オルト=エメルの鼎
遠近普遍
神獣の子
『神の
しかし神は
羹に浮き出す泡は
味も材も沸え具合も異なり
櫂無き神は羹を
神はそれを
即ち、世界の誕生である』
〜《オルト=エメル創世神話》より〜
ヴェルンを身籠った事が判った時、ヴェルンの母は怯えた。これは不浄の子であり不義の子であり不吉の象徴である。この獣の子が産まれれば、喪に服す身で姦通を犯した事が露見する。
あってはならぬことだ。
正教会の審問は避けられない。
ノエミル・ヴァス=セリンドレルは三年の服喪中、ちょうど半年前に、夢の中で四足の玄き神獣に凌辱された。この事は家令を除き誰にも口にしてはいなかったのが不幸中の幸い、だったのかどうか。今となっては確信が持てない。
ノエミルは一人静かに就寝していた。
その夢の中でも、甲斐甲斐しく亡き夫に鎮魂の祈りを捧げるべく、祭壇の前で灰色の薄紗に包まれ傅いていた。若くして先立った夫は、ノエミルに家族を遺すことが出来なかった。互いの為人を深く知る以前に、風邪に似た流行り病を得て、高熱を発し病苦のあげくに横死を遂げた。
夢の中での祈りの最中、突如、背後から玄く大きな獣に襲われた。暴風がノエミルを押し倒したのだ。
神獣クロウ・ルグル。
体高五ナブ(約百五十センチ)に達しようかという、玄く巨大な狼の姿で顕現した虚無の獣である。
玄狼はくぐもった唸り声を上げてノエミルを組み伏せると、驚愕に声も出せぬ寡婦を、一瞬の内にめりめりと乱暴に貫いた。
「ひぃっ!」
恐ろしさの余りに上げた自らの大きな悲鳴で、ノエミルは目覚めた。夢か現か判然とせず、恐慌を来し叫び続ける中、家令が駆け付け助け起こされた時に、ノエミルは気付いた。悪夢にうなされ、じっとりと汗ばみ濡れた身体には、獣の玄い毛が一房、二房、残されていた。
深更の事である。
屋敷内は静まり返り、寂として声もない。
屋敷の表を乞食行者が足を引き摺り歩くのみ。
「ふふっ、・・・ふぇっ、・・・」
と、何が楽しいのか、途切れ途切れに笑いながら、行者は遠ざかっていく。やがてその足音も消えた。
ノエミルは神獣の母神ナル=シェールと豊穣神ソール=ネレイアを呪った。口に出さなければ神も聞こえまい。いや、聞こえているなら、むしろその方が良い。
あれは夢ではなかったのか?
あの時の獣毛は、本物だったというのか。
何故、この私が選ばれた!
夫を亡くし、セリンドレル領を治める事はますます難しくなっていた。儚げで美しくはあっても、ノエミルには神因たる血の青さが足りぬ。何の後ろ盾もなく、神因も薄く、領土を経営する才覚も無いノエミルには、領主として夫に変わる事は不可能だった。喪が開けたら教会を頼り、僧院の奥で静かに生きるしかない、と密かに思っていたのだ。
それもこの懐妊で難しくなる。何としても秘匿せねばならなかった。堕ろすには既に遅過ぎた。
流れて欲しいと願い、長湯をしたり薬草を煎じて飲んだりしたが、いずれも効果はなかった。
神獣の子は強かった。
日に日に大きくなる腹を抱え、ノエミルの恐怖はいや増した。
打ち明けた秘密を知る家令と、乳母として新たに雇った召使を除き、ノエミルは家臣たちを全てを解雇した。セリンドレル家の領地は王統に預け、ノエミルはしぶしぶ覚悟を決めざるを得なかった。
四ヶ月後、ヴェルンが産声を上げた後、何も知らずに取り上げた産婆はヴェルンの臍の緒と共に始末された。セリンドレル領主の屋敷に残った四人は領内の片隅にある小さな屋敷に自らを半ば幽閉するかのように引き籠もった。
数年は何とかなる蓄えがある。表向きは心労のため、とされていたが、ヴェルンが乳離を済ませるまでは、というノエミルの、極く僅かに残された母親としての気遣い、或いはそれはいずれ訪れる日への贖罪だったかもしれない。
本来であればソール=ネレイア豊穣神の神殿で祝福を受けねばならないその男の子は、殆ど誰にも知られぬまますくすく育ち、自分の足で立ち上がる様になると、僅かなリス=マル金貨と「ヴェルン」という名前だけを携えて、薬師のミル・オルヴェスに引き取られた。
ノエミルはこの決して表に出てはならぬ不義の子を慎重に複数人を介して預けたので、ヴェルンとはこれが今生の別れとなるだろう。事情は徹底的に伏せられ、ただとある貴族の落とし胤とだけ、オルヴェスには伝えられた。ノエミルはヴェルンの落ち着き先を尋ねなかった。
仲介した一人は、ノエミルの家令の手により闇に葬り去られ、ヴェルンの血統を辿る術はそこで完全に絶たれた。
詳しい経緯を知らぬオルヴェスは、事の次第を勝手に察すると、それ以上の憶測は止めた。そういう事が無いでもない。根源神オルト=エメルの思し召しであろう。養い子として育てる事にした。
セリンドレル領は王統に召し上げられ、ノエミルはエラフィアの表舞台からその姿を消した。ノエミルは神の好色の二重の犠牲者だった。
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