第50話

 花匂は小さな唇から吐息を漏らし、面倒臭そうに語る。

「物知らずなおまえさまに、どこから話せば良いのでありんしょう。太古よりこの国は皇祖神の結界で護られている、それはよろしいな?」

 ちっともよろしくはないが、話を進めるために清久郎はうなずいた。

「ところが異人が出入りするようになり、港の結界は乱れてしまいんした。おかげで煩雑なもののけや穢れが港にはびこる始末。帝は穢れが居留地から国中に広がることをご案じ召され、浄化に努めるようわっちを遣わされたのでありんす」

「おひぃさまは浄化の気を受け継ぐ由緒正しき高貴な姫君。関白ごときの頼みは聞けませぬが、帝に請い願われては断れませぬからにゃぁ」

 得意げなお玉に苦笑して、花匂が続ける。

「されど、困ったことになりんした。居留地にツテがなかったため、女を隠すなら遊郭の中とばかりにここへ預けられたおかげで、出入りが不自由になってしまいんした」

 ラシャメンの鑑札を使えば港崎からの出入りも可能だろうが、この見るからに華奢で非力な花匂は港との往復だけで体力を使い果たしてしまいそうだ。

 お玉がうなずいて言う。

「うちの弟子の猫たちが見廻りをするものの、性悪な霊もおりますからにゃ」

「そこへおまえさまが穢れを引き受けて来てくださったので、居ながらにして浄化が叶い、感謝しておりんす」

 にわかには納得しがたい面妖な話だ。だが、清久郎自身、幽霊も穢れもこの目で見ているし、それをお玉が喰らうところも見た。

 皇祖神の結界云々のことはわからないが、花匂を疑う理由もない。

「今後もよろしくお頼みいたしんす」

 花匂が殊勝に両手を揃え、にっこり微笑んだ。

「今後も?」

「どうぞご贔屓に」

(俺は、港から穢れを運ぶ運搬係か?)

 馬鹿にするなと言いたいところだが、心の奥底には花匂に会いに来る口実ができて喜んでいる自分がいる。

 そんな心のうちを隠そうと、

「俺はもう二度と、花匂殿の香には騙されぬぞ」

 精一杯虚勢を張るが、花匂には微笑で聞き流された。

「一件落着、めでとうございますにゃ。お仲間の固めの盃とまいりましょう」

 酒好きのお玉が手を打って言うのに、

「いや、今日はさつき殿のことを確かめたかっただけなので、俺はもう帰る」

 清久郎はできるだけそっけなく言い放って立ち上がった。

 花匂は引き止める素振りもなく仮面のように微笑んでいる。どうせ、また理由をつけて来てしまうのは清久郎のほうだと見透かされているのだろう。

 お玉はすでに手酌で飲んでいる。固めの盃など、酒を飲むための口実でさえなかったようだ。


 妓楼を出ると、夜の港崎遊郭は祭りのように賑わっていた。

 異人が殺された事件も、桐生屋の騒動も、もう誰も気にしていないかのようだ。

 通りから、五十鈴楼の二階を振り返る。

 さすがに血に塗れた表座敷の一室はまだ閉ざされているようだが、灯だけはともされている。

 夜風が吹き、どこからか三味線と陽気な笑い声が聞こえる。

 屋根の上に、雲間の月が顔をのぞかせた。


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港崎猫又花魁帖――みよざきねこまたおいらんちょう―― 宮乃崎 桜子 @sakurako38

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