君の隣が、いちばん遠い
葉山心愛
Prologue~近くて、遠い教室~
朝の教室には、まだ誰もいなかった。
黒板は静かに壁に立ち、整然と並ぶ机と椅子が、夜の間に冷えきった空気をそのまま抱えている。
窓の外から差し込む朝の光だけが、教室の中にやわらかい温度を与えていて———
その光の中に、ひとり、少女の姿があった。
佐倉ひよりは、教室の前から三番目、窓際の席に座っていた。
制服のブレザーの袖をきちんと伸ばし、音を立てないように静かにシャープペンシルを走らせる。
ページの端は、何度も繰り返された学習の跡で、ほんの少し角が丸くなっていた。
「……よし」
声に出さずに呟いて、問題集のページをめくる。
まだ時計は七時半にもなっていない。チャイムが鳴るまで、あと一時間以上ある。
だけど、ひよりにとってこの時間は、“避難所”みたいなものだった。
家では、音を立てないようにしている。
叔母の家に身を寄せている立場で、気を遣うのは当然だと思っていたから———
だけど、心のどこかで思っていた。
ただ、早く家を出たいって———
この時間の教室には、誰もいない。
誰にも気を遣わずにすむ、唯一の場所だった。
鉛筆の芯が軽く紙をこすり、ページに静かな音が広がっていく。
その音だけが、彼女の“朝”を刻んでいた。
──ガラッ。
突然、教室のドアが開く音がした。
反射的に顔を上げると、そこに立っていたのは、あの人だった。
一ノ瀬遥。
ひよりと同じクラスの、いや、中学のときから同じ学校の男子。
けれど、話したことは一度もなかった男子だった。
背が高くて、整った顔立ちで、誰にでも自然に話しかけるような雰囲気を持っている。
女子からの人気も高い、そんな存在。
ひよりはとっさに目を逸らした。
遥はこちらには気づいていないようで、友達に会釈をして、後ろの席に向かって歩いていった。
──良かった。
そう思ったのと同時に、胸の奥に小さな痛みが走った。
中学の頃から、ずっと目で追っていた。
自分にはない、明るさとまっすぐさを持っている人だと思った。
けれど、それは絶対に知られてはいけない気持ちだった。
だって、わたしなんかが──。
気づかないままでいて。君に、わたしのことなんて──
その時、背中にふわりと視線を感じた。
振り返ることはしなかったけれど、間違いなく、あの席からだった。
わたしは、誰にも甘えられない。
それは、もうずっと前から決めていたことだ。
それでも、たまに、どうしようもなく寂しくなる瞬間がある。
……たとえば、こんな朝の、ひとりきりの教室で。
同じ教室にいるのに、名前を呼んだこともない。
ただ、それだけの関係なのに。
彼の隣は、
わたしにとって、いちばん遠い場所だった。
君の隣が、いちばん遠い 葉山心愛 @CoCoLo1992
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。君の隣が、いちばん遠いの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます