第7話

夜の空。星は出ていない。

だが、焚き火の灯りが、拠点の中心に小さな円を描いていた。


輪の内側には女たち。

そしてその中心には──一人の男、新入りの拓海。


「まったく、こっちは死人出ててもおかしくなかったのに、

 こいつだけ“歓迎会二回目”ってどういうことだよ」

ソフィアがスープの木椀を片手に文句を言う。


「二回目……?」

拓海が首を傾げる。


「一回目は、昨日やる予定だったのよ」

ミルラがふふっと笑う。


「けど、あの戦いで流れちゃったの。だから──やっと、ね」


木の器に盛られているのは、

薬草入りの簡易スープと、昼間仕留めた肉を干し焼きにしたもの。

どれも質素で、栄養がギリギリなほど。


けれど──

なぜか、温かかった。


「んじゃ、新入りの門出に、乾杯だな!」

ベルモットが声をあげると、

あちこちから木椀が掲げられる。


「乾杯──!」

「おめでとー」

「ま、死ななかっただけでも大したもんだよ」


笑い声。

その中に、明確な“拒絶”の空気はなかった。


リィナがそっと拓海の横に座って、肩を寄せる。


「……タクミって、名前変わってるよね。どんな意味?」


「え? ああ……“海を拓く”って字で、“拓海”」


「へぇ……かっこいい」


言われ慣れていない褒め言葉に、拓海はちょっとだけ顔を赤らめた。


遠巻きに座っていたネリアは、

小さくスープを啜りながら、焚き火を見つめていた。


その視線の奥には、

たぶん──過去に見送った仲間たちの姿があったのだろう。


火がぱちんと弾ける。


「……ありがとな」

拓海は、皆に向かってそう呟いた。


「こういうの……ちょっと、しみるな」


静かに、火の粉が宙に舞う。


新しい仲間として、

ようやくここに“座る”ことができた夜だった。


宴もひと段落し、焚き火の火が少し落ち着いたころ。

拓海が腰を下ろし、背中の汗をぬぐっていると──


「おい、新入り」


低くて太い声が背後からかかった。


振り返ると、そこにはヨミが立っていた。

手には、たたまれた布の束。


「お前、それ……着てられたもんじゃねぇだろ。

 もう半分は破れてるし、もう半分は臭い。あと、泥」


「うっ……言い返せない……」


「んで、これ」


彼女が差し出したのは、

濃い赤と黒の縁取りがされた、薄手の中東風チュニックとズボンのセット。


布は丈夫で、風通しがよく、動きやすそうだった。


「これ、俺に……?」


「着ろ。

 あたしが昔着てたやつ。今はちょっと肩回りがキツいんでな。

 捨てるには惜しいが、使う奴がいるなら話は別だ」


ありがたく受け取り、拓海は広げてみる──


「……でけぇ……!」


「そりゃそうだろ。

 お前、あたしより身幅も肩も腹も細ぇもんな」


「いや、言い方ぁ!」


「とりあえず、今日はベルトで締めとけ。

 後でお得意の“チクチク”で直しゃいいさ」


拓海は思わず笑った。


「……うん。俺、手芸だけは得意なんだ。

 こういうの、むしろ楽しみかも」


「ふっ。じゃ、期待しとくぜ。

 “似合うかどうかはお前次第”だからな」


そう言ってヨミは背を向け、

仮設テントのほうへ歩いていった。


焚き火の灯りに照らされた赤い布は、

不思議と温かく見えた。


拓海は、軽くその布を胸に抱いた。


焚き火の灯りが、地面にゆらゆらと揺れていた。

誰かがスープを啜る音。

誰かが笑う声。

誰かが、小さく歌を口ずさんでいる。


──その輪の中で、拓海は眠気と戦っていた。


「……だめだ、意識が、もってかれる……」


まぶたが重い。

腕も、脚も、じわじわと鉛のように沈んでいく。


そこへ、そっと肩を叩く手があった。


振り返ると、ミルラが静かに立っていた。


「今日はもう十分よ。見回りは他の子がやる。

 あなたは寝なさい。……がんばったわね」


その言葉に、拓海は微笑んで頷いた。


「……うん。ありがとう」


立ち上がると、身体がきしんだ。

今日一日で、どれだけの疲労が溜まったのか、今になってよくわかる。


「おやすみー」

リィナが手を振ってくる。


「寝てる時に足と腕には気をつけろよ!隣で寝てるやつを殴るなよ?」

ソフィアが冗談めかして言う。


「……寝相はいい方です」

拓海はぼやきながら、テントへと歩き出す。


薄く修繕された布の寝床。

まだボロいが、今はそれが不思議と落ち着いた。


横になった途端、深い疲労が全身を包む。


目を閉じる前、ふと思う。


(今日、いっぱい“生きた”な……)


──そして、拓海は静かに眠りに落ちた。


夜風が、テントの布を軽く揺らしていた。



ー ー ー



──あたたかい光が、まぶた越しに差し込んでくる。


拓海はゆっくりと目を開けた。

昨日の激しさが嘘のように、テントの中は静かだった。


「……あれ……早朝当番、今日はないんだっけか……」


天井に張られた布は、ところどころほつれていたが、

陽の光が滲むその様子は、不思議と居心地がよかった。


身体を起こす。

全身が重い。だが、痛みは“昨日よりも少しだけ遠かった”。


外に出ると、ひんやりした朝の空気が頬を撫でた。


焚き火の跡地からは、まだ微かに煙が昇っている。

火の番をしていたらしいネリアが、無言で灰を整えていた。


「……おはよう、ございます……」


拓海が声をかけると、ネリアは一瞬だけこちらを見た。


「起きたか。……遅くはない。まだ、朝だ」


それだけ言って、再び灰へと視線を戻す。


(……やっぱ、あの人独特だな……)


拠点の一角では、リィナがあくびをしながら頭に巻いていたバンダナを整えている。


「おはよ、タクミー。……昨日、寝てるときめっちゃゴロゴロ言ってたよ」


「……え、俺そんなに……?」


「うん、ネリアさんが“獣かと思った”って」


「ええ……」


笑いながら、リィナは木の器を取りに行く。


別のテントからは、ミルラがゆっくりと姿を見せる。

寝癖もなく、淡々と朝の作業に入ろうとしていた。


「……よく眠れた?」


「はい。昨日が濃すぎたので……逆にぐっすりと」


「ふふ、それなら良かった」


拠点に、少しずつ人の気配が満ちていく。


鍋に水を汲む音。布を整える手。朝の風と、焚き火の残り香。

拓海は、深く息を吸った。


心地よい疲労感と、微かな緊張感が、身体の中で共存している。


焚き火の横、日差しがちょうど差し込む場所。

拓海は地面に敷いた布の上に、ゆっくりと針と糸を並べていた。


ヨミから譲られた赤と黒の衣装。

軽くて動きやすいが──やはりサイズが合わない。


「……まあ、俺の体型だと、こうなるよな」


チュニックの脇は明らかにダブつき、

ズボンの腰回りも落ちてくる。


(まずはベルトで応急処置。次に縫い留めだ)


拓海は持っていた細い糸を指に巻きつけ、

丁寧に針に通した。


かつて趣味で覚えた刺繍と服飾。

その技術が、今ここで“生きるため”に使われるとは思ってもいなかった。


「……よし、いける」


針が布を貫く。

ギュッと絞った布を留め、細かく縫い進める。


無駄口はなし。

集中。呼吸。手の角度。縫い目の均一さ。

全てが、“生き残るための作業”だった。


気がつけば、周囲の視線を感じる。


少し離れた木陰で、リィナとソフィアがこっそり見ていた。


「……やば、あいつ細けぇ」


「あの縫い目……かなり丁寧じゃん」


リィナがくすくす笑い、ソフィアは軽く舌打ちした。


「まあ、いい。

 そのうち、“あたし専用の戦闘服”とか縫わせてやるか」


「わっ、横暴~」


拓海はそれを聞こえているのかいないのか、黙々と手を動かし続けた。


縫い目が、ひとつ、またひとつと進んでいく。


「……できた」


拓海は最後の縫い目を締めて、糸を切った。

ヨミから譲り受けた衣装──

ダボついていた脇や裾は、今ではぴたりと身体に沿っていた。


立ち上がって、そっと袖を通す。


「……おお……ちょうどいい」


薄い布が風を通し、動きも軽い。

この世界で初めて、ちゃんと“身体に合った服”を着た気がした。


だが──


「さて……問題はコイツだ」


手元にあるのは、白と赤の縁取りがされた布──

シュマグ。


見様見真似で、後頭部にまわして、顔を覆って……とやってみるものの、


「……ぐっ……片手が余る……あれ?こっちの端……どこいった……?」


布が崩れ、後ろが垂れ、前もずり落ちる。


そのときだった。


「……ちょっと貸しな」


背後から、落ち着いた声。


振り向くと、そこには──

団長、ウィンストンがいた。


いつの間に来たのか、手には自分と同じシュマグを持っている。


無言で拓海の頭に手を伸ばすと、

崩れた布を一度解き、さっと巻き直し始めた。


「布の角は後ろで結ばない。

 風が吹いた時に、逆らわず逃がす形がいい」


手際よく巻き、

首元のたるみを整え、最後に額のあたりで軽く布を折る。


「──はい、できた。……似合ってるじゃない」


拓海は思わず手で額を触った。


「……ありがとうございます。

 なんか……この世界の人間になった、って感じがします」


ウィンストンは、ほんの少しだけ笑った。


「……服ってのは“属する意思”の現れだ。

 その布が浮かないように、生きていきな」


それだけ言って、

彼女はまた何事もなかったかのように離れていった。


焚き火のそばに戻ってきた拓海は、

直した衣装に身を包み、シュマグも頭に巻いていた。


その姿を見た瞬間──

団員たちの視線が一斉に向けられた。


「おおっ、誰かと思ったら!」

ベルモットが肉をひっくり返す手を止めて、

ニヤリと笑った。


「なんか……それっぽくなってんじゃーん?」


「ホントだ。へぇ~、似合うじゃん」

リィナが口笛を吹くような顔で拓海を眺める。


「これ、ヨミ姉の服でしょ?チュニック、丈詰めたの?すごい丁寧……」


「うん、手芸得意で良かったよ」

拓海が少し照れたように笑う。


その横で、ネリアは無言のままじっと観察していた。


数秒後──

「……布の重心、ずれてない。動きやすく調整してる。無駄がない。……悪くない」


それが彼女なりの最大級の褒め言葉だった。


ミルラは静かに、

「ふふ、昨日よりもずっと“あなたらしい”格好になったわね」

と優しく微笑んだ。


最後に、どこかで見ていたらしいヨミが腕を組んで現れる。


「……へぇ、まあまあじゃねえか」

言いながらも、口元は僅かに緩んでいる。


「自分で手直しして、シュマグもちゃんと巻いて……やるじゃん。

 あたしより似合ってたらぶっ飛ばすとこだったけどな」


「いやいや、ヨミさんは別格ですよ」

拓海が即座に頭を下げる。


「……チッ、可愛げはあるな」


ヨミはひとつ笑って、肩を叩いて去っていった。


焚き火の煙の向こうで、

女たちの笑い声が少しだけやわらかくなった気がした。


拓海は、その空気の中で、

ゆっくりと、深く息を吐いた。


笑い声が落ち着いたタイミングで、

拠点の一角に、ひときわ無言の気配が近づいてきた。


「……クレアさん」


拓海が振り返ると、そこに立っていたのは、

昨日と変わらぬ表情のままの長身の剣士だった。


彼女の手には、手入れの行き届いた革製の胸当てがぶら下がっている。


そのまま、拓海の前に無言で差し出した。


「つけろ。今日は──昨日より、打つ」


その一言に、周囲の空気がぴりりと引き締まった。


拓海はすぐに受け取り、革の感触を確かめる。

しっかりと硬く、内側には薄く詰め物がある。


「ありがとうございます。……装備して、すぐ向かいます」


クレアは頷くと、

無言で訓練場のほうへ歩いていった。


「……いや、今日も死ぬんじゃねーの?」


ベルモットが肉をひっくり返しながら呟き、

リィナが口元を隠して笑っていた。


「頑張ってね、拓海くん」

ミルラは肩をぽんと軽く叩く。


「行ってこい、“訓練生”」

ヨミが皮肉まじりに笑いながら手を振った。


拓海は一度深呼吸し、

シュマグをしっかりと巻き直してから、革の胸当てを締める。


訓練場の中央。

昨日の柔らかい砂の地面には、既に靴跡がいくつも刻まれていた。


クレアが手渡したのは、刃の潰された鉄製の訓練剣だった。

重みは本物。だが、致命傷にはならないように整えられている。


「それで、打ち合う。流れの中で撃ち、受け、動け」


その声に、拓海は剣を構える。


「──合図は出さない。来ると思ったら、動け」


その言葉が終わるか終わらないかのうちに──


カッ!


クレアの剣が、低く切り込んできた。


「うおっ──!」


拓海は剣を横に滑らせて受け止める……が、衝撃が腕を抜ける。


(重っ……!ヤバい、これ──)


次の瞬間、クレアの体が回り込む。


斜め上からの打ち込み。

咄嗟に受けに回るも、剣の角度が甘く──


「がっ……!」


訓練剣が肩を打ち抜いた。

鈍い衝撃。だが倒れない。


「三秒。次」


構える暇もなく──


カッカッ!


剣と剣が交わる。

打つ。受ける。崩れる。踏み止まる。

拓海は数手のうちに汗だくになっていた。


「呼吸が浮いてる。腰が上がってる。剣が目で追えてない」


クレアの言葉が、的確に弱点を突く。


だが、拓海は口を開かない。


(……覚えてる。さっきの角度。ここで入ると潰される……)


再び振られた剣──

拓海はギリギリで回避し、手を返して下段から打ち返す。


クレアの剣が受け止める──鋼が震える音が響いた。


その一手に、クレアの瞳がわずかに揺れた。


「……今のは、悪くない」


初めて、評価に近い言葉。


拓海の呼吸は荒い。

だが、足は前に出ていた。


「もう一度。……今度は、“五手”だ」


訓練は、終わらない。


息を切らしながら、拓海は剣を構えた。

腕がしびれている。

呼吸はとっくに乱れていた。


(……ただ突っ込んだら、何度やっても負ける……)


クレアの動きは無駄がなかった。

一歩、一撃、一瞬の見切りまで、まるで“完成された型”だった。


(でも……完璧ってことは、逆に“癖”もあるはずだ)


さっきの攻防を思い出す。

斜め下からの打ち込みが多い──それは、あの体格からして理にかなっている。

ならば──


「……来るな」


打ち込み。


拓海は受けにいかず、あえて“後ろ足を滑らせる”。


「──ッ」


クレアの剣は空を切り、地面に砂が舞う。


次の瞬間、拓海は右足で地面を蹴り──

クレアの足元の砂地へ、すくうように剣を滑らせた。


(足を止める!)


砂が跳ね、クレアの動きが一瞬止まる。


──そこへ振り下ろす!


「──っ!」


しかしその剣は、真横から飛び込んだクレアの肘打ちで簡単に逸らされた。


「がっ……ぅ……!」


体勢を崩し、地面に転がる拓海。


「創意は悪くない。……でも、読みは浅い」


クレアは剣を下ろし、

そのまま拓海を見下ろした。


「“策”で“剣”を覆すには、もっと深く読め。

 見えたつもりでも、それは一層目だ」


拓海は地面に手をつき、荒い息のまま、顔を上げた。


「……でも、“一層目”には届いたんですよね」


クレアの目が細くなる。


「……ああ。届いた。

 ──悪くない。足元にも、少しは風が当たった」


地面に座り込んだまま、拓海は汗を拭った。

腕はしびれ、息は上がりきっている。


(……これで、やっと……終わ──)


「……では、次は基礎訓練だ」


クレアが言った。


「え……?」


「実戦形式の稽古は終わり。

 だが“剣を振れる体”にはなっていない。

 走れ。押せ。跳べ。這え。

 鍛えろ」


「……ま、まじで……?」


「ほら、立て」


クレアの声が背中に刺さる。


拓海は剣を地面に置き、

ふらつく足で、なんとか立ち上がった。


「……わかりました……!」


次に与えられたのは、

■ 腕立て50回

■ 倒立姿勢で壁押し5分

■ 荷物を背負っての10分走

■ そして腕の筋を鍛える“ロープ引き石運び”


「動きが鈍いのは、鍛えてない証拠。

 “頭を使う剣士”が“身体で動ける剣士”に勝てると思うな」


クレアの言葉は淡々と。


拓海は息を吐き、腕をぶらぶらと振る。


(くそっ……でも、やるしかねぇ……!)


「まずは、腕立て。五十回。

 ……途中で止めたら、一からやり直しだ」


クレアの言葉に、拓海は砂の上に手をついた。


呼吸はまだ整っていない。

腕は既に、剣の重みに震えている。


「──っ……いち、に……っ、さん……」


最初の十回はなんとかいけた。

しかし二十を越えた辺りで、腕が悲鳴を上げ始める。


(重い……!自分の体って、こんなに……!)


顔が砂に近づきすぎる。

汗がぽたぽたと落ちるたび、視界が霞む。


「三十四……っ、さんじゅ……ご……!」


「止まるな。

 剣を受けられる筋肉がない奴に、戦う資格はない」


クレアの声は冷たいが、どこかで“見ている”。


「……よんじゅっ、はっ……!」


最後の十回は、

身体ではなく、意地でこなす。


「……ごじゅっ!」


バタッ、とそのまま地面に倒れ込んだ。


「次。倒立姿勢、壁に向かって」


「まっ、待って……ッ」


「五分。

 支えるのは肩と背中。震えても、倒れたら“倍”だ」


拓海は歯を食いしばり、壁に背を向けて倒立する。

血が頭に上り、視界が真っ赤になる。


「っ……く、ぅ……!」


肩が悲鳴を上げる。

だが、それでも落ちない。──落ちたくない。


(……やるって言ったんだ、俺……!)


──次に渡されたのは、砂袋の詰まった大きな荷物。


「重っ……!」


「それを背負って、周囲を一周。時間は気にするな。

 気にするのは、“足が止まるかどうか”だ」


拓海は息を整え、荷物を背に回した。

膝が一度落ちる。だが、立ち上がる。


「……よし。……走るぞ」


トボ、トボ──そして走る。

地面が軋む。肩に食い込む。背骨が悲鳴を上げる。



ー ー ー



砂の地面に、拓海の身体が崩れ落ちた。


息が、喉の奥で引っかかる。

手足は鉛のように重く、

全身が自分の体重を拒否していた。


(……動けねぇ……って、こういうのを言うんだな)


仰向けに倒れたまま、空を見上げる。

青すぎる空。痛いほどの光。


その視界の隅に、ふいに影が差した。


「……」


音もなく、皮袋の水筒が放物線を描いて飛んできた。

無造作に、しかし正確に、拓海の脇に落ちる。


クレアだった。

何も言わず、すでに背を向けている。


拓海は腕を引きずり、手を伸ばす。

皮袋に指が触れる。滑る。掴み損ねる。


「くっ……」


もう一度、指を這わせて──今度は、しっかりと掴んだ。


「……っ、っ……!」


口に含んだ瞬間、

水は熱を奪うように喉を流れ、

半分ほどをこぼしながらも、拓海は生き返る心地だった。


ふぅ、と息をつく。


汗と砂と水にまみれた顔で、もう一度、空を見る。


(……それでも、やるしかないんだ)


遠ざかっていくクレアの背中が、

ほんの少しだけ、振り返る。


「──……飲めたなら、午後は応用訓練だ」


それだけを言い残し、

剣の鍛錬場のほうへ消えていった。


拓海は、皮袋を胸に抱えたまま、

小さく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る