オルト=エメルの櫂

『神は一にして全

 分かたること能わず

 名を裂くは罪なり

 数えることは業なり』


『土に飢えを与えしは

 神の腹なり

 飢えを奪うは

 腹に手を突くこと

 ゆえに与えよ

 奪うごとく与えよ』

 〜《オルト=エメル創世神話/ロ=イゼレ新約》〜


 エラフィア聖王国の北方に国境を接するロ=イゼレ王国は現在、天命王ラオメス=イゼレ十三世が治め、その歴史は千年を数える。

 神威の過酷なセファ=ノア大陸に於いて、ロ=イゼレは北辺に位置し、余りに長い冬と広大な痩せた土地を抱えて生き抜く事でさえ試練の連続である。豊富な地下資源を中心とした交易物産が無ければ、国体を運営する事は不可能であった。

 真教会はオルト=エメルを唯一絶対神と崇め、ラオメス=イゼレが神政を代表しているが、実質的には真教会高信評議会によって国家機能が運営される。貴人を始め、庶民、隷民の信仰は非常に篤い。


  

 ヴェルンが目覚めたのは、石造りの牢内であった。

 かび臭く、しっとり濡れた石壁には紙一枚でさえも通る隙が無く、窓も無い。明かりは牢の片隅の燭台に乗った蝋燭が一本。羽虫が音を立てて飛び、時折炎に身を焦がしている。

 ヴェルンは膝丈の下着ブラーエ一枚の姿で粗末な木造りのベッドに寝かされ、両足に一本ずつ、両手は木製の分厚い手枷が嵌められている。黒く太い鎖が壁に繋がり、試した訳では無いが、恐らく出入り口には届かぬ長さであろう。口にも木製のくつわが噛まされており、ガッチリと締め付けられている。後頭部を探ろうとしたが、胴回りを拘束する鉄帯に手鎖は繋がっており、大きく腕を上げることも不可能だった。

 ヴェルンはゆっくりと上体を起こした。ジャリジャリと鎖が鳴る。全身が軋むように痛む。最後の記憶では、戒律騎士団の鉄鎧十数人がヴェルンを取り囲んで押し潰した。あれで圧死しなかったどころか、どうやら骨も折れてはいないようだ。随分と頑丈に出来た身体だ。身体のあちこちに青痣があり、擦過傷に青黒い瘡蓋かさぶたが出来ていた。乾き具合からすると、どうやらまる一日以上、気を失っていたらしかった。

 さて、どうしようか。

 何より腹が空いているのだが、どうやら余り歓迎はされていないらしい。白鏡騎士団の獣戦士とやらの悪名は、ロ=イゼレでも小さくはないようだった。しかも轡を噛まされているので空腹を凌ぐ事も容易ではない。

 このまま飢え渇き死ぬのを待つ腹積もりだろうか。

 一緒にいた騎士たちは無事か。

 第四遊撃隊は?セイラスは。ヴァルトは。戒律騎士団がエラフィアの王都まで攻め入る事はまずあるまいが、ラグナ、オルヴェスは。そして今ではイリアに心配を掛けさせているであろう事が気掛かりだ。

 ・・・いや、どうだろう?心配しているだろうか。

 俺は死んだ事になっているのか。それともエラフィアとの取引の材料となるのか。

 一通り考えを巡らせ、取り敢えず殺されることはあるまい、とヴェルンは楽観した。思い出したのだ。彼らはヴェルンが『神胤』である事を知っていた。本人にしてみれば少しばかり剣の心得がある丈夫なだけが取り柄の騎士団の一員でしかないが、この世界では神胤というだけでよほど利用価値があるものらしい。

 薬師の徒弟見習いが随分と出世したものだ。皮肉な気分に浸っていると、唯一の出入り口である鉄扉の監視窓が開き、何者かが中を覗いた。ヴェルンが覚醒したことに気付き、確認したのであろう。しばら牢内を観察し、ヴェルンとも視線を交わしたが、やがて一言もなく監視窓は閉じられた。 

 鬼が出るか蛇が出るか。

 暫くすると、扉の下の給仕口から皿に盛られたドロドロとした粥らしきものが差し入れられた。

 轡が邪魔をして言葉にならないが、しかし、どうしろと言うのか。

 ロ=イゼレのラオメス天命王は、神因を次々取り立てて身の回りを固めていると聞く。自分の神の血がどれほどの価値を持つのかは判らないが、真教徒も正教徒も同じオルト=エメルを奉じる。もしかすると、そこに好機はあるかもしれなかった。とは言え、手も付けられず、口も開けぬ状況で、この差し入れは何かの冗談だろうか。嫌がらせだとしたら、随分と気の長い拷問である。

 ヴェルンはゴロリと横になると、体力の回復を図るため眠りに就いた。神胤は肝も太いらしい。


  

 戦闘としては勝利したが、ヴェルンが捕虜とされた事は白鏡騎士団と王国軍に動揺を与えていた。セイラスに負けじ劣らず武功を上げて、それを自慢するでもなく恬淡としているヴェルンは、騎士団内でも一目置かれている。王統に属するので個別の報奨といった物とは無縁であるヴェルンは、戦功を配下や国軍の雑兵に譲る事が多い。戦場で救われ、守られた者も数しれない。

 有志が部隊を組織するので今直ぐに救援を、という声が自然と上がってきた。

「ならぬ。決して動くな」

 セイラスは言下に禁じた。状況は動き始めてしまったのだ。ならば最早、選択の余地は無い。

「ヴァルト。王都に戻る。部隊をまとめよ」

「お言葉ですが、ヴェルン様は?まさか見捨てる訳にも参りますまい」

 セイラスは無言でキっとヴァルトを睨んだ。二言は無い、という事だろう。

 やがて、少しだけ気を緩めたようだった。

「よかろう。ヴェルンの第四遊撃隊をロ=イゼレに潜行させよ。可能ならばヴェルンを救い出させよう。ゼイランを此処へ」

 第四遊撃隊副官のゼイラン・グレイドスが呼ばれ、ヴァルト、そしてセイラスから直々に下命される。

 ゼイランは眼の前でヴェルンが囚われ、戒律騎士団の殿しんがり軍の執拗な抵抗にあい、自らも負傷していた。制圧剣士のタロス・ヴィンクロ、神因書紀にして式理士の:ルーミナ・エセルヴァも控えている。

「この命に代えましても、必ずや」

「死ぬな。必ず生きて戻れ。お前には役目がある」

 部下を気遣う言葉を掛けた騎士団総長は、いつものセイラスに戻った、とヴァルトを安堵させた。先程の頑なさは一体何だったのか・・・。

「ヴァルト、改めて我々は王都に戻る。まずは部隊に休息と食事を取らせよ。明朝、日が登る前に出立する。策の仔細は後に指示する」

「策?」

 今度はセイラスからの返事は無かった。事態は動き始めてしまったのだ。今更引き返すことなどは出来ぬ。


 

 ごとり、と閂の抜かれる音が聞こえ、ヴェルンは目を覚ました。まだ節々が痛むが、先程よりは幾分気分が良い。そのまま上体を起こした。

 重たい鉄扉が開かれると、そこには頭巾を被り僧服を纏った見知らぬ男が立っていた。目元は暗く覗けぬ。牢番か拷問吏か。

 皺深い口元は笑顔である。

「ああ、なんと尊きことよ。天翔ける神聖なる御子、至高のヴェルン卿の御前に、このような卑賤なる身が御目通り叶うとは、夢のようでございます」

 慇懃無礼とは正にこの言葉の為にあるだろう。ヴェルンは話者の悪意を感じた。

「はじめてお目にかかります、この身は、微塵にも及ばぬ者、夢審官と申す者にて、レトゥス=ヴァランと畏れ多くも名乗らせていただきます。 何卒、御記憶の片隅にでも、この取るに足らぬ者の名を置いていただけますれば、この上ない光栄に存じます 」

 ヴェルンは無言である。返事をしようにも、轡が邪魔をしている。唸ってみせたところで仕方ない。

「お食事は口が合いませなんだか?少しはロ=イゼレの蕎麦粥を味わってみては如何?」

 ヴェルンの拘束が見えぬはずはない。ヴェルンは夢審官レトゥスの言葉を無意味と聞き流す事にした。優位な立場を嵩に着て人を愚弄せずにはいられないのであろう。耳を塞げないのが残念だ。

 すると、レトゥスは大仰に慌てた素振りを見せた。

「おお!これはしたり。御身の神胤たれば、この程度の拘束など御身を縛る役になど立たぬと誤解申しておりました。これ、轡を」

 同じ僧服姿の弟子にヴェルンの轡を外させる。ヴェルンは溜息を吐き、無言のまま腕を上げて見せた。

「そちらはご勘弁を。ヴェルン卿の勇名は我がロ=イゼレにも轟いております故、例え素手であろうとも、我等など薄紙の如く引き千切られてしまいましょう」

「・・・夢審官とは我が国の式理士のようなものか?」

「左様。我ら夢審官も式理士も、同じ魔道の連座に束ねられますれば。例えばお国のアストリッド・ネル=シエレなどは、我が弟弟子に御座います」

 ヴェルンは思ったほど衝撃を受けなかった。

 罠を仕掛けられた時点で、何某かの企みはあろうと、予測はしていた。問題は誰か、ということになるが、聞いてみればさもありなん、と拍子抜けするくらいだった。しかしあいつは一体幾つなんだ。

 なるほど、今のこの状況を裏で糸を引いていたのはアストリッド、その背後はロ=イゼレであったか。するとセイラスがヴェルンに掃討を命じた事も、或いは繋がっているのかもしれぬ。そして魔道連座は何を意味するか。

 イリアの言葉が蘇る。「決して心を許すな」と。セイラスを義兄と慕ってきたが、つまりこれが答えか。王位とはそれほどにセイラスには大事なものか。ヴェルンは心の中に虚となった荒涼を見た気がしたが、詮無きことと諦める他になかった。

 残念だ。非常に残念であった。本人不在のままで、決別せざるを得ない。しかしそれはそれとして、今は陛下とイリアの身が案じられる。

 セイラスは自らの王位継承に邪魔になる者を排除することを決意したのだ。ヴェルンは確信した。この俺を排し、イリアに先んじ、そして恐らくは陛下も。この様な場所で暇を潰している場合ではない。エラフィアに戻らねばならない。

 打開する手を考えねばならない。

「レトゥスとやら」

「何か?」

「それ以上口を開くな。臭くて敵わぬ。カビ臭い牢内にお前の瘴気が広がって閉口する。弟子も迷惑だろう」

「ほ。これは気付きませなんだ。しかし、その様な拙い挑発はお止め遊ばされよ。・・・まぁ、いずれその小賢しい態度を後悔する事も出来なくなりますがな」

「怒っておるではないか」

「ミコダラス、『語るものを失わせる言葉トゥ=ヴァス=ルア』を行う。夢蝋香を」

 レトゥスはヴェルンを無視することにしたようだ。弟子に呪法の支度を始めさせた。

 レトゥスは案外自制心が強いようだ。却って危険地帯へと踏み込んでしまったかもしれなかった。

語るものを失わせる言葉トゥ=ヴァス=ルア』は被術者の頭を麻痺させ、論理機能と意思決定機能を失わせる。数時間から場合によっては数日に渡って、術者の完全な操り人形となる。ロ=イゼレ王国はヴェルンを意志を奪い操り、神因を良いように利用することにしたようだった。

 蝋香が焚かれ、微かに松脂のような香りが流れ始めた。

 レトゥスとその弟子ミコダラスが、低い声で古代神因聖文オルセメルの詠唱を始める。

 Nai'zul… raen vorh—

 Esem, thurah, kai…

 Loa loaa… lo…… 

 ヴェルンは意味不明な呪文を聞き流そうとしたが、やがて何度頭を振っても意識が朦朧としてくるのを感じた。夢蝋香には極微量のネオロアイトが練り込まれている。この呪法では通常の場合、神因がネオロアイトと反応し、呼吸とともに血流へと流れ込む。青い血を持つ者にとっては、これが術式の通り道となる。

 ヴェルンの額に微かな燐光が集まり始めてきた。意識を保つことが難しくなり、ふっつりと切れそうになったその瞬間、青白い神焔がヴェルンの身体を包み爆ぜた。ネオロアイトがヴェルンの許容臨界を超えたのだ。

 レトゥスとその弟子は、爆轟反応で牢内の石壁へと叩きつけら崩れ落ちた。鉄扉までもが吹き飛び、轟音を立てて落ちる。

 するとその先の廊下から黒い靄が流れ込み、辺りを静寂が包んだ。

《この穢れし塵界にて、愚昧の徒に我が歩みを阻まれるとは、神慮にも背く僭上よな。許すべからざる不敬ぞ》

「誰だ?」

 先程の爆轟反応で牢内の明かりは消えており、廊下の微かな明かりが僅かに差し込むばかり。その薄暗い牢内にあっては、なかなか焦点も合わない。と、見る見る黒い霧は大きな塊を形成し、そのまま凝結して姿を顕にした。

《不躾なるその物言いよ。貴様のような愚か者に、わざわざ我自ら出向いているというのに》

 クロウ=ルグル。玄き神獣の姿がそこにあった。血塗られたように紅い眼が、ヴェルンを睨め付ける。

《茶番はこれまでよ、小癪なる者よ。枷など打ち壊せ。汝が使命を忘れたとでも言うのか?》

「使命?使命とは何だ?俺に何の使命があると言う!神獣よ!おいっ!」

 ヴェルンは立ち上がり、クロウ=ルグルに迫ろうとすると、その姿は瞬時に掻き消えた。残されたヴェルンは目を凝らし、更に周囲を見渡したが、神獣の姿は既にどこにもない。埃にまみれた戸口に、巨大な四足獣の足跡だけが残されていた。

「打ち壊せって、・・・これを?」

 ジャラリ、と太い鎖が鳴る。遠くから衛兵たち迫る足音が近付いていた。ヴェルンは慌てて転がるレトゥスに駆け寄ると、懐を探った。


  

「見たか?」

「見た」

「光りましたね。あれは・・・」

 ゼイラン、タロス、ルーミナの三人はロ=イゼレ王城の一角の廊下に面した窓が一斉に光ったのを見た。

 ロ=イゼレへと潜入した第四遊撃隊は鹵獲した戒律騎士団の重装鎧に身を包み、王城の周りを巡っていた。流石に城内にそのまま入る事は出来ない。誰何されればたちまち露見するだろう。

 遊撃隊の主力は市街の外の森の奥で待機していた。大人数で移動する訳にはいかず、ゼイラン、タロス、ルーミナの三人のみで市内へと入ったのだが、そこで膠着状態に陥っていた。勢いに任せて潜入したのは良いが、何の手立ても無いのだ。

 恐らくは、この王城内に囚えられているのは間違いない。普通の虜囚とは格が違う。王統であり、神人である。しかしまさか無手勝流に殴り込む事は出来ない。戒律騎士団や衛兵に数を頼んで押し殺されるのが関の山だ。

 ロ=イゼレは貧しくはあるが、その一つの理由は人口の多さがある。真教の戒律は避妊や堕胎を赦さない。基本的に多産で、それがまた国費を嵩ませるのである。鉄や石炭といった地下資源が豊富ではあるが、食料自給率が低くその多くを交易で賄わざるを得ない。公然の秘密だが、隷民の売買もその交易の資源と目されていた。

 つまり、城内の守り手には事欠かない。騎士団に入隊すれば食事には有りつけるのだ。練度は低くとも人数が揃えば圧倒できる。戒律騎士団は基本的に人海戦術を得意としていた。

 ヴェルンが囚えられて、まる一日が過ぎようとしている。時間が経てば経つほど、守りを固められて救出は難しくなる。そう判っていても打つ手が無い。

 三人は焦れていた。何らのか策を弄するにしても、果たして三人で可能か。完全に手詰まりで、ただ王城の周囲から見張るしか出来ずにいた。

 


 城内が騒然としてきた。先程の発光現象が発端であろうか。すると式理士のルミーナが何事か呪文を呟き、ゼイランに声を掛けた。

「こちらです!ヴェルン隊長の神因を確認しました!」

「何?!」

「先程の発光は神焔だったようです。隊長が動きだしています!」

 タロスがすらり、と剣を抜いた。

「私が突破口を開きます。今なら守りも手薄かもしれません。踏み込みましょう」

「かもしれんで動けるか!」

「騒ぎに乗じるのです。牢内でなければ、隊長の身柄は確保可能です。迷っている暇はありません」

「ぬ・・・ええい!仕方ない!踏み込むぞ!ルミーナは第四遊撃隊に戻れ!」

「そんな!!」

「誤解するな!!増援が必要に決まっているだろうが!!」

「了解しました!!すぐに駆け付けます!!」

 ルミーナは直ぐ脇を通った騎兵に躍りかかると、そのまま馬を奪い駆け出した。

「行くぞ、タロス!!」

「お任せを」

 ゼイランも剣を抜き、二人は大門へと向かった。

 

 


II

『泡は静かに裂けていた。

 風はなかった

 名もなかった


 その中央に

 ひとつの器が生まれた。

 土を貯め

 熱を覆い

 水を歪ませる器

 人はそれを知らずして踏み

 神はそれを識らずして沈み

 人はそれを“セファ=ノア”と呼んだ』

 〜《オルト=エメル創世神話/国造の章より》〜



 王直属軍務顧問のテリオン=エス=ヴァレンが報告してきた。

「白鏡騎士団が戻りました」

「ん?・・・随分と早くはないか?」

「そうですか・・・?よほど王都が恋しいのでは」

 テリオンはとぼけたが、筆頭宰相のガノル・フェゼインは訝しく思った。戦場となった国境地帯から早馬で一日以上。通常の行軍なら四日は掛かる。ヴェルン凶報からたったの二日、一体どれだけ強行軍で騎士団と王国軍は戻ったのか。

 暫し思案したガノルは、脇に控える従者を近衛隊長に使いに出すことにした。

「近衛兵に陛下の護りを固めるように伝えよ」

「セイラス様にあられますよ?」

「判っておる。念の為だ」

 虫の知らせでではないが、ガノルは底知れぬ不穏な空気を感じ取った。

 人の口に壁は立てられぬ。どこから漏れたか、既に市民たちの間でもヴェルンの凶報の噂は飛び交っている。

 エラフィアにとって北方は底知れぬ脅威の対象として、子供に語るおとぎ話にまでなっている。王統の希望である神胤ヴェルンの不在は市民にも大きな影を落としていた。神胤は神威を退ける、そんな迷信が庶民の間では実しやかに語られる。先の血の雨は記憶に新しい。

 エラフィアはどうなってしまうのか。

 ロ=イゼレはこのまま聖王国へと進攻してくるのではないか。浮足立つ人々に、帰参した白鏡騎士団の疲弊した暗い顔付きは、新たな動揺の種となっている。

 此度の国境紛争は圧倒的な戦勝と知らされているにも関わらず、ただ一人、その中にヴェルンの存在がないというだけで、その行軍の風情はあたかも敗軍の沈鬱なものだった。

 いつもなら心頼もしき聖王国の盾が、王都を不安で包み込もうとしていた。


「おめおめと、よくもそのしゃっ面を見せたものだな、セイラス」

 王宮に戻ると、セイラスと副官のヴァルトは王座の前で跪き、面を伏せた。そこへいきなりの罵倒である。

 ヘリド・ヴァル=セラドレル六世は憤懣を隠さなかった。ロ=イゼレを退けたのは良かろう。しかし神胤ヴェルンを失うとは。取り返しのつかない失態である。

 聖王は鍛え上げろ、と確かに命じた。しかしそれは王統としてそれなりに箔を付けるためである。それをわざわざ最前線に送り込んで、このようの仕儀となるのでは話が違う。

「お言葉ですが陛下。恐れながら申し上げます。ヴェルン様は我が白鏡騎士団でも一二を争う猛将。後方で兵站を担うような役割はヴェルン様も」

「黙れヴァルト。余はお前には聞いておらぬ」

 ヴァルトは恐れ入り、沈黙した。冷や汗が頬を伝う。セイラスは王宮に入ってから、一言も発していない。ヴァルトは今朝、セイラスから告げられた衝撃的な計略を飲み込めず、自分でもどうして良いか判らず、困惑したままでいる。

 騎士団総長のその心中や如何に。

 セイラスが無言のまま、ただ頭を垂れるのみの姿が、またヘリドの怒りを増幅させていた。

「どうするつもりだセイラス。救い出す手立てはあるのか。何故そのままロ=イゼレに踏み込まなかった。テリオン、策はあるのか?!」

「いえ」 

 郁子もなく軍務顧問は短く答えたが、セイラスは面を伏せたままだ。

「余に何も申すことは無い、ということか?どこまで増上しているセイラス。ヴェルンはセルドラル王家の、延いてはエラフィア聖王国の柱となる身ぞ。お前如きとは神因の濃さが比べ物にはならぬわ!」

 聖王の声は、最後は大音声となって玉座を間を震わした。

 玉座の間のみならず、城内が一斉に鎮まり返ったかのようだった。この父子がここまで深刻な状況に陥ったのは、セイラスの誕生以来かつて無く、初めてのことである。

 筆頭宰相のガノル、王家封印記録官のセト、軍務顧問のテリオンといった王政の主だった面々、聖王を守るように取り囲む近衛兵たちでさえ、固唾を呑み、物音ひとつ立てずに見守るしかなかった。

 やがて静かに、セイラスが面を上げた。無表情なその眼に諦めと覚悟が閃いた。微かに笑みさえ浮かんで見える。ヘリドはふと、息子はこんな顔だったか?と疑念を抱いた。何か、何かが・・・。

「・・・む。申し開きがあるか」

「御座いませぬ。もはやその必要は無い、と悟りました」

「何を、」

 とヘリドが言い掛けた瞬間。玉座の間に衝撃と暴風が駆け巡った。何かが爆発したのだ。

 セイラスの行動は早かった。一気に聖王の玉座に駆け寄ると、その頸に逆手に持った短剣を突き立て、ぐるりと一気に頸の周囲を巡らした。青い鮮血が吹き出し、辺りを染める。セイラスは無表情のまま王冠を投げ飛ばし、聖王の頸だった物の髪を掴むと、頚椎に短剣をあてて靭帯を切り、完全に切り離した。まだ爆音の谺が響いている、あっという間に王位は簒奪された。

 近衛兵が玉座に殺到したが、晩きに失した。既に弑逆は完了しており、セイラスは短剣から聖王の長剣に持ち替えている。何人もの悲鳴が続く。

 この騎士団総長の腕前は、国民の多くが知るところである。近衛の兵たちも不用意に踏み込めずたたらを踏んだ。

 セイラスが叫んだ。

「静まれっ!!諸臣ら、その場を動くこと許さぬ!」

 その大音声により、玉座の間を覆う騒擾は一気に沈静化した。騎士団及び王国軍三万に采配を振るう総長の面目躍如といったところか。

「アストリッド!」

 セイラスは宮廷神因式理士を呼んだ。物陰から式理士は現れた。

「遅いぞ。合図から機を図るのに躊躇したではないか」

「ネオロアイトの神焔とは違います。火薬を扱うには導火線というのが必要なのです」

「もう良い。ヴァルト!イリアを拘束したか」

「既に報告が。居室はもぬけの空で、王城内何処を探しても姿は見えぬ、との由」

「見付け出せ。なんとしても始末せねばならん。蟻一匹とて見逃すな」

「はっ」

 ヴァルトは聖騎士団に指示を出すと、自らも駆け出していった。

「何と・・・何ということを・・・」

「何の不思議やある。お前は余に常に申しておったではないか。“王たれ”と」

 筆頭宰相のガノルは、あまりの衝撃に一気に年老いたかのようたった。ヘリドの治世が順風満帆であったとは言わない。多くの問題が山積していた。しかしこの様な惨劇により王位を追われる謂れは無かった。

「ガノル、良く仕えた。その忠節、余は深く認む。フェゼインの地にて、静かな余生を過ごせ。戦塵から遠く離れ、穏やかに暮らすのだ。筆頭宰相の任は、今後テリオンに託す。速やかに職務を引き継ぐよう申し付く。 異論は、ないな?」

 セイラスはてきぱきと引導を渡すと、顔を濡らす聖王の黝い血を拭い凄惨に笑った。

「聴け、諸臣よ。本日只今をもち、余はこの地の聖王となる。玉璽を継ぎし者として宣言する。意義ある者は、今この瞬間に限り、申し立てを許す。剣か、言葉か選ぶがよい。大司教マルティオン!」

「こ、こちらに。お側におります」

「余に戴冠の儀を」

 青い血塗れの王冠が、足元に転がっている。大司教は震え上がりつつも、ようやく王冠を拾い上げてそれを懐に隠し抱いた。

「恐れながらこ、この様な簒奪を正教会が正当化することは至神オルト=エメルが決して許すはずが」

「ならば無用」

 セイラスは眉一つを動かす様子も見せず、大司教マルティオンに歩み寄ると、その場で頸を撥ねた。聖王の青い血に大司教の赤い血が重なる。

「何やら勘違いしておるな。王権は与えられるものではない。自らの手で勝ち取るものと知れ。これは協議ではない。余が『聖王の権能』をもって下す最終宣告なり。王として命じておる。皆、覚悟のうえで、跪け」

 またも転がった血塗られた王冠を拾い上げると、セイラスは自ら頭に戴き、玉座にどかりと腰を下ろし諸臣を睥睨する。玉座の間に居合わせた者全てが気圧され、膝をついた。

 


 レトゥスの懐には、足を繫ぐ拘束具の鍵しか見付からなかった。恐らく自由意志を奪ってから、何処かへ連れ出す算段だったのであろう。

「う、うぅ・・・」

 驚いた。死んだと思っていたレトゥスにはまだ息があったのだ。しかしこれは却って好都合かもしれない。既に廊下からはあちこちで騒ぎが起きている。王城警護の衛兵が走り回っている。

「おい、レトゥスとやら!起きろ!」

「う、・・・う・・・?」

「おい、・・・ぬう、仕方あるまい」

 廊下のすぐ外からは「一体何事だ?!」「おい!牢の扉が!」と、こちらに注意が向いた様子である。一刻を争う。

 ヴェルンは手枷のままレトゥスの頸を囲うように回して、背後からレトゥスを引き立たせた。そこに衛兵たちが踏み込んでくる。

「貴様ら、動くなっ!!」

 ヴェルンは一喝した。

「あっ!」

「レトゥス殿っ!」

「動くなよ?この爺さんの頸をへし折るぞ」

 衛兵たちの間では、このレトゥスなる夢審官はそれなりに高位で著名らしい。ヴェルンの脅しは衛兵たちに一定の効果があるようだった。

「大人しくそこを退け。でなければ俺が獣騎士であることを証明するぞ。素手だからとて、貴様ら如きに遅れは取らん」

 はったりである。

 素手どころか、手枷が拘束している。衛兵たちも本気になればレトゥスを救出することは可能であろう。しかしこの場を支配するのは、ヴェルンであった。

 これもまた神人たる所以かもしれない。ヴェルンの言葉に衛兵たちは呑まれかけている。

 じりじりと、ヴェルンは出口へと移動する。この場を離れさえすれば、レトゥスには用は無い。ヴェルンは足に自信があった。

 衛兵たちは手を拱いて距離を取り後退していく。ヴェルンを逃す訳にはいかないが、かといってレトゥスを見殺しにも出来ないようだ。あまりのんびりともしていられない。衛兵たちの逡巡も長くは保つまい。ヴェルンは折を見計らっていた。

 衛兵たちと睨み合いながら、牢の出口に差し掛かった。気圧されて後退する衛兵たちの背後にはまばらな人数が覗くのみ。

 今しかない。

 ヴェルンは気合を入れると、思いっ切りレトゥスの身体を衛兵たちに向けて放り投げた。と同時に、転がる衛兵たちの上を勢いをつけて飛び抜ける。

 一気に走り抜け、こちらに立ち向かおうとして狼狽する衛兵に足をかけて転がす。次の衛兵が剣を抜いて向かってくるのを手枷で受けて凌ぎ、思いっ切り壁に叩きつけた。その衛兵の手から長剣をもぎ取ると、更に駆ける。次の衛兵は振り回した剣の犠牲となった。

 正直ロ=イゼレの王宮内は不案内である。遮二無二駆けながら、行き合う者は切って捨てた。もはや戦場駆けである。ヴェルンは手枷と鎖に制限されながらも、獣騎士の本能が蘇ってきているのを感じた。

 


「・・・だいぶ騒がしくなってきましたね」

「お陰で抜剣していても不審とは見られぬな。しかし・・・」

「なんです?」

「ルーミナを連れてくるべきだったか。よく考えたら俺達には隊長の神因は判らんぞ」

 ゼイランとタロスである。王城内のあちこちで騒ぎが起きていた。衛兵たちが走り回っているのが見える。

「いったい、隊長はどこにいるのか・・・」

「なに簡単です。必ず騒ぎの中心にいます。ここは戦場です」

「・・・その通りだ」

 二人は目立たぬように、騒乱の中心へと足早に移動する。

 

  

 ヴェルンは城内で完全に方向感覚を喪失していた。要するに迷子である。

 とにかく、この手枷をどうにかしたいが、じっくりと考えている暇が無い。《打ち壊せ》というクロウ=ルグルの言葉を思い出し、途中何度か壁に叩きつけたり、襲い掛かる衛兵に叩きつけたりにしていたが、なかなか壊れる物ではない。当たり前だが、簡単に壊れるようなら枷の用を為さない。

 すると城内の騒ぎの凪に入り込んでしまったかのような場所に辿り着いた。礼拝堂であろう。恐る恐る確認したが、誰も堂内にはいない。ヴェルンは心を決めると、そこに立て籠もる事にして、扉を閉めた。

「集中しろ、集中しろ俺。他のことは何も考えるな、集中しろ」

 呪文の様に繰り返すと、全身全霊の力を手首に込め始めた。

 分厚い木製の手枷である。鉄ではない。鉄ではなく木製の、木でできただけの・・・。

「おおおお!」

 自然と唸り声が漏れる。全身の血管が浮き上がり、痩せ型のヴェルンの何処にこんな筋肉が、と驚くような縄目の様な筋肉が盛り上がる。汗が吹き出し、眼の前が真っ青になってきた。

 めきっ、と手枷から音が鳴った。


 

 イリアは王宮侍道長のミュリア・エルネストに「国を出る」と告げた。ヴェルンの凶報の直ぐ後である。

「国を?どういうことです?どうしてこんな時に?!」

「こんな時だからだ。身の安全を確保せねばならぬ」

 イリアの切迫した様子に戸惑い、ミュリアは納得しかねる表情である。

「どういう事でしょうか」

「後でいくらでもゆっくり説明する。今はとにかくエラフィアから姿を消すことが先決なのだ」

 姿を消す、という不穏な響きにミュリアはますます困惑した。

「しかし・・・」

「我が胎内にヴェルンの胤が宿っておるのだ!」

 確信があった。

 およそ一ヶ月前にただ一度、一夜を共にしただけであったが、イリアは新しい生命を授かる啓示を受けていた。

 それは白昼夢であった。

 幼兒が、湯気を立ててと煮え立つ大鍋から吹き出した泡が溢れるのを眺めている。その手には杓があり、その吹き溢れた泡を杓で掬い、イリアの腹部に注ぐ、というところで、イリアは目覚めた。

 特に意味があるとは思えぬ内容だったのだが、妙に生々しい。実際、イリアは下腹部に刺すような熱さを覚えて目覚めたのだ。

 まさかと思いつつ下腹部を確認すると、白い肌に紅斑が現れ、触れるとチリチリと痛みまで感じる。火傷しているようだった。

「これはまさか・・・」

 三性生殖の啓示ではあるまいか。

 有り得ぬ話ではない。ヴェルンは神人であり、イリアは貴人である。近いとは言え神人初代と貴人とでは身分は異なると解釈も出来よう。しかもセルドラル家の神因はかなり薄まっている。

 そしてオルト=エメルの顕現は老人や、妙齢の女性、そして子供と様々な姿をとり、法則は無い。あの子供はオルト=エメルか。あの大鍋はオルト=エメルの鼎か。

 ただし聞いたことがない。神胤が二代続くなど、創世神話にも正教会の神因解釈にも存在しない。神胤そのものが稀なのだ。現にエラフィアには数十年に渡って、神胤の空白があった。

「ヴェルン様と?まぁ!それはお目出度うございます!・・・しかし、それと国を出る事とどう繋がりますので?」

「だからそれは後でいくらでも説明をする!ここは危険なのだ!今はとにかく急げ!」

「は、は、はい!」

 ミュリアのおっとりとした性格は普段なら好ましいのだが、この場ではただ焦れるばかりだ。遂にイリアは痺れを切らし、怒鳴るように指示した。ミュリアはイリアの剣幕に呑まれ、馬車の手配を女官に命じた。

 女官のセリス、侍道長のミュリアと、護衛としてヴェルンが残した聖騎士のナイ=フェルアと共に乗り込む。

「どちらへ参りましょう」

「まずは市街へ。薬師オルヴェスを頼る」

 イリアは何としてもヴェルンの胤を護る覚悟だった。それはかつてヴェルンに明かしたエラフィアを我が物にという野望の延長か、今は行き方知れずの夫への思慕か、イリアにも判別出来なかった。



  III

『それは男でもなく女でもなく

 母でもなく父でもなかった


 交わりを越えし時

 神の名なき肢は

 ふたつを繋ぎ

 ふたつの命は

 三つ目の胎を持った


 その胎は神因を宿す

 王として

 胎として

 剣として』

 〜《オルト=エメル創世神話》より〜


『オルト=エメルの意識は旧き記憶、見当つけ難く曖昧になれり。何ゆえ此の地に在るや。今いつの時ぞ、此の処いずこぞ。幻覚、せん妄現れては消え、消えてはまた現る。往昔は叶ひしことも、今は成したり成さなかったり、意識定まらぬ浮き沈みの様なり。

 造り上げたる世に強き執心示すかと見れば、放り捨てて興味失せ、自らを分かちては飲み込み、また分かちては飲み込み。もはや世界を支えること叶はぬ。己が似姿を世界に撒き散らせど、既に似たりや否やも判らず。ただ本能の赴くままに子を為さんとすれど、その徴強き光芒を放ちて消えゆく』

 〜古の神因預言者の記錄より〜



「お加減はいかが?」

 声を掛けられ、ヴェルンは正気を取り戻した。

「驚くべき汗ですこと。お怪我もされているように見受けられるますね」

「う、ここは?・・・そうか」

 手枷であった残骸が足元に転がっていた。全力を込めて手首を捻り、引っ張り、を繰り返す内に、手枷はみしりと鳴ると、やがてバキバキと音を立てて壊れた。ヴェルン全身の力が抜け、その場にへたり込み、どうやら暫く意識を失っていた。

「ここは礼拝堂です。どうやら城内が騒がしいようですので、私はここで過ごそうと思いまして。あなたは、見慣れない顔ですね」

 女官が二人、付き従っている。ヴェルンに怯えているようだった。武官の姿は無い。

「俺は、・・・俺はヴェルン。エラフィア騎士団の一員だ」

「まあ、遠いところからお越しくださったのですね。もしかして、義父上のお客様でいらっしゃいますか?わたくし、エスニーリア・ネル=イゼレと申します。」

 長い銀髪が揺れ、青灰色の瞳がヴェルンを見詰める。

 客と言えば客ではある。招待状は力任せで乱暴なものだったが。

 この女性たちは、取り敢えず脅威ではないようだった。

 手首には鎖を繫ぐ金具が残っていた。手首を拘束する木製部分が壊れてしまえば、難なく抜ける。

 ヴェルンは手首を擦った。手首が擦れて青い血が滲み痛みもあるが、先程までと比べれば圧倒的に自由である。これが神因の力か。凄まじいものだが、相当な集中力を要する。おいそれと発揮できる能力ではなさそうだった。ヴェルンは肩を回して、身体の凝りを解した。

 鉄製の腰帯と手枷を繫ぐ鎖は今はどうにもならないが、手足が思い通りに動くのであれば、もはや個々の戒律騎士団など、ヴェルンの敵ではない。

「ふむ・・・」

「あの、よろしければそのお召し物についてお聞かせいたいても?」

「お国の方に預けております。貴女方はここを動かないように。では失礼」

 周囲を見回すと、杖を持つオルト=エメルの銅像が目に入った。 

 反撃の時だ。


「姫様、お待たせいたしました!賊は?!」

「一歩遅かったな。不審者なら既におらぬ」

「追い掛けます!」

「止めておけ。あれはエラフィアから連行したという、神胤の獣騎士とやらであろ。戦闘になって巻き込まれれば、妾は無論のこと、貴公らもまず無事では済むまい。見てみろ」

 足元の壊れた手枷を指し示す。

「素手で壊せる物ではあるまい?そもそも手を出す事が間違えておったのだ」

 先程までの夢見るが如きエスニーリアとは、まるで別人の様な変貌ぶりであった。

 


 第四遊撃隊のゼイランとタロスは城内を探って回るのだが、ヴェルンの姿は見当たらなかった。衛兵たちは口々にヴェルンの消息を尋ねる。 

「見付けたか?」

「いや判らぬ。何処に隠れたのか」

「礼拝堂は見たか?」

「まだだ。そんなに早く移動できるか?」

 王城の衛兵たちが右往左往する中で情報を集めようとするのだが、隊長の行方は杳として知れぬ。身を潜めているなら、戒律騎士団に扮している我々の前に姿を表すことはないかもしれない。

 ゼイランは一計を案じた。セファ=ノア大陸共通リ=ヴェル語ではなく、古式鏡語ミロワリスで白鏡騎士団の忠誠呼号を叫びだしたのである。

お前は何を映すかKel vas ir”?」

 ゼイランの意図を察し、タロスも呼応した。

お前は何を映すかKel vas ir”?」

お前は何を映すかKel vas ir”?」

 返事はない。本物の戒律騎士団や衛兵の近くで大声で古式鏡語ミロワリスを使う訳にもいかない。周囲に人のいない所で忠誠呼号を繰り返す。

「わぁ!」

 と騒ぐ怒号が風に乗って流れてきた。「あっちだ!」衛兵たちがその騒ぎに向かって駆けていく。

 ゼイランとタロスは顔を見合わせると、その後を追った。



 ヴェルンの杖術は我流なのだが、その杖使いはもはや舞踏のように優雅にさえ見えた。

 些か物騒なのは、その行き着く先の周囲には王城警護の衛兵たちが、思い思いの姿で昏倒しており、その数が増え続けていくことか。その手には銅製の杖が握られており、重さは三クラン(約十一キロ強)にはなろうかという長大なものだ。

 物凄い速さで振り回されているので、掠るだけでも被害は甚大である。正面から剣で受けるとあっさりと折れ、その勢いも殺せずに重たい打擲を受ける事になる。

 次に狙いを付けた戒律騎士団員に向けて振りかぶると、その騎士は左掌をヴェルンに向けて左右に大きく振り、大声で古式鏡語ミロワリスを叫んだ。

お前は何を映すかKel vas ir?」

己を写さぬ鏡をMir vas ael!おい、白鏡騎士団か?!」

「隊長!俺です、ゼイランとタロスです!!」

「おお!すまない、危うく殺すところだった」

 敵陣内とはいえ、物騒極まりない。

 合流を喜んでいる暇はない。次々と衛兵が集まってきており、活路を見出さねばならぬ。

 周囲に衛兵たちが集まってくるのを三人は斬り伏せ倒しながら、走り出す。

「とにかく、門外へ出ましょう!外でルーミナ達が待機していますっ」

「城門は閉まっているんじゃないか?」

 当たり前である。ヴェルンの逃亡が伝えられてすぐ、分厚い城門はがっちりと閉められていた。

 ヴェルンは周囲を見渡す。高い塀の横に更に高い尖塔が目に入った。物見の塔であろう。

「あそこへ行くぞ!物見の塔から堀へ飛び込む!!」

「頼もしいねぇ、うちの隊長は。タロス!先行しろ殿しんがりは俺が引き受ける!一気に駆け抜けるぞ!」

「了解しました」

 制圧剣士のタロス・ヴィンクロは隷民のネアン種出身で、人亜種の混血であった。その筋骨の太さと、力任せに繰り出す剣技は騎士団内でも畏れられている。

 ヴェルンの眼の前で暴風が吹き荒れ始めた。寄せて来る衛兵たちが文字通りに吹き飛ぶ。

 城内に踏み込むと、タロスは無造作に数人を纏めて扉の外へと放り出し、ゼイランが追い付くのを待って扉を閉じ、閂を下ろした。

「これで暫くは時間が稼げます」

「あっちだ。尖塔は南側に見た!」

 タロスとゼイランは、重たい戒律騎士団の鎧を脱ぎ捨てた。ここからは時間を費やしていられぬ。三人は一斉に回廊を走り出した。

「誰ぞ?」

 角を曲がると、共を従えた禿頭の老人と、警護を固める衛兵の集団に行き当たった。脱走騒ぎが治まるまで、避難するつもりだったのかもしれない。服装からすると真教の高位の神官であるかもしれなかった。しかし構っている暇は無い。

「控えろ下郎!!これなるは畏れ多くも天命王ラオメス=イゼレ十三世様にあらせられるぞ!!」

 ヴェルンは控えもしなければ、遠慮もしなかった。密集隊形で剣を抜くのもままならない衛兵たちの集団に躍りかかると、壁を蹴り、中央の天命王に襲い掛かる。手にした銅製の重たい杖が、天命王の脳天に振り下ろされた。

 あっという間である。衛兵は勿論、ゼイラン、タロスたちでさえも身動きする暇が無かったくらいだ。

「猊下!!」

 恐慌状態となった集団の内側から、ヴェルンは次々と打ち倒していく。怯んだ衛兵たちを、外周からゼイラン、タロスがヴェルンを援護し斬り倒す。

 気付いた時には、既に集団は全滅していた。

「隊長、あんた無茶苦茶だよ・・・」

「構うものか。少しでも国境紛争が減るなら。今回、俺が目を付けられた経緯にはアストリッドの裏切りと、ロ=イゼレが裏で何事かを企んだ疑いがある」

 ヴェルンの脳裏には、初陣で荼毘に付した乳飲み子の姿があった。行き掛けの駄賃というには、少しばかり格差が大きいが、これでロ=イゼレの内政が乱れれば、暫くは国外に手を出す余裕もなくなるだろう。

 三人は先を急いだ。途中で出会う衛兵は三人掛かりで片付け、回廊の先に回り階段を発見、尖塔の物見櫓へと駆け上がった。眼下には外堀が見える。

「行くぞ!」

 ヴェルンは一瞬も躊躇わず、塔から飛び降りた。



「この様なむさ苦しいところに、姫様をお迎えする事になるとは・・・」

 馬車で市街にはいると、御者を城に戻した。頭巾姿で市街を抜け、イリアは真っ直ぐにオルヴェスの薬師工房へと向かった。夕刻で徒弟たちは帰り支度をしている。オルヴェスは四人連れの来客に気付くと、「今日は仕舞いだよ。申し訳ないけど明日また出直してくれないか」と声を掛けた。

「明日では困るのだ。身を寄せる場所も無い」

 イリアは頭巾を上げると、オルヴェスにだけ顔を見せた。

「え、ええっ?!」

「しっ」

 イリアが口元で指を一本立てる。騒ぐな、ということだ。

「薬師オルヴェス。助力願いたい」

「取り敢えず、奥へ。ラグナ、案内してさしあげろ」

 ラグナは戸惑いながらも四人を奥の間に通すと、オルヴェスは工房の扉を閉めた。一人が残り扉の前に陣取る。見張り役を買って出たのは騎士のナイ=フェルアであった。

「姫様、この様な時ですが、ヴェルンは・・・」

 ラグナは市街を駆け巡ったヴェルンの噂を確かめた。

「すまぬ。詳細は私にも判らぬのだ。気休めを言ってやれず、自分の性格が嫌になる。行き方知れず、としか」

「そうですか・・・」

「ただし、原因については心当たりがある。今の所は秘中の秘だ。他言無用に願いたいが、それで構わぬなら私の思う所を述べよう」

「それは、城中で申された事に関係が?」

 ミュリアが真剣な顔付きになる。オルヴェスとラグナは躊躇った。

「私ら如き庶民が聞いても?」

「まぁいずれ、近い内に明るみに出る。まず恐らく、兄上は陛下を弑し奉り、王位簒奪の決意を固められたはずだ」

「ええっ?!」

 その場の全員が息を呑んだ。当然だ。平和の続くエラフィアでは、王位簒奪など建国当時くらいにしか例が無い。

「何を根拠にそのような!」

 ミュリアが叫ぶように問い質す。事実ならとんでもない陰謀である。

「確証は無い。ヴェルンが囚われた。この事で誰が得をする?」

「得ですか?まず、ロ=イゼレのラオメス十三世、そして・・・」

「兄上が王位継承権第一位に返り咲いた」

 イリアは遠慮せずにズバリと言い放つ。

「ロ=イゼレと兄上とで利害の一致を見たのだ。裏取引の疑いがある。恐らくヴェルンは罠に掛けられた。ヴェルンは騎士団で有能過ぎた。いずれ兄上を差し置いて総長に推す声が出ても不思議はあるまい」

 買い被りではない。実際、ヴェルンは次々と手柄を上げている。神胤の出自と相俟って、国民の人気も高い。

「兄上も心穏やかではなかったはずだ、王位も騎士団総長位も、神人相手となればいずれは敵わないだろう。ならば・・・」

 イリアもさすがに言葉にする事は止めた。憶測を口にしたことで事実になる、という事もある。

「まさか・・・」

 ラグナが思わず呟いた。

 イリアはこのヴェルンの義姉を気遣ってやりたかったが、今この場で嘘を吐くべきではない、と考えているようだった。

「そう思っても不思議は無い、という事だ。恐らくは兄上も天秤に掛けていたはずだ。どっちに転んでも良いように。ヴェルンが囚えられれば動く。無事なら次の一手、というような」

 腑に落ちない顔をするミュリア、セリス、オルヴェスとラグナ。この様な大事を運命に委ねるなどということがあろうか。飛躍していないだろうか・・・?

「もちろん、全て憶測だ。証拠は無い。だが事実だった場合、陛下は勿論、私も無事ではない」

「セイラス様がそこまでなさいますか?」

「するな。何故なら私はヴェルンの子を宿している」

 ラグナの顔がみるみる蒼白になった。言葉も出ないようだ。

「兄上にしてみれば、ヴェルンの次は私の子ということになるだろう。なぁ?セリス。アストリッドに報告してあるのだろう?」

「ほ、報告?!いえ、改めてそのようなことは。アストリッド卿に姫様の所在確かめられたので、お邪魔させてはならないと思い・・・」

「責めているのではない。ヤツのことだ。どうせ察しは着いていたはずだ。確かめたかっただけだろうよ」

 セリスにしてみれば、悪意は無かった。ただアストリッドに「姫様は?」と尋ねられ、普通に「只今はヴェルン様とご対話の最中に御座います」と返事しただけだ。

「アストリッドは兄上の腹心だ。私は兄上がヤツに心理的に誘導されたまで有り得ると考えている。これまでにも兄上は大事な局面で式理士殿を頼ることが度々あった」

「しかして、これからどうなさいます?薬師の私には些か手に余る事態に思えますが」

「まずは匿ってもらいたい。出来ればタレン国境付近に。お前の親戚にリュ=オルマに暮らす者がいるな?」

「おります。ご存知でしたか」

「ヴェルンの人定で御身も徹底的に調べられた。ヴェルンの血統は遂に確かめられなかったそうだが・・・」

 ヴェルンを仲介した者の半数は、既に生と死の女神アイブ=カルマの下へと帰っていた。

 ノエミルは救護院で徐々に回復しつつあるが、この場の誰もヴェルンの母の事は知らない。

「近い内に兄上は帰参する。その時に何が起きるか。事と次第によっては、国を出てタレン公海連邦に保護を願う事になるかもしれない」

 

 

  IV

『 最初にあったのは

 泡のゆらぎ

 神の心ではなく

 風の息でもない。


 それは、何かが「間違えた」音だった。

 神は泡に問いを投げた。

 「我とは、何語か」

 泡は答えなかった。

 だが揺れた。』

 〜《オルト=エメル創世神話》より〜

 


「十三世が・・・?」

「神胤の虜囚に討たれたとか。哀れなことよ」

「レトゥスも口程にもない」

「獣相手に侮ったのであろう」

「獣はどうなった?」

「逃げおおせたようだ」

「十三世は頭を砕かれたとか。神の御心と合わぬな」

「預言より早過ぎる。奴の御代は今しばらく続かねばならぬ」

「エスニーリアの婚儀が済むまでは」

「左様、左様」

神律前書ファ=ル=エスから外れてもらっては些か具合が良くない」

「已むを得まい。反響影造ヴェル=アスルを執り行う」

「ナクシス=イル=ファレン第零審官か」

「うむ。ナクシス=イル=ファレン第霊審官に諮るべし」


 

 セファ=ノア大陸に、エラフィア聖王国国王、ヘリド・ヴァル=セラドレル六世崩御の報が駆け巡った。

 ほどなくして、エラフィア聖王国国王名義にて三つの王令が布告された。

 

 朕、セイラス・ヴァル=セラドレル三世は、神意と皇祖の御霊に誓い、以下のことを宣す。

 一、 先王たるヘリド・ヴァル=セラドレル六世の崩御により、朕が王位を継承し、直ちに親政を開始する。

 一、朕は、ロ=イゼレ天命王ラオメス=イゼレ十三世が娘、第一王女エスニーリア=ネル=イゼレとの婚姻を正式に認め、両国の絆を永遠とこしえならしむ。

 一、朕の治世において、国教をオルト=エメルが一柱の真教に定め、その教えをもって国是とす。よって正教会は解体し、真教会を新設するものなり。

 これらは朕の絶対なる意志なり。諸侯・百官は速やかにこれに従い、怠り背く者は容赦せず。

 エラフィア暦千九十三年十一月二十一日

 セイラス・ヴァル=セラドレル三世


 無言で布告の立て札を読んでいた娘は、目立たぬように雑踏に紛れた。いつもの騎士の革鎧姿ではなく、今はラグナ・オルヴェスより借りた薬師の徒弟らしき作業上着に、町娘らしく巻きスカートを履いている。異国からの流行であるらしく多くの女が着ていた。歩き難いのだが目立たぬために仕方がない。

 ここは泡潮の揺都・リュ=オルマ。

 娘は聖騎士第四遊撃隊のナイ=フェルアである。

 エラフィア聖王国とタレン公海連邦との国境に位置し、事実上は干渉交易自由区として、合法的に越境流通が認められた商都である。

 リュ=オルマには、エラフィア王都の薬師ミル・オルヴェスの従兄弟、アルマス・オルヴェリンが小売の店を構えていた。商材は多岐に渡るが主に雑貨や装飾品が多かった。ラグナの案内で、イリア達一行はリュ=オルマのアルマスの店へと辿り着いた。

 その店舗の二階に、ラグナ、イリア、ミュリア、セリスが潜んでいる。アルの店では宿は営んでいないが、行商人が泊まる部屋を用意しており、その一室を借り上げていた。目立たぬよう外出は控え、外用は聖騎士のナイ=フェルアとラグナが引き受けている。

 フェルアは、布告の内容を四人に報告した。

「やはり、な。ロ=イゼレが絡んできた。それもなかなか露骨ではないか」

「それじゃ、陛下は・・・」

「兄上は躊躇わなかったのであろうよ。崩御だと?陛下はご健勝であったぞ?」

 ミュリアは息を呑んだ。あのまま王都に残っていたらどうなっていただろうか。筆頭宰相のガノル・フェゼインは、引退しフェゼイン領へと帰ったのだが、程なくして自ら死を選んだという。これも本当に自らなのか、今は確かめようが無い。

 フェルアは買い出しのついでに街のあちこちで噂を収集してきている。曰く、イリアの消息としては、病臥し重篤との事らしかった。

「消息不明、とは言わぬのか。ふふん。どうやら、見つけ次第始末する気のようだな。兄上もなかなか手抜かりが無い。しかしエスニーリア・ネル=イゼレとは予想外だったな」

「ご存知ですか?」

 ラグナは尋ねた。

 隣国とはいえ、ロ=イゼレ王家の内情はエラフィアではあまり一般に知られてはいない。神因を掻き集めては王家に取り込むので、ラオメス=イゼレ十三世の実子よりも、養子の数の方が多いと噂されている。

「知っている。地方貴族の妾腹の娘で、最も有名なところで言えば、エスニーリアはヴェルンと同じく、三性の神胤だ。兄上としては王統としての地盤を固めるお心算つもりなのだろうな」

 呑み込まれるとも思わずに、とはイリアは言葉にはしなかった。

「さて、ラグナ殿」

「え、あ、はい!」

「ここまで甘えておいて言えた義理ではないのだが・・・、貴女には本当に世話になった。心より感謝を。・・・しかしここから先、私と関わり合うことが貴方にとって本当に良いことか、私としてはとてものこと首肯しかねる。我々はこのままエラフィアを出奔し、一先ずタレンを拠点とする。これ以上、この莫迦げた状況に貴方を巻き込むのは、いくら私でもオルヴェスにもヴェルンにも申し開きのしようがない」

 イリアは真剣な顔でラグナと向き合う。

「今の私には貴方の献身に何の礼も返せない。何の約束も出来ない。僅かばかりの礼金を差し出すしか他にないのだ。寛恕願いたい」

「お礼金なんて!父さんやヴェルンに聞かれたら怒られるわ。姫様、姫様のお腹にいるのは義弟おとうとの子なんですよ?私にとっては甥っ子か姪っ子です。ここで一肌脱がなくって、いつお役に立てると言うんですか」

 本来なら王統の婚姻である。ラグナがヴェルンの子と直接会える機会は、恐らく無かった。

「いや、それは困る。身の危険も有り得るのだ」

「王都に帰ったって、危険な事には変わりはありません。ヴェルンの身寄りというだけで、どんな目に合わせられるか。王都に残した父さんの方がよほど危ないわ」

「それは・・・確かに、その通りだ」

 珍しくイリアが押され気味になっていた。

 ラグナは王都を出る際、オルヴェスに言い含められていた。

「姫様の言うことが杞憂なら良いんだ。お前はここに帰ってくればいい。だが何かあった場合、姫様の言うことが少しでも当たるようなら、王都にいるのは危ない。お前はアルマスの所で暫く厄介になっておけ。向こうでも薬師の修行は出来るだろう?父さんは大丈夫。いざとなれば薬師の連座が守ってくれる。貴人だって王族だって風邪をひかない訳にはいかないんだからな」

 ラグナの危惧は尤もだ。

 正教会が解体され、真教に取って代わられるというのはそれほど簡単な話ではない。

 正教会は司法の府であり律法の府であり、行政の中心でもあったのだ。セラドレル家は正教会を代表する王権であった。その正教会が解体された。今、王都の治安はかつて無いほど荒れているであろう。

 エラフィア外縁に及ぶまで時間は掛かるだろうが、王都では現在、何が起きているのか、イリアでさえも想像を躊躇うほどだ。

「奪うように与えよ」

 真教徒はそう唱え、国境付近で収奪と殺戮を繰り返していたのだ。これまでとは異なる論理が働いている。それはこれまでエラフィアで倫理や秩序と呼んでいたものとは、かなり様変わりをしているだろう。

「ここまで来ておいて、残れなんて酷いわ!もうエラフィアは以前のエラフィアではないんですよ?!それに、一蓮托生って言うじゃない」

「いや待て。では言おう。これから先、ラグナ殿は足手まといになる。ここからは自分で自分の身を守れなければ、捨て置くしかないのだ」

 イリアの本心ではない。しかし、この場ではこうでも言わなければ、ラグナの心は動きそうになかった。しかし頑固と言うならばラグナはイリアにも引けを取らない。

「はっ!足手まといなら姫様も負けてはいないでしょうが!賄いも繕いものも買い物だって一人じゃ出来ないでしょっ!!」

「ぬっ、ぐ」

 ラグナの言う通りである。イリアに生活能力は無いに等しい。

 ミュリアとセリスは息を呑んだ。イリアが言い負かされる場面など、絶えて久しく見た記憶がない。相手がヘリド・ヴァル=セラドレル六世であっても一歩も引かずに丁々発止の舌戦を繰り広げたイリアが。

「あの、姫様」

 セリスが口を挟んだ。ぎろり、とイリアとラグナが睨みつける。セリスは自分が石になるかと思った。

「もうここは姫様が折れる場面にございます。ラグナがいれば色々と心強いですし、何より私が助かります」

 イリアの身の回りの世話は、今ではセリス一人が一手に引き受けている。ミュリアやナイ=フェルアも賄いという点では、あまり役に立ってはいなかった。

「しかし・・女ばかりでここから先の旅路は心許ないぞ」

 聖騎士とはいえ、ナイ=フェルア一人が護衛ではこれから異国に潜入するのに不用心に過ぎる。

「それなら、私に一人心当たりがあります」

 ラグナは階下へと降りていった。



 ヴェルンたち一行は、雲外蒼天を一心に願いながらロ=イゼレの戒律騎士団やたちを振り切り、人知れず針葉樹の森の奥で野営していた。一人の犠牲も出さずに逃げ果せたのは、奇跡に等しい。全員が疲労困憊していた。

 ロ=イゼレ王城脱出から既に三日経っている。

 これから人里を避けて森伝いに国境を越える算段であった。そこに斥候に出ていたゼイランとルーミナから凶報がもたらされた。

 ヘリド・ヴァル=セラドレル六世崩御。

「陛下が?間違いないのか?」

「行商人から聞きました。奴らの情報網の速さと正確さは、生活が掛かってるから信用出来ます」

 金が掛かりますがね、とゼイランは革財布を振ってみせた。

「詳しい話は聞けたのか?」

「既に王令の布告が出ているそうです。総長が王位を継がれた由」

義兄あに上が・・・」

「しかも、ロ=イゼレの姫君とのご婚儀が整いあそばされるとか」

「そんな莫迦な!」

 第四遊撃隊の面々は信じられぬ、と口々に疑念を漏らした。

 つい先日、大規模会戦があったばかりである。それが今度は結婚?急展開に過ぎる。、有り得ないではないか。紛争当事国同士で結婚話など出来しゅったいしようか。

「いったい何が起きているのだ・・・。どうにも、測りかねるな・・・。どう動くべきか」

「ここからは商人たちの無責任な噂話になりますがね」

「聞いておこう」

「どうやら総長は陛下を弑逆し簒奪した、と噂されてます。そしてイリア様」

「おお。ご無事なのか?!」

「ご病気、とされていますが、既に王都にはいない、との噂も。王都に入った戒律騎士団が血眼で行方を追っているそうです」

「イリア様までが・・・」

 いやしかしあの方が大人しく身柄を拘束される筈がない。あの手この手を尽くして、身の安全を諮るに違いない。既にこの状況は予測していただろう。ヴェルンには妙な確信があった。

「それに加えて、もう一つ妙な話が」

「既に妙な話で腹が膨れそうだぞ?」

=

「何っ?!」

 ヴェルンを中心に、第四遊撃隊全員に衝撃が奔る。

 流石に信じ難い。

 確かにヴェルンが手を下した。嫌な手応えもあったのだ。頭蓋が割れても人は生きていられるというのなら話は別だが。

 ではあの時のラオメス=イゼレ十三世を名乗った老人はなんだったのか。影武者?人違い?あの時の集団の中で、一番高位と思われる人物を間違いなく狙った筈だ。

 いや確かに護衛の一人が「猊下っ!」と叫んだのを聞いている。その様な芝居を打つ余裕も意味も有るはずはなかった。

「あり得ないだろう。一体どういう事だ・・・。確かなのか?」

「エスニーリア女王のお輿入れを国民を前に

「私が察しまするに」

 ルーミナが口を挟んだ。ルーミナは騎士にして神因式理士でもある。

「詳しくは知りませんが、ロ=イゼレの夢審官の秘儀には、人の写しを作り出す魔道があるとか」

「どういう事だ?蘇ったとでも?」

「いえ。それは時を操る事になり、根源神オルト=エメルでさえも不可能です。あくまで人を写すのであって、本人であり本人ではありません」

「どういう理屈なのだそれは・・・そんな事が可能なのか?」

「エラフィアの神因式理にはその様な秘儀は聞いたことが御座いません。あくまでもロ=イゼレの夢審官が操る魔道です」

 ヴェルンは自分を操ろうとしていたレトゥスなる老夢審官を思い出した。ロ=イゼレは伏魔殿か。うそ寒い感覚に肌が泡立つ思いだった。

 考えてみれば、この三日間もどこから探り出したのか、度々戒律騎士団と邂逅しては、或いは降し、或いは這々の体で逃げ回っている。これもヴェルンの神因を探られている、と考えれば平仄が合うのかもしれぬ。

「ロ=イゼレの影響圏から早く出ねばなるまいな。しかし・・・」

「エラフィアも安全とは言えませんね、今となっては」

 ゼイランが軽く溜息をついて干し肉を齧る。ここ三日、火を使えないので携帯糧食のみで過ごしている。それも残りは心許ない。

「ええぃ!言っちまおう。隊長に告白せにゃならんことがあります」

義兄あに上と通じていた事か?」

「ご存知だったんですか?!おっかねぇな隊長。念の為言っときますけど、密告するような事はうちの隊にはありませんでしたからね?騎士団総長の命令だから報告しろって言われりゃ、そりゃ報告はしますよ」

「探られて痛む腹も無いからな。いや、俺も今となってみればそうかと察しがついただけのことだ。義兄あに上は俺を気遣っていたのかと思っていたが、つまりは見張っていたのだな」

「まぁ、そういうことです。そこでこっからが本題ですが、恐らくエラフィアに戻れば、隊長は勿論、我々の命はありません。隊長を救い出すために袂を分かった時点で、もう我々の命運も決していた、と見るべきです」

「そう、なるのか・・・」

「隊長が救い出せなければ、まだ良かったかもしれない。しかし我々は救出に成功した。この事は既に総長の耳に入っているでしょう。総長は全力で貴方の始末をしなきゃならない。貴方が生きていれば、正当なエラフィアの王位の行方が揺らぎますからね。そして、それを知っている我々諸共」

 くいっ、とゼイランは頸を切る仕草をしてみせた。

 ヴェルンは眉を顰めた。ただ生き延びるだけで他人の命まで歪めねばならない運命とは何なのか。神に悪意は無い。ただ人が悪意と解する。本当にそうか?

「みな、すまない。俺に関わったばっかりに」

「謝らんでくださいよ。深刻に考えたら死にたくなる」

 医式兵のヴェズ・ラン=ソラが笑い飛ばし、周囲にも笑いが巻き起こる。あの時、隊長を救う、という船に全員で乗った。行く先にこんな巨大な暗礁があるなどと、あの時点では誰も知る由がなかったのだ。

 我々は既にエラフィアの正規兵ではなく、脱走兵扱いなのだ。

「そうか・・・。そうだな。よし」

 ヴェルンは決意を固めた。

「一旦はロ=イゼレを脱出しヴァルカ=ナール山岳諸侯連合を目指す。まずはその為に全力を尽くそう。そして、そこからは皆の自由意志に任せたい。国に残した家族が心配でもあるはずだ。そうあるべきだ。呼び寄せて暮らすのもいいかもしれない。まず家族を第一に考えてくれ。そしてその上で、もし思う所があるなら」

 隊員の全員が真剣な面持ちでヴェルンの言葉を聞く。エラフィアへ帰るには、

「俺に協力して欲しい。俺は簒奪者、セイラス・ヴァル=セラドレルを討ち、エラフィアを取り戻す。家族イリアを守るために」

 しかし、それにはまず暗黒の神威の森エメラノルを越えねばならなかった。

 

 



 

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