理性の崇拝

秋野 公一

目覚めと眠り。

チは吠える。食べ物のでも、主人の手にも。もちろんシバにも。

ただ吠えた。吠えれば骨がもらえると、そう思い込んでいたからだ。

彼は無意味なほどに小さく、無意味なほどに騒がしかった。その遠吠えなど、この宇宙では誰も聞いていないのに。


シバは吠えない。たまに砂場が家を荒らし、なにかいい知れぬ恐怖に襲われたときは、たまに唸ることはあるにはあった。


ロベスは、新聞を読んでいる。古ぼけた、変色した新聞をぼんやりと読んでいる。紙面には『大統領暗殺』や『第二次日中戦争勃発』などと書かれていたが、フランス人のロベスには関係のない話だった。

 ロベスは古紙を眺めるのに飽きたのか、ふと

「いいか、これは実験だ。君たちはもう動物ではない。新たな共和国の市民だ。」と言った。


 シバは眠かった。

ただ、飼い主の目がチを睨んでいたことだけは、なぜか胸の奥に小さな針のように残った。


 ある夜、ロベスは相変わらず退屈そうな顔で犬を眺めていた。先程訪問してきたちょび髭で七三分けの男と少し談笑した後、彼はあの朽ちた椅子に腰をかけた。

 チに噛まれた背中の傷が疼いたが、少し顔を顰めるだけだった。

 チは部屋の隅で震えていた。以前一度だけ、家の周りを散歩していた時に不意にぶん殴られた記憶がチの脳内で再生されていた。血濡れたチを手当てするでもなく、玄関の前に放置していた過去はシバも知るところであった。

 その翌日から、チのエサはわずか1/4になり、代わりに「理性よほえろ」と書かれたかみがそこかしこに貼られていた。


 シバはエサに興味がなかった。ただ、その紙を眺めた。

 何かが変だった。何かが――おかしいという感覚が、彼の中に初めて芽生えた。



ロベスの言葉が、少しだけ理解できるようになった気がした。

 「吠えるな。考えろ。」


チは吠えた。ロベスの友人に顔を打たれたが、それでも吠え続けた。シバは吠えなかった。


「なぜ?」とまでは思えない。

ただシバの脳内に、今までなかった“重さ”のようなものが、少しずつ積もりはじめていた。

 シバはチを見た。震える小さな背中。昔と何も変わっていないはずの犬は、違和感を感じた。


その瞬間、シバの世界にはじめて「比較」が生まれた。そして、比較の次に生まれるのは、「疑問」だった。



ーーー


その夜、ロベスは眠っていた。チも禿げた頭と抜け落ちた毛がそこかしこに散乱していた。


シバは立ち上がった。

見たことのない天井の染み、扉の先に続く廊下。そのすべてが、何かを告げている気がした。

彼の前足は、自然とドアに向かっていた。



外には、音がなかった。

風も鳥も、木も、なかった。

穴の空いた宇宙センターと、打ち捨てられた戦車や戦闘機、そして半壊したホワイトハウスには日章旗が突き刺さっていた。


シバは歩いた。歩いて、歩いて、歩いて――

そして気づいた。


「誰もいない。」


この惑星はすでに終わっていたのだ。

かつて理性の名のもとに秩序を築こうとした者たちの末路なのかもしれなかった。


吹きすさぶ灰の中、シバの中で「自由」とは何かが問い直される。

自由とは、広大な選択肢か?

それとも、選ぶ相手がいることなのか?



玄関はまだ開いていた。

ロベスはソファで新聞を切り抜いていた。

チはまたロベスの友人に顔を蹴られていたが、それもまた日常だった。

シバは、ゆっくりと中に入った。


「おかえり。」


ロベスがそう言ったかどうかはわからない。

ただシバは、その言葉を理解したような気がした。


知性を持ったシバは、もう「ただの犬」ではなかった。

だが、終わりゆくこの世界では「ただの犬」に過ぎなかった。

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