驚きもせぬどころか、お伺いを立てて悦んでおる。妾にはロ=イゼレ王宮が魔窟としか思えなんだ」
「長く一処に居過ぎたようだな。置き土産にセイラスの魂は取り戻してやろう。面白いことになりそうだ」
ホウム=ロクシュは
「う、ここは・・・」
「陛下!ご無事で?!」
「エスニーリア、俺はいったい・・・?クロウ=ルグルは?」
「悪い夢を見たのでございます、陛下、ご安心を。陛下は妾がお守り申す故、これよりは一心に覇道を目指されよ」
「・・・エスニーリア、そなたは一体何者なのだ」
「陛下が半身」
「半身・・・そうか」
「陛下が剣なら妾は鞘となりましょう。妾は秩序と逸脱の神エン=アルマスの巫女として、陛下を守護し奉ります」
確信に満ちた王妃の言葉が、奇妙にセイラスの腑に落ちた。
セイラスは玉座に戻ると、エスニーリアとの約束を果たすために軍備の増強を命じた。聖王家簒奪から矢継ぎ早の軍事行動となるが、真教会がエラフィア国内に根を張る前に打撃を与えておかねばならない。秋の収穫期が来る前に国軍を動かす算段である。
エラフィア国内を探る周辺諸国の細作はエラフィアの動きを察知し祖国に伝えた。一方的に殴られる訳にもいかず、セファ=ノア大陸は鵜の目鷹の目で各国の腹の探りあいが続いていた。
そんな中、エラフィアから新たな布告が発せられた。
ヴェルンとイリアに懸賞が掛けられたのだ。
もはやセイラスには二人が行方不明であることを隠す気は無いようだった。エスニーリアを得て、神胤による王統の正統性を補強した今、ヴェルンとイリアはもはや脅威ではない、ということであろう。
イリアはこのまま隠れ続ける危険性と、名乗りを上げて政治的立場を強化する危険性とで自らを秤に掛けざるを得なかった。
エラフィアがロ=イゼレの宗教的属国となり、軍事力が統合された事で、各国に軍事的緊張を強いている。今や戒律騎士団と真教会はセファ=ノア大陸屈指の軍備力を誇ると言って良い。このままロ=イゼレの南進を許せば、タレン公海連邦は確実に呑み込まれる。東のザルマ大乾原遊牧連盟や西のヴァルカ=ナール山岳諸侯連合も警戒を強めている。
一つだけ不思議なのは、布告には「生死を問わず」と付言されていなかった事だった。むしろ明示的に生きて捕らえる事を求めていた。エラフィアへと連れればリス=マル金貨を一人につき十万枚。ただし死んでいたら報酬は無し。
生きてヴェルンと会えるのであれば、それも良いかと傾きかけたが、それが今生の別れとなるであろう。お腹の新しい生命は父に会う事も適わず、この世に生まれ出る事も赦されまい。
もはや政治的防壁で自らの立場を明確にせねばならぬ時であった。それはしかしエラフィアの内乱を他国に延焼させる危険性も孕む。タレン国王のエルドレーン三世は「神はいる。しかし食い物を運んではくれん」と、真教会が聞いたら憤死しかねない発言で、オルト=エメルへの不敬を隠さなかった。もともと火種は燻っているのである。イリアの亡命を認めればそれが決定打となりかねない。
エルドレーンにとって基本的に真教会も数多ある取引相手の一つに過ぎない。それも神意を嵩に着れば、あっさりと手を引くだろう。それほど重要視してはいないのだ。
かといってイリアが保護を願い出て上手くいくかは、些か心許ない。
しかし迷っていても仕方なかった。
イリアもやはり武断派なのだ。
「あまり、このような形では会いたくはなかったな、イリア姫よ。御身のお立場はご存知であろう?」
「懸賞を掛けられてエラフィアに追われていることでしたら、存分に」
「余はロ=イゼレはともかく、エラフィアと事を構えたくはなかった。御身を匿ったと知れれば、タレンとエラフィアは国交を断絶することになるやも知れぬ」
「ご迷惑をお掛けすることになるのは、百も承知に御座います。しかし私もただ兄に良いようにされて黙っていては、父ヘリドの魂は浮かばれません」
「判っておる。冗談だ。そもそも既に断絶状態なのだ」
王の眼は、イリアを通してエラフィアのセイラス、その先に暗躍するロ=イゼレの真教会を見ていた。
厄介なことになった。軍事的衝突となれば、タレンは持ち堪えられない。
セイラスの簒奪は公然の秘密だ。神胤ヴェルンが消え、今はイリアの胎内に正統なエラフィア王がいる。正義があるとすれば、イリアということになる。しかし
しかし。
真教会の台頭は、経済的な脅威となってセファ=ノア大陸を飲み込もうとしている。このまま捨て置けば、停滞は必至である。リス=マルは高騰を続けており、通貨収縮は物価を押し下げ続けて、殆ど儲けにらなぬ。投げ売り状態で、商人からは悲鳴が上がっている。エラフィアからは損害を取り立てねばならぬ。
エラフィア聖王家を借金の形とするのだ。それはリス=マル金貨僅か十万枚ではとても相殺できるものではない。
「良かろう」
エルドレーン王の側近や、五大商家代表といった評議会の面々はぎょっとした顔になり、色めきだった。
「置け。エラフィアがリス=マルの鋳造を停止したのは明白。通貨収縮でどれだけ多くの利益が喪われたと思う。エラフィアから懸賞金など出るものか。これはどちらを信用するか、という問題なのだ。セイラスは王として不誠実だ。既に経済戦争は始まっておるわ。イリア姫の亡命を認め、次期エラフィア王への擁立を支持する」
そして付け加えた。
「まぁ、義を見てせざるは、とか何とか言うではないか」
明らかに「義」には興味が無い口ぶりであったが、イリアは取り敢えず身の安全を確保することに成功した。
時宜を得たら亡命を公表する、としてタレン王宮の片隅に落ち着き、セラやラグナも食客として招かれた。
イリアのお腹も目立ち始めている。まずは無事に出産を終えることが先決である。母子の存在はタレンに厳重に秘匿され、箝口令が敷かれた。
見方によってはタレンの俘囚と見られなくもないが、身重のイリアにとっては、今はどうでも良いことだった。
この子は生まれる前から、否、身籠る前から政略に利用される運命は決まっていた。これはイリアが一生背負わねばならぬ原罪なのだ。
そのひと月後。
エラフィア戒律騎士団全軍を率いて北進したセイラスは、ロ=イゼレの首都アルト=ソナスに攻め入り、王都を陥落させた。
現天命王ラオメス=イゼレ十四世並びに、真教会高信評議会の神官は全て火刑とされ、ロ=イゼレ王国はセファ=ノア大陸から消滅した。
王権神授を悪用して私腹を肥やし、真教会を私し冒涜した、というのがその理由であった。しかし火刑に処された中に夢審官のナクシスの姿は無かった。
道外の獣、ホウム=ロクシュはロ=イゼレを見限った。
オルト=エメルの鼎 遠近普遍 @occcamnk
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