第12話
森の緑が、急に重たくなった。
木々の密度が減り、代わりに広がるのは──じめっとした空気と、黒ずんだ地面。
足元がぬかるむ。
「……沼地、か」
ザラが眉をしかめ、靴を泥から抜き上げながらつぶやいた。
「ここ、斥候の報告でも出てたっけ?」
セファが地図を手に首を傾げる。
「記録はあった。でも、これほど広いとは……思わなかったわ」
道なき道を進む足元は、ぐずりと音を立てる。
ただの水たまりではない。
腐葉土が積もり、水分が染み、
長年かけて出来た“湿った墓場”のような地面だった。
そして──
「……なんだ、あれ」
拓海が思わず呟く。
視線の先。
そこには、木々のような何かがあった。
いや──木なのだろう。
だがその幹はまるで“蔦が絡み合って編まれたような形状”をしており、
一部はまるで脈打つように微かに動いていた。
密集している。
細い蔓が絡まり、幹に見え、
葉は一切ついていない。
風は吹いていないのに、
蔓の一部が時折、ぬるりと動く。
まるで──見ているようだった。
誰も言葉を発しない。
その異様な静けさに、
自然と全員の足音が控えめになっていく。
鳥の声も、虫の鳴き声もない。
そこにあるのは、湿った空気と……“何かの気配”。
歩けば歩くほど、風景が“壊れていく”。
最初はただのぬかるみだった。
だが、その泥の中に埋まっていたのは──
「……頭蓋骨?」
拓海がしゃがみ込み、泥の隙間から突き出た“それ”を見た。
人間のもの。大きさと形からそう判断できる。
ただし、骨の表面には植物のような蔓が絡まり、
まるで“頭蓋骨そのものが地面から生えている”ようにも見えた。
ザラが目を細め、少し離れた場所を指差す。
「……おい、あれ見ろよ」
そこにあったのは、
3本の朽ちた棒に吊るされた──無数の頭蓋骨でできたトーテムのような構造物。
頭骨の間には腐った獣の骨も交ざり、
紐ではなく“植物の根”のような繊維で編み込まれていた。
一つの頭蓋骨は、こちらを見て笑っているかのように、
口元が異様に開いていた。
「誰かの……信仰?」
セファが低く呟く。
「……あるいは、警告だな」
木々の根元にも異変があった。
太く地を這う根が、
途中で“人間の腕のような形”を取って曲がっていた。
まるで、
埋められた人間がそのまま植物に変じたような、そんな構造。
蔦が這い、そこに“生きていた記憶”を留めているかのようにうごめいている。
アミラが近くの“生えているように見える”木に手をかけようとした瞬間──
ぬる、と表皮がわずかに脈動した。
彼女はすぐに引き、指先に付いた緑色の粘液を見つめる。
「……」
無言で首を横に振り、
“これは触れるべきではない”と判断する。
誰も何も言わず、歩き続けた。
空は晴れているはずなのに、
この沼地には一筋の光も届いていないように感じた。
まるで──
ここだけ、何か“別のもの”に侵食されている。
ぬかるみに足を取られながらも、彼らは進んでいた。
その時だった。
──ブゥゥゥゥゥゥン……。
風でもない。
声でもない。
不快な“低周波”のような音が、地面の下から立ち上ってきた。
「……あ?」
ザラが眉をひそめた瞬間、
湿地の茂みがガサリと揺れた。
──ブゥン!!
そこから飛び出してきたのは──
「……う、っ!」
思わず拓海が息を詰める。
それは──巨大な蚊だった。
体長は大人の前腕ほどもある。
腹は不自然に膨れ、透けて血管のようなものが浮かび上がっている。
眼は紅く、無数に割れた複眼。
そして何より──
異様に長く尖った“針”が、喉元を狙って伸びてくる!
「ちょっ……!」
拓海が咄嗟に身をかがめた瞬間、
その針が頬をかすめ、ヒュンと風を裂いた。
ザラが叫ぶ。
「出た! 血ィ吸うやつだ!! 数匹、来るぞ!!」
その声と同時に、
背後の木陰から──さらに二匹の巨蚊が舞い上がった。
湿地の空気が羽音で震える。
「っ、気持ち悪っ……!!」
皮膚の上を何かが這うようなゾワゾワ感が、拓海の背筋を走る。
この沼地はただ不気味なだけじゃない──
“吸血生物の巣”だ。
ザラが槍を構える。
セファは手をかざし、霊の気配を呼び始める。
アミラは一歩も動かず、敵の挙動を冷静に観察していた。
「拓海! 撃てるならクロスボウだ!」
「……わ、わかった!」
「っ、くそ……!」
拓海は腰のクロスボウを引き抜き、
息を止めて狙いを定めた。
目の前を旋回する巨蚊──
複眼がこちらを捉え、血を欲するように針を震わせている。
(落ち着け、狙って──)
指がトリガーにかかる。
だが、その瞬間。
──ブン!!
蚊が、こちらに向かって一直線に飛び込んできた。
「ッ……!」
拓海は反射的にトリガーを引いた。
──シュッ!
弾は放たれた──
が、蚊の羽根をかすめ、虚空へ逸れた。
「──外した……!」
クロスボウは軽く震え、
手の中で虚しく揺れる。
巨蚊が迫る。
赤黒い針が、今にも喉を貫こうと伸び──
「オラァァァッ!!」
ザラの怒号と共に、
横から横薙ぎの“黒槍”が叩き込まれた。
──バシュッ!!
乾いた破裂音とともに、巨蚊の腹が爆ぜる。
血と黄色い体液、砕けた翅と節足が宙に舞い、
視界を不快な液体が覆った。
「ぐ、うわっ……!」
拓海は思わず一歩引く。
ぬめる血が顔に飛び、背筋が思い切りゾワッとした。
ザラは槍を片手に振り抜きながら、笑って叫ぶ。
「狙うより、叩け! あんなもん“虫”だ!!」
「む、虫ってレベルじゃねぇだろ……!!」
息を切らす拓海の肩を軽く叩いて、ザラはにやりと笑った。
「次は当てろよ、拓海くん?」
「わかったよ……」
だが、その軽口が、
少しだけ恐怖を和らげたのも確かだった。
まだ空を舞っていた、残る二匹の巨蚊。
ブゥゥゥン……と羽音が唸り、
複眼が仲間たちを貫くように見据えていた。
「こっちは私が」
セファが静かに一歩、前に出た。
その手を胸元に当てて囁くように呟くと──
「来て」
──ヒュ……
風もないのに、空気が“引き裂かれた”。
彼女の背後から滲み出るように現れた、黒い影。
それは明確な姿形を持たないが、
呻くような声を上げて、獲物を見つけるとすぐさま飛び出した。
巨蚊の一体が気づく暇もなく、
その“影”に巻きつかれた──
──ギャッ!!
蚊の翅が腐るように溶け落ち、
無様に地へ墜落した。
そのまま黒い霧に覆われて動かなくなる。
(……追うんだな、あれ)
拓海はその異様な現象に寒気を覚えながらも、
クロスボウの装填に集中する。
レールを確認し、矢を溝に押し込む──
指が少し震えていたが、歯を食いしばって止めた。
その間にも、最後の巨蚊が
低く飛翔しながら別角度からの接近を狙っていた。
──キィン!
乾いた金属音。
その直後、蚊の首元に投げナイフが深々と突き刺さった。
そして──
──もう一発。
まるで“読んでいたかのように”、
横に跳ねた蚊の腹に、次のナイフが突き立つ。
アミラだった。
無言のまま、
第三のナイフを手に取るが──その必要はなかった。
二発の命中弾により、
蚊は空中で腹を裂かれ、血を撒き散らしながら地に落ちた。
アミラはひと息も乱さず、ふいと視線を森の奥へ戻した。
拓海はようやく装填を終えたクロスボウを構え直し、
軽く息を整えた。
(……次は、俺が“撃つ番”だ)
「……来るぞ、第二波だ!」
ザラの声が、鋭く森の奥へと向けられる。
──ブゥゥゥゥン……。
低い羽音が、再び湿地に満ち始める。
だが今回は──
“数”が違った。
茂みの向こう、
無数の黒点が浮かび上がる。
「くそ、群れで来るのかよ……!」
セファが再び構える。
アミラも手元のナイフを一枚、手に取りなおした。
だがその中で──拓海だけが、一歩、前に出た。
「俺がやる」
短く呟き、クロスボウを肩に構える。
両足をしっかりと地につけ、
視線をブレずに一点へ集中させる。
(落ち着け。目で追うな、動きの“軌道”を読め)
群れのうちの一匹──
先頭で直線的に突っ込んでくる蚊の動きに狙いを定める。
心臓の鼓動が、耳の奥で響く。
(ここだ──)
──シュッ!
クロスボウが吠える。
放たれた矢は、湿った空気を切り裂き、
巨大な蚊の胸部へと一直線に飛んだ。
──ズッ!
命中。
複眼が潰れ、体液が飛び散る中──
巨蚊はよろめきながら墜落し、
ぬかるみに沈んだ。
「……やった」
拓海が低く、吐息混じりに呟く。
視線の先でザラがにやりと笑う。
「……ようやく“一人前”って感じになってきたじゃねぇか」
背中ではセファが、
再び霊を呼び出し、残る個体に備えていた。
アミラも、無言で投擲体勢を整える。
「……十分、距離は詰めた」
拓海はクロスボウを腰に戻し、
背筋を伸ばして──曲刀の柄を握った。
しゃきん、と金属音が響く。
その刃は、今や彼の手に馴染み、
“恐怖より前に動ける”自分の武器となっていた。
──ブゥゥゥン!
一体の巨蚊が、直線的に飛び込んでくる。
その動きは単調だ。
まっすぐ、首元を目がけて。
(……わかる)
拓海は一歩だけ斜めに動き、
相手の針が届く瞬間──
刃を、横から滑らせるように走らせた。
──ズバァッ!!
赤黒い体液が舞う。
切り伏せた巨蚊はそのまま地に沈み、
翅がビリビリと音を立てて痙攣する。
すぐに次が来る。
(次は左上──)
飛び込んでくる音と振動を読んで、
体を低くしてから、反転。
──ズシャッ!!
曲刀が逆袈裟に振り抜かれ、
二体目も泥へと崩れ落ちた。
ザラの怒号が響く。
「よっしゃあ! やったれぇ!!」
彼女は突きで巨蚊の頭部を貫き、
そのまま地面に叩きつける。
「何が蚊だよ! デカすぎて殺し甲斐あるっつーの!」
セファの影霊が三体に分裂し、
空中の個体を追い詰めて潰していく。
呻くような霊の声と共に、翅が焼け落ちるように崩れた。
そしてアミラは──
次々と飛んでくる蚊に対し、
無言のままナイフを放つ。
一投、一殺。
動きが止まった瞬間に投げ、
異常な命中精度で眉間・腹・胸へと突き立てる。
湿地には血と粘液が飛び散り、
倒れた虫たちが“生き物の群れ”だった証だけを残して沈んでいった。
そして拓海は──
三体目の突撃を受け流し、刃を上から振り下ろす。
──グシャ。
蚊の頭部が裂け、抵抗のないまま倒れる。
息を吸い、汗を拭わず、構えを崩さず──
彼は仲間と並び立つ。
「……っは……来るなら、全部来いよ」
誰もが彼のその一言に、
戦士としての片鱗を見た。
ー ー ー
ようやく羽音が消えた。
森と沼地に漂っていた不快な低周波が霧散し、
一帯には不自然な静けさが戻っていた。
──だが地面を見れば、終わってなどいなかった。
ぬかるんだ湿地のそこかしこに、
巨大な蚊の死骸が半分泥に埋まりながらピクピクと痙攣していた。
脚を震わせ、
翅が乾いた音を立てて時折バタつく。
「うげぇ……気持ちわりぃなぁ……」
拓海が思わず顔をしかめて後ずさる。
そんな中で、ザラが楽しそうにしゃがみ込んだ。
「ん~~~……よし、今夜の晩飯はこいつらで決まりだな。」
「はぁ!?」
拓海が素で声を上げた。
「いやいやいやいやいやいや……待て待て待て! どこの世界にこんなの食う奴いんだよ……!」
「カレナ=ヴェイル、だろ?」
ザラは得意げに蚊の腹を突きながら返す。
「見ろよこの栄養たっぷりな腹! たっぷたぷだぜ?
しっかり焼けばいけるって。香ばしく、サクサクに。たぶんな」
「たぶんが怖いっての……」
セファが顔を真っ青にして手で口を覆う。
「ご、ごめん……私、それは……さすがに無理……。
ていうか、味が想像できない……というかしたくない……」
「拓海くんも嫌だよね……?」
「……うん。てか、あんなので腹壊したら死ぬだろ普通……」
そんな中──
アミラが無言で、こくり、こくりと頷いていた。
「……」
「…………」
一同が彼女を見る。
拓海がそっと聞く。
「……食うの?」
アミラは無言のまま、
軽く頷いた。
「マジか……」
「やっぱ戦場の女は違うな……」
ザラが満足げに頷きながら、
巨蚊の羽根をちょいと引きちぎり始める。
「ま、食べられるかは試してからだな。焼くと意外と美味いかもよ?」
拓海は泥と体液だらけの刀を拭いながら、
生きることの逞しさと恐ろしさをひしひしと実感した。
「──この腹の部分、柔らかいな。たぶんここが可食部だ」
ザラが巨大な蚊の腹部をナイフで割きながら呟いた。
黄色い脂のようなものがねっとりと滲み、
泥と血の混じった空気に、わずかな異臭が立ち込める。
「脚はいらねぇな。内臓もたぶんヤバい。
こっちの繊維っぽい筋肉、焼けば何とかなるだろ」
アミラは無言で頷き、
別の死体から同じように腹部だけを切り分けていく。
動きは速く、迷いもない。
指先が汚れても一切気にせず、
淡々と“食べるための部位”を集めていた。
横目でそれを見ながら──
拓海はぬかるみにしゃがみ込み、
自分の服についた赤黒い体液を黙々と拭いていた。
「……あー、くそ……粘っこい……」
袖口にこびりついた粘液は、
乾くと白濁し、悪臭を発しはじめていた。
「こっちも戦場って感じだな……」
着ているのは、ヨミがくれた中東風の衣装。
サイズが大きくてゆるめだったのが、幸い、肌に直接は触れていなかった。
それでも、体液が跳ねた場所からかすかに痒みが広がっていた。
セファがそっと布を渡してくる。
「これ、消毒用。」
「助かる……」
体液の拭き取りと、消毒。
アミラたちの“獲るための作業”とは正反対に、
拓海は“生き延びるための後始末”をしていた。
それでも、
誰も彼もが、この世界で“当たり前のようにそうしている”。
──これが、日常。
ザラが笑う。
「しかしさぁ……初めてじゃね? 虫解体してんのに腹減ってきたの」
「……理解できん……」
セファは耳を塞ぎながら、
空腹が訪れないことだけを神に感謝していた。
湿地の中のわずかに乾いた小丘のような場所に、
彼らは小休止の拠点を構えた。
倒木を囲うように腰を下ろし、
しばしの息をつく……はずだった。
「だからよ、火通せば平気って。むしろ栄養価高いんだって、虫は」
ザラが自信満々に肉塊を掲げる。
それは先ほど切り分けた蚊の腹部の肉。
水分を多く含んでいて、焼けばジューシーになりそう──
だったが、その見た目はどう見ても虫。
セファが顔を引きつらせながら言った。
「……あのねザラ、それってあくまで普通の虫の話じゃない?
あれは……サイズも構造もおかしいし、色だって……なんか……」
「見た目で判断してたら、この世界じゃ食うもんなくなるぜ?」
「じゃあザラは自分で食べてよ……私は絶対無理」
「俺も……無理じゃないけど、正直きつい……」
拓海は顔をしかめながら言う。
目の前の肉片は既にアミラが調理を始めていた。
彼女は倒木の間に小さな焚き火を起こし、
切り分けた蚊肉と、なぜか翅まで金串に刺して炙っていた。
──ジュウゥ……。
脂が滴る音が、思いのほか美味そうで腹が立つ。
しかもアミラは時折、
串をくるりと回しながら鼻をクンクンと鳴らし、
無言で満足そうに頷いていた。
(……この人、楽しんでるぞ)
拓海は汗を拭きながら思う。
「ねえ、翅って……食べるの?」
セファの質問に、アミラはこくんと頷く。
「食うのか……」
「食うんだ……」
一同、静かに言葉を失う。
ザラが肩をすくめて言った。
「ま、食う食わねぇは自由だけどな? 俺は食うぜ。意外とうまいかもだし」
「それ、“毒がなければ”の話でしょ……」
セファは膝を抱え、顔を背けた。
──ジュッ……パチパチ……。
焚き火で炙られた蚊の肉が、脂を滴らせながらこんがりと焼き上がる。
アミラは無言で串を持ち上げ、
ほんの少しだけ香りを確かめ──ひと口。
──もぐ。
咀嚼、そして静かな頷き。
満足げにうんうんと二度頷くと、
そのまま、隣の拓海に串を突き出した。
「……え」
拓海は、一瞬で察した。
(まさかの“君も食え”ターン……!)
「……あ、いや、俺は……」
アミラは返事を待たない。
腕は止まらず、ただじっと彼を見つめている。
ザラが楽しそうに煽る。
「お、男なら食っとけ! こいつで一人前だぞ?」
セファは目を伏せたまま、小さく震えている。
(……逃げ場ねぇ……)
拓海は覚悟を決め、
ゆっくりと串を受け取った。
まだ温かい、串の先には、
焼けて褐色になった蚊の肉──
虫だとは思えない、奇妙に美味そうな焦げ目がついていた。
「……いただきます……」
小声で呟いて、ひと口。
──むぐっ。
繊維は細く、しっかりしている。
脂は少なく、皮はほんのりカリカリ。
そして──
(……エビ? カニ? なんか甲殻類っぽいな……)
だが、明確に“何かが違う”。
うっすら泥臭く、内臓の名残なのか、後味に“にがみ”が残る。
「……」
飲み込む。
口の中に、異世界の余韻がまとわりつく。
「……正直、美味くはねぇ。けど──食えなくは、ないな」
ザラが肩を叩いて笑った。
「だろ!? 俺もそう思った! 海老っぽいけど、なんか薄いんだよな!」
セファが距離を保ちつつ、
そっと問いかけた。
「……ホントに大丈夫? 気分悪くなってない?」
「ん、大丈夫。たぶん……俺、昔もっと変なもん食ったことあるし」
思い返せば、大学の課題旅行先で食べた“塩漬けのゲテモノ缶詰”。
あれよりは、数段マシだった。
アミラは満足そうに拓海を見て、
静かにもう一本、串を炙り始めた。
──パチ、パチ……
焚き火の上で炙られたのは、
一本の串に重ねて刺された巨大な蚊の翅。
透明だった膜は火で縮み、
やや茶色がかった飴色に変わっていた。
アミラはそれを器用に持ち上げ、
満足げに香りを嗅ぐと、
またもや──無言で拓海に差し出す。
「……マジか……」
さっきの肉はまあ、何とか飲み込めた。
だけど“翅”は……構造的に完全に虫。
ザラが笑う。
「お、こっちはお菓子感覚かもな? 食ってみろ食ってみろ!」
「食わせる気満々かよ……」
逃げ場のない状況で、
拓海は覚悟を決めた。
(……ここまできたら、もういいや)
カリッ。
一口かじる。
──パリ……サク。
「……ん?」
咀嚼の瞬間、意外なほど軽い。
舌触りに嫌なザラつきはなく、
むしろ“薄く焼いた昆布”のような香ばしさが口に広がった。
そして何より──
「……うまい……?」
つい口に出ていた。
アミラがこくこくと力強く頷く。
セファが遠巻きから呟く。
「え……うそでしょ……?」
ザラが爆笑する。
「なー!? 言ったろ!? 火を通せば虫はうまいって!」
拓海は手元の翅をまじまじと見つめながら、
もう一枚、ポリリと噛んだ。
──うん、これは本当に“おやつ”だ。
「……こっちメインでいいわ。
なんなら、これだけ持って帰ってもいいくらい」
ポリ……サク……。
「うん、これは……普通にうまい」
拓海は串の翅を半分ほどかじったところで、
思わず声に出していた。
火で炙られてパリパリになった蚊の翅。
まさかの“おつまみ感覚”の味わい。
その様子を、
セファは少し離れたところから見ていた。
布で口を覆い、じっと。
「……」
戸惑いと、興味と、恐怖。
だが──拓海の自然な表情と、
アミラの無言の自信に背中を押されて、
彼女はそろりと近づいた。
「……拓海くんが“美味しい”って言うなら……」
手を伸ばし、
まだ焼かれていた一本の串から翅を一枚つまみ取る。
「あー……これはもう……見た目を考えたら負け……」
小さく呟き、
震える指でそれを口元に運ぶ。
──パリッ。
口に入った瞬間、
目がわずかに見開かれた。
「……あれ?」
静かに咀嚼。
ほんのりした香ばしさと、
予想外の軽さが舌をなでる。
「……っっふ、ふふ」
「……?」
「見た目はアレだけど、なかなかいけるね……!」
にっこりと笑うセファ。
拓海が思わず「だろ?」と笑い返すと、
ザラが両腕を組んでふんぞり返った。
「ったく、あたしの言うことって信じられてねぇよなぁ、ほんっと」
「信じてたら毒キノコも食べそうだからでしょ……」
「ぐっ……否定はできねぇ!」
アミラは、
何も言わず、また一つ翅を口に入れ、
静かに咀嚼していた。
焚き火のそばには、
ほんの少しだけ──
“旅の仲間”らしい温もりが広がっていた。
ー ー ー
昼の陽射しは、
湿地の森に届かぬまま空を滑っていた。
小高い場所に設けた仮の休憩地。
火は少しだけ残され、蚊の翅の香ばしい匂いが微かに漂っている。
「……っし、限界……寝る……」
ザラが串を口にくわえたまま、
背中からどさりと倒れ込んだ。
「……あー、ザラ寝相悪いんだよなぁ……」
セファはぼやきながらも、
その隣に身を丸めるように横になる。
「じゃあ、見張りはよろしくね……拓海くん、アミラさん……」
「あぁ、任せといて」
返事をした直後、
セファもすぐにまどろみに落ちていった。
その場に残ったのは──
拓海とアミラ。
湿った空気に、虫の羽音はもうない。
拓海は腰のクロスボウに手を置き、
周囲の木々をじっと見回した。
茂みの向こうには何も見えず、
それでも、何かがこちらを“見ている気配”は拭えない。
「……静かだな」
そう呟くと、アミラがぴくりとだけ反応した。
無言。
ただ──彼女は口元に何かを運んでいた。
蚊の翅。
焼かれたそれを、ひとつずつ丁寧に食べている。
(……見張り中でも翅、食べんのか……)
だが、彼女の視線は森の中を捉えたまま。
一瞬たりとも油断していないのがわかる。
「……なあ、アミラ」
話しかけてみた。
返事はない。
だが、彼女はちらりと拓海の方に目を向け、
一度だけ──小さく、こくりと頷いた。
(……あれで“聞いてる”のか)
不思議な会話だった。
だけど、これが彼女なりの信頼なのだと思った。
森の湿気に、焚き火の残り香と、せんべいのようなパリパリ音。
異世界の昼下がりは、
奇妙に安らかだった。
ー ー ー
火の名残が残る静かな空気の中で、
拓海は無言のまま周囲を警戒していた。
アミラはいつものように寡黙に、
しかし絶えず視線を巡らせながら、
残った翅を口に運んでいた。
その時だった。
彼女がそっと、足元の泥を指先でなぞる。
しゃっ──しゃっ──。
やがてそこに、何かの文字列が現れた。
「……?」
拓海はそれを覗き込む。
だが──
「……読めない」
文字は、明らかに“何かを伝えるための文”だった。
整っていて、意図的に並べられた記号。
だが拓海にとって、それはまったく理解できない線の連なりだった。
アミラが、視線を向ける。
無言だが、わずかに眉を寄せる──"やはりな"と告げているようだった。
そこで拓海の脳裏を、
氷のような違和感が突き抜けた。
「でも、俺……」
口に出す。
「俺、君たちと……ずっと普通に話してたよな?
会話して、言葉が通じて……」
そうだ。
この世界に来て以来、誰一人と“言葉の壁”にぶつかっていない。
ザラとも、セファとも、アミラとも──
みんな、当然のように“日本語”で会話しているように感じていた。
だが今、
こうしてアミラが書いた文字が読めないことで、
その事実が初めて浮き彫りになった。
(なんで──?)
本来なら、彼女たちは全く別の言語を使っているはずだ。
なのに──
言葉は聞こえるし、理解できる。
でも、文字は読めない。
(……俺、いったい何で“会話できてる”んだ?)
寒気が背筋を這う。
ずっと日常のように馴染んでいた“会話”という営みが、
一気に“異常の証”として浮かび上がる。
アミラはじっと拓海の表情を見つめていた。
「……読めない、はずだったのに」
拓海はもう一度、アミラが書いた地面の文字を見下ろす。
先ほどは、意味のわからない記号にしか見えなかった。
けれど今──それは、かすかに“日本語のように”読めた気がした。
──『アナタ コノセカイ キタ トキ ナニ ミタ?』
歪んだカタカナのような線が、脳の奥で“翻訳”されるように滲む。
「なん、で……?」
視界の端がわずかに揺れる感覚。
背筋を冷たいものが這い、
まるで何か“知らないもの”が自分を通して覗いているような──
(さっきまでは読めなかった。
でも今は……何となく意味が浮かぶ……?)
拓海は自分の手のひらを見る。
何も変わっていない。
けれど、何かがすでに“始まっている”ことだけはわかった。
アミラはそんな拓海の動揺を黙って見つめ、
地面の文字をそっと拭い去ると──
再び無言で、周囲に警戒を戻していた。
まるでそれ以上は“触れてはいけない”と言うように。
言葉は通じる。
文字も、読めそうで読めない何かに変わりつつある。
(……俺の中で、何かが……)
だがその正体には、
まだ拓海自身も、気づいていなかった。
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