第10話 その匂いが好きだった

「ちゃんと食べて寝て、しっかり身体作りするっすよ。体壊したら元も子もないんすから」


 カルゴは半ば強引に、日に日に悪化しているリオの肩を掴んで椅子に押し込んだ。ぎし、と木製の背もたれが不満げに軋む。


「……」


 リオは抵抗するわけでもなく、ただ黙ってカルゴの言うがままにされていた。


「ったく、これで何かあったら親方にどやされるのは俺なんすからね?」


 傷だらけの少女の手に包帯を巻きながら、カルゴは無意識に舌打ちしそうになるのを堪えた。

 布が肉に張りついている。剣の柄を握り潰すように修練していた証拠。

 指の節々は腫れ、皮膚の下では内出血が斑になっていた。


「ほんと、ここまで自分を追い込めるのは一体誰に似たのかしら」


「十中八九あの人しかいねえっすけど」


 カルゴとアネットは、同じ人のことを思い出し、苦笑する。

 だがリオは、何も返さない。ただ、じっと包帯が巻かれていく様子を見ていた。


 見ているようで、見ていない。

 誰か別の人間の腕を眺めているかのように――他人事のような、空っぽの視線が、そこにはあって……


「まったく、手のかかるこって。ほーらお嬢。お食事の時間すよー」


 カルゴはわざと明るい調子で話しかける。

 すると少しだけ、リオのまつ毛と琥珀の瞳が揺れた。


「……うん」


 返事は、まるでカラクリのよう。最低限の反応しかしない。

 でも、それでもカルゴは小さく安堵する。返事が、あるだけまだマシだと。


 椅子に座るリオの肩は、異様なまでに細かった。

 抱えた剣の分、筋肉はついているはずなのに、こうして椅子に丸まっていると、まるでただの少女だった。


 ――あんなに剣を振るっているというのに。


 何もかも、不調和。


「カルゴさん、アネットさん、ごめんなさい」


 次第にぽろぽろと大粒の涙を浮かべるリオに、二人は困惑する。

 同時に、年相応の様子を浮かべる少女に安堵した。


「……はあ、今日は剣持つの禁止。せっかく街にいるんだしなんか買いに行きましょか」


「え?」


「そうね。リオ、お洋服とか興味ない?」


「いや、ないです……」


 そんなリオの意見は聞かず、強制的に連れ出す二人だった。




 ◆◇



 三人で並んで、街の舗道を歩いていた。

 久しぶりに、剣も何も持たずに、普通の格好で。

 身体のあちこちがまだ重くて、擦れた傷も痛むけど、それでもこうして歩くのは、いつぶりだろう。


 道行く人たちのざわめき、陽のあたる石畳、店の暖簾から漂ってくる匂い――それら全部が、ちょっとした別世界みたいだった。


 こうして見ると、やっぱり自分は本当に別世界に来たんだと実感する。


「おお、あんた、最近見かけんから心配したんだぞ……って、横の二人は?」


 そんなとき、通りの店先から、声がかかった。

 葉巻を片手に、口元でくゆらせながら笑っているおじさん。


 顔を見た瞬間、カルゴさんがふっと笑う。


「あぁー、妹っす」


 って、当然のように答えた。

 ……妹?

 どう見ても、見た目が全員違いすぎるんだけど。


「はあ、偉い別嬪やなぁ。こら将来有望やな」


 おじさんは、一瞬首を傾げたが、何かを察したのか、からかうように笑って、自分とアネットさんを見た。


「ここは、なんですか?」


「親方の好きな葉巻店っすよ」


 そう言いながら、カルゴさんが笑った。


 確かに、嗅ぎ慣れた匂い思い出の匂いが、ぐっと押し寄せてきた気がした。

 薪が爆ぜる音、焚き火の煙、葉巻と獣脂の混じった空気――

 全部、そこにあったはずの日常を思い出す。


 タバコとか、そういうのは苦手だけど、不思議なことに、この匂いだけは、何故か好きになっていて、思わず、目を伏せてしまった。


 こんなとき、どう顔をすればよかったんだろう。

 微笑む? 平気なふりをする? それとも、泣いてもいい?


 ……分からない。


「というかあんたなぁ、小さな子まで此処に連れて来んなよ」


「いやー、まあ、どうしても連れてきたかったんすよ」


「……変なやつだなぁ」


 そう言って、おじさんは煙の輪をふっと吐き出して、店の奥へ引っ込んでいく。

 残された自分たちは、そのまま店先に立ち尽くしてた。


 カルゴさんが、なんでもないように笑ってる。アネットさんも、ほんの少しだけ、自分を気遣うように目を細めてくれてた。


 それだけで、胸が、ちょっとだけ苦しくなった。


 何をしてても、どこにいても、頭のどこかで考えてる。


 もっと振らないと。もっと、上手くならなきゃ。次に同じ場面が来たとき、絶対に止まらないように。剣を握ってないと、自分が自分じゃなくなるみたい。


 誰かと一緒に笑ってると、何かが置き去りになるみたいで、怖くなる。

 でも、今のこの時間は、そうじゃなかった。カルゴさんの作ってくれた“普通”が、少しだけ、その怖さを遠ざけてくれていた。


 ノマドさんの足跡が、自分を守ってくれてるような、そんな気もする。

 ――だけど、それも、風にさらされればいつか消えてしまうのかもしれない。


 火が消えれば煙は途切れて、匂いも、輪郭も、記憶の中で曖昧になっていく。

 だから、自分は。


「……それ、売ってもらえませんか」


 気づけば、口が勝手に動いていた。


 店の奥へ戻りかけていたおじさんが振り返る。

 自分は、葉巻の煙が立ちこめる空間の前で、まっすぐにその匂いを見上げていた。


「ん? お嬢ちゃん、葉巻が欲しいのか?」


「……はい。一本だけでいいんです」


「リオ?」


 カルゴさんが驚いたように言う。

 アネットさんも、小さく眉をひそめて、心配そうにこちらを見ていた。


「大丈夫。吸わないから……持ってるだけでいいの」


 それは本当の気持ちだった。

 火をつけるつもりなんてなかった。吸ったこともないし、興味もない。


 でも、この匂いだけは――忘れたくなかった。


 煙の残り香。夜の焚き火。ノマドさんが腕組みしながら何か考えてる横顔。

 あの人の背中と一緒にあった空気を、自分の手の中に留めておきたかった。


 買いたいというより、“抱えていたい”に近かった。


「……変わってんな、お嬢ちゃん」


 おじさんは苦笑しながらも、無造作に紙でくるんだ一本を手渡してくれた。


「はいよ。こいつは香りがきついからな。大事にしな」


「ありがとう、ございます」


 包みを、両手で受け取る。


 それだけのことなのに、胸の奥がちくりと痛んで、目の奥が熱くなる。


 記憶が、逃げていく前に。せめて、一つでも多く手元に残しておきたくて。

 そんなわがままを、今だけは許してほしかった。


「……よし、じゃあ次行こっかリオ、服屋さんも付き合ってくれる?」


 アネットさんが、少しだけ声の調子を変えて、手を差し伸べてきた。

 その手を見て、わずかにためらったけれど――小さく、うなずいた。


「……うん」


 包み紙を大事に、上着の内ポケットにしまいながら、自分はまた一歩、前に出た。

 ノマドさんが残してくれた足跡の、その続きをなぞるように。


 

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