"四季" 作:ひかげ
@cac_scenario
四季
午前 6 時の陽光。ピカピカと煌めくタイル道は、視覚過敏には綺麗を通り越して少々ぎらついている。タコ公園の横の駐輪場、たまに犬の散歩が通るだけの静かな朝である。私は暇を持て余しては手元のティッシュを裏返し、誰が作ったのだか知らぬ「夏期講習会!無料参加」という野暮ったいフォントを眺めていた。
公園の木陰からスッと赤い自転車がやって来る。ギンガムチェックをひらめかせて、真新しい校章がちかりと輝いた。向かいの私立高校の正門を目掛けて、自転車の重心は左に大きく傾いた。緩やかなカーブがちょうど頂点に達するそのとき、キュイッと甲高い音がして彼女は横転した。
その子は直ぐに立ち上がりそそくさと校門に吸い込まれて行った。一連の出来事は画面越しに見た景色のように遠い光景だった。
かれこれ一刻ほどここに様子を伺っているが、あのカーブを曲がり切った猛者とは未だにまみえていない。寒の入。古いタイルは薄い氷の膜を張って生き生きとしている。今ので通算 5 度目のスリップ___あっ、まただ。訂正、本日 6 度目のスリップである。まこと私立通いの少年少女は気の毒というものだ。片や土曜の朝から冬の残り香に足を取られているというに、私ときたら分厚いダウンで突っ立っているだけでお金が貰えるのだから。健康に生んでくれた両親には感謝しなければ。年中 T シャツでちょこまかしていた基礎代謝の塊みたいな子を知っているだろう、あれが私だ。
塾講習のティッシュ配りのピークは 7 時を過ぎてから。私がうつらうつらしていたって今だけは誰も気を留めない。
しかし小さなバカンスはすぐに壊された。一つ向こうで信号待ちしていた誰かが、こちらを目掛けて歩んでくる。小奇麗なカーディガンにくすんだ色の髪飾り、まさしく良い年の取り方といった風貌のおばあちゃんだった。どうしてだか意思を持って私のもとへやってくる。
「もし、あなたのためにお祈りさせて下さる?」
にわかに鳥肌が立った。重々念押しさせていただくが私はごく一般的な日本国民であるからして、新年には神社へお参りしハロウィンクリスマスでバカ騒ぎしては寺でお線香を上げる。いくらアニミズムをはじめ異邦神大歓迎なジャポネーゼでも、お里の知れない振興宗教をいざ相手にすると詐欺を疑ってしまう。
だがご存知お人好しなジャポネーゼ、頼まれてノーと言えないのも立派な日本人の特徴である。この人は押せば倒れるような小さなおばあちゃんであった。澱みのない黒目をきらきらさせているものだから、ウンと応える他どうしようもなかった。
「じゃあ目を閉じて黙禱してね。あなたが落ち着くもの、何でもいいから思い浮かべていて。」
実際の所私はうっすら目を開けていた。よもやこのおばあちゃんが陽動で、裏でどこからか湧いて出た仲間が私の荷物を盗んでいくつもりなんじゃなかろうかという不安が拭えなかったのだ。現実はそんなドラマチックではなく、私はただおばあちゃんと向かい合っていただけであった。
「これでおしまい。ありがとうね。あなた何だか思いつめた表情してらっしゃったから、ごめんね急に」
そうして興味が湧いたらここに、とお待ちかねの名刺がにゅっと差し出された。お返しに一つもらわせて、とおばあちゃんは私のティッシュを手に取る。高校生向け夏期講習会のチラシ入りティッシュ。あまりにも馴染みがなかったのだろう、おばあちゃんはどうも奇妙なものを見る顔をして、それでも礼節のために「ありがとう」とだけ発し帰っていった。
実に奇妙な 5 分であった。
しばらくして私の脳みそはまた小旅行へと旅立った。あれよあれよという間にティッシュは減っていき、私のちょっとしたバイトが終わる。自転車のロックを外し帰路につく。はやくいえにかえりたい。
帰り道は昨年の市の予算調整のために改修されており真新しい。ザラザラとした凹凸があって、凍ったとて滑りそうにない好路である。ちょうど横の信号が青くなったのでペダルを踏みこんだ。ハンドルを優しく左に引いて、点字ブロックに差し掛かった。
キュイッ
点字ブロックはタイヤの軌道を変えておいて素知らぬふりで鎮座している。なんだか急に凍えてしまって、それで芯があったかくなった。
ああ、あのばあさん魔女なのだ。やっと私にも冬を運んできた。
擦り傷は麻痺して若干の温かみさえ感じた。指先はすっかり冷え切って、手袋がただの風除けの役割しか果たさなかった。満身創痍で自転車を押す。寒の入。一年で最も寒い日である。
"四季" 作:ひかげ @cac_scenario
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